今週は、赤磐市周匝の”城山公園まつり”に参戦いたしました。
本日の“礼射”隊員 「お見事!でした。」
ここ周匝でも“伊勢海老”はインパクト大です。
周匝茶臼山城のあったところです。
築城時期は天文年間(1532年 - 1555年)初め頃とされています。
茶臼山(標高約180メートル)は、吉井川本流と吉野川の合流地点である。備前東部と美作東部の接点であり、周匝平野、飯岡平野を一望できる備前北東部の要衝で、浦上宗景の拠る天神山城の北7キロ程の所。
天神山城の上流を守る拠点としての存在価値が高かった。
城郭の形態は連郭式。
2つの尾根上に総延長約800メートルにわたって土壇築成と削り出しによって城郭施設が構築、本丸は東南に向って広い楕円形をなし、二の丸はその西続きの山頂に、他に出丸・太鼓丸・空堀・井戸・小池・土塁などの跡が遺り、
当時として相当の防備を持つ代表的な山城である。現在も比較的に良好な状態で遺存している城址です。
城の変遷としては、
1579年(天正7年) - 宇喜多氏の美作侵攻により、落城。
1584年(天正12年) - 毛利元清が民政充実のため茶臼山へ移城。
1587年(天正15年) - 豊臣秀吉が、九州征伐に引き続いて征韓の役で三度往復の途次、再三立ち寄った史実があり、また長府藩主毛利秀元との由縁も深い。
1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いに西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで16年間在城。
江戸時代には備前池田藩が周匝に一族で家老の池田伊賀守(片桐池田家)を配置し、陣屋を構えていた。
さて、本日の演武では、士筒で初めて”浮舟”と呼ばれる射法にも挑戦いたしました。
その当たりの画像等はまた後ほどUPされるのでは。毎回緊張の連続です。
そして、今回の演武から100匁大筒が。
こちらも今後楽しみの一つです。
まつりの関係者の皆様、鉄砲隊の皆様お疲れ様でございました。
来週は、”新庄がいせん桜まつり”に出陣です。
本日の“礼射”隊員 「お見事!でした。」
ここ周匝でも“伊勢海老”はインパクト大です。
周匝茶臼山城のあったところです。
築城時期は天文年間(1532年 - 1555年)初め頃とされています。
茶臼山(標高約180メートル)は、吉井川本流と吉野川の合流地点である。備前東部と美作東部の接点であり、周匝平野、飯岡平野を一望できる備前北東部の要衝で、浦上宗景の拠る天神山城の北7キロ程の所。
天神山城の上流を守る拠点としての存在価値が高かった。
城郭の形態は連郭式。
2つの尾根上に総延長約800メートルにわたって土壇築成と削り出しによって城郭施設が構築、本丸は東南に向って広い楕円形をなし、二の丸はその西続きの山頂に、他に出丸・太鼓丸・空堀・井戸・小池・土塁などの跡が遺り、
当時として相当の防備を持つ代表的な山城である。現在も比較的に良好な状態で遺存している城址です。
城の変遷としては、
1579年(天正7年) - 宇喜多氏の美作侵攻により、落城。
1584年(天正12年) - 毛利元清が民政充実のため茶臼山へ移城。
1587年(天正15年) - 豊臣秀吉が、九州征伐に引き続いて征韓の役で三度往復の途次、再三立ち寄った史実があり、また長府藩主毛利秀元との由縁も深い。
1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いに西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで16年間在城。
江戸時代には備前池田藩が周匝に一族で家老の池田伊賀守(片桐池田家)を配置し、陣屋を構えていた。
さて、本日の演武では、士筒で初めて”浮舟”と呼ばれる射法にも挑戦いたしました。
その当たりの画像等はまた後ほどUPされるのでは。毎回緊張の連続です。
そして、今回の演武から100匁大筒が。
こちらも今後楽しみの一つです。
まつりの関係者の皆様、鉄砲隊の皆様お疲れ様でございました。
来週は、”新庄がいせん桜まつり”に出陣です。
今日は昨日と打って変って、朝から土砂降りの雨です。
ホント、岡山城鉄砲隊、「天」を味方に付けますね!
そして朱武者様、前立てが変わってはります?
それとここだけの話ですが、大砲も....。
天をも味方にする、恐るべし鉄砲隊でございます。(笑)
大手前通りでは許可されなかったようです。