特捜最前線日記

特捜最前線について語ります。
ネタバレを含んでいますので、ご注意ください。

第426話 海外特派員殺人ミステリー!

2008年08月02日 00時14分38秒 | Weblog
脚本 佐藤五月、監督 宮越澄
1985年7月31日放送

【あらすじ】
ある雨の夜、刑事有志の勉強会に講師として招かれた米国人記者が、自宅マンション近くの歩道橋から転落死を遂げた。目撃者の証言から、記者が何者かに突き落とされたこと、記者が転落の直前「さ」で始まる叫び声を上げていたことが判明する。マンションの管理人夫婦に事情を聞くが、記者は親日派で知られており、日本人の恨みを買うとは思われないという。また、記者の部屋に飾っていた写真から、勉強会にも訪れていた女性記者(日本人)と交際していることが判明する。
記者の持っていた傘は女物であり、内臓に内出血の跡があったことから、女に傘で脇腹を突かれたのではないかと推測する紅林。女性記者を尋問したところ、傘で突いたことは認めたものの、転落死との関わりは否定する。その動機は、勉強会の帰りに「父に会って欲しい」と記者に告げたところ「可愛そうな親父さんとかい?」と揶揄されたためだという。貧しかった女性記者の両親は、苦労して娘を大学まで行かせた。だが、そのことを誇らしげに語ったとき、記者は「子供を大学に行かせることで中流階級の仲間入りか?可愛そうな両親だ。その金で自分の人生を楽しめばよかったのに」と嘲笑したという。愛の告白のつもりの言葉に、両親への侮辱で返されたことで、女性記者の怒りが爆発したのだ。被害者の爪には犯人を引っ掻いた跡が残っていたが、その傷跡がないため女性記者の無実が証明される。
記者の葬儀の日、親しかったはずのマンションの管理人夫婦が来ていないことに疑惑を覚える紅林。念のために調べたところ、管理人が事件当夜の行動について嘘をついていたことが判明。右腕に包帯を巻いていることからも疑惑は深まる。かつてボルネオで米軍の捕虜になっていたという管理人と、その勤勉ぶりに尊敬の念を抱いていたという記者。仲が良かったと言われる二人の間に、殺意が芽生える余地があったのだろうか?
紅林の調査によると、記者は日本向けには「アメリカも日本人の勤勉さを見習うべき」と書きながら、同国人に対しては、学歴偏重や中流意識、住宅事情の劣悪さなど、日本人の欠点を厳しく批判していたという。管理人の妻に聞き込んだところ、三人の子供を大学に行かせるために休みもなく働いた挙句、貯金もなく「ウサギ小屋」のような部屋にしか暮らせない管理人の人生を、記者は「それで満足?」と哀れんだという。悔しがった管理人は、後日、郊外に自宅を持つ息子の家庭に記者を招待した。しかし、記者はそこでも、ローンに追われ、妻が内職に励む息子夫婦の暮らしを「信じられない」と嘲笑したという。
管理人の軍隊での階級が曹長=サージェントだと気づいた紅林は、管理人の包帯の下に傷跡を確認。紅林の追及に、管理人は全てを告白する。「自分のことならともかく、息子までバカにされて許せなかった」その怒りは、あの夜、歩道橋で出会った際の一言で爆発した。脇腹の傷を気遣う管理人に対し、記者は「PW(Prisoner of War=捕虜)の世話にはならん」と言い放ったという。「曹長殿、あなたは戦地ではアメリカのPW、今は日本のPW。楽しむことを忘れたPWなんだよ」思わず記者を突き落とした管理人の行為を、誰が責められるだろうか。「あの男は、上辺ではニコニコしていながら、本音では日本人を軽蔑していたんだ!」管理人の言葉が紅林たちの胸に重く響いた。

【感想など】
今回の感想は、アメリカ人の方や親米派の方には不愉快に感じられるかもしれない(いや、たぶん不愉快に思うであろう)内容になっていることを、予めお断りしておきます。その点を踏まえてお読みいただけますようお願いします。

戦勝国・アメリカの驕りと、我々日本人に対する隠し切れない侮蔑の想いを鋭すぎるほど鋭く描いた一本。女性記者はこんな裏表のある外人のどこが気に入ったのが不思議でならず、内臓が出血するほど脇腹を突いて傷害罪に問われないのも不思議でなりませんが、脚本の佐藤氏にとっては、とにかく日本人に対するアメリカ人のえげつないまでの優越感さえ描ければそれで満足だと思われるので、そうした瑣末な疑問は全く問題ありません。(記者にあれだけこき下ろされても友人づきあいをしている管理人のガマン強さもある意味信じられませんが、仕事上の付き合いだと思えばどんな屈辱にも耐えられるのも日本の強みであり、また欠点でもあるので、そこは問題なしとしましょう。)

紅林や神代課長は、「外国人の二面性に気をつけろ」ということでまとめていますが、アメリカ人だけでなく「親日派」とか「日本びいき」とか訳知り顔で主張する外国人を信じるのが、そもそもの間違いではないでしょうか?ファッション、あるいは芸術などとして、日本文化の一側面が外国人に受け入れられ、時にもてはやされることはあっても、日本人の美意識や価値観が、そのまま異なる文化に受け入れられることなど期待する方が間違いです。
特に、広大な土地を背景に、建国以来の肥大した個人主義が幅を利かせるアメリカで育った連中に、狭い島国で譲り合って生きていくため、周囲の顔色をうかがう習慣を半ば宿命的に背負わされてきた日本人の気持ちなど、分かるはずがないのです。ましてや、先の大戦の関係を踏まえて考えれば、戦勝国が敗戦国、占領国を見る目に見下した態度が込められるのは当然のことであり、極論を言えば「全てのアメリカ人は日本人をバカにしている」と考えても差し支えありません。アメリカ人と会うときは、このことを忘れないようくれぐれも注意してください。(何様だ?)

今回のエピソードでは、日本の欠点の一つとして住宅環境の劣悪さを上げていますが、本来、国土の広さや人口密度は、それぞれの国の優劣を決めるファクターになりえるものではなく、「国民一人あたりの住宅の広さ」が米国>日本となることは単なる地理上の必然であって、何ら両国間の優劣を語るものではないはずです。もちろん、広い家に住みたいというのは、国籍や人種、文化を問わず、(一部のへそ曲がりを除いて)ほぼ共通の願いでしょうが、生まれた国の地理的な環境による差をことさらに取り上げ、「ウサギ小屋に住んで可愛そう」などと嘲笑されるいわれは全くありません。狭い家に住んでいるのは、私たちが貧しいからではなく、国土が狭いがゆえの必然であり、そのことを何ら恥じる必要はありません(さらに言えば、貧しさすれ恥じる必要もありません)。むしろ、相手の気持ちを慮ることなくズケズケと物を言い、他人のプライドを傷つけても平気な厚顔無恥な態度こそ恥じるべきであり、そんな輩に対しては「日本人は時として、誇りのために死ぬことも厭わぬ」ことを教えてやる必要があるのではないでしょうか?
舐められていることが分かっている相手に笑顔で応対するということは、「舐めてください」と言っているに等しいわけですから、対等な関係など築けるはずがありません。もし、こうした態度を取る人(あるいは国)と友人関係を築きたいのであれば、「舐められっぱなしではいない」、せめて「舐めないで欲しい」とはっきり態度や言葉で示すことが、絶対に必要なことだと思います。日本という国が、これ以上国際社会でバカにされないためには、そうした毅然とした態度が必要であり、それは日本政府の外国政府に対する態度だけではなく、仕事やプライベートで外国人と接する際の、私たち一人ひとりの態度にかかっているのではないでしょうか。