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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 岐阜県旧萩原町(下呂市)

2020年03月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧益田郡萩原町(はぎわらちょう)は岐阜県中部・飛騨地方の南部に位置した町です。益田郡小坂町、下呂町、馬瀬村、大野郡宮村、久々野町に隣接。南飛騨総鎮守町の中央を飛騨川が流れ、周囲は1000メートル級の山に囲まれており、昔から益田郡の政治・文化の中心地として栄えてきました。町内には天下十刹(じっせつ)の一宇「禅昌寺」や、南飛騨総鎮守「久津(くづ)八幡宮」を擁し、また下呂総合庁舎や下呂警察署などの機関も置かれています。「町の木:イチイ」「町の花:萩」を制定。

この町に「高山本線:上呂(じょうろ)駅」があると聞いて、物好きにも確かめにきた二人。で、「上呂」「下呂」とあるのだから、真ん中の「中呂」という地名もあるのかなと思って調べたら、下呂の北方に本当に中呂(ちゅうろ)という地区がありました😲

明治22年(1889)、町村制の施行により、益田郡三郷村・宮田村・川西村、大野郡山之口村が発足。

1897年、三郷村・宮田村が合併、益田郡萩原村が発足。同年10月、町制を施行し益田郡萩原町(初代)となる。

1956年、益田郡川西村、大野郡山之口村と合併、益田郡萩原町(2代)が発足。

2004年、益田郡下呂町、小坂町、金山町、馬瀬村と合併、下呂市萩原となりました。

マンホールには、「降り注ぐ太陽の下、山とビルを背景に飛騨川で遊ぶ子供たち」がデザインされています。

農業集落排水のマンホールには、「飛騨はぎわら」の文字を中心に、「飛騨川で遊ぶ子供達」がデザインされています。

昭和35年7月1日制定の町章は「「ハギ」を端的に図案化し、「信義」・「勤労」・「友愛」を印象付けて円満平和を近代的総会に表したものです。昭和31年8月に制定されていたものを、再制定しました。」合併協議会資料より

撮影日:2012年5月16日


ご当地マンホール in 岐阜県旧金山町(下呂市)

2020年03月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧益田郡金山町(かなやまちょう)は岐阜県の中部に位置した町です。加茂郡七宗町・白川町、郡上郡明宝村・和良村・八幡町、武儀郡上之保村、益田郡下呂町・馬瀬村に隣接。飛騨川と馬瀬川が合流する地点を中心に栄えた飛騨街道の宿場町で、昭和3年に国鉄高山本線「白川口駅⇔飛騨金山駅」間が開通するまで、陸上交通の要衝として繁栄しました。町域には、下原ダム・大船渡ダム・七宗ダム等々、飛騨川のダムや発電所の半数以上が集中しており、馬瀬川を遡ると、馬瀬川第二ダムやロックフィル式の巨大な岩屋ダムがあり「ダムの町」としても知られています。

また岩屋ダムによってできた東仙峡金山湖のすぐ傍には、太陽暦として機能するように設計され建設されたと推定される縄文時代の「岩屋岩蔭遺跡」があり、発掘調査によって縄文時代早期から江戸時代の遺物が出土しています。 また金山町祖師野は、最初にギフチョウが確認された事から「ギフチョウの里」としても有名。「町の木:もみじ」「町の花:ササユリ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、武儀郡金山村・沙田村、郡上郡東村、益田郡下原村が発足。

1893年、沙田村が武儀郡菅田村に改称。

1890年、金山村が町制を施行、武儀郡金山町となる。

1896年、菅田村が町制を施行、武儀郡菅田町となる。

1955年、武儀郡金山町が菅田町、郡上郡東村、益田郡下原村と合併、益田郡金山町が発足。同年、 加茂郡白川町白山田島を編入。

2004年、益田郡下呂町、小坂町、萩原町、馬瀬村と合併し下呂市となりました。

マンホールには、馬瀬川にある「岩屋ダム」と、ダムによって形成された「東仙峡金山湖」、右側には町の花「ササユリ」がデザインされています。

昭和35年5月1日制定の町章は「三角形は「金山」・外円は「融和」と「協力」を表し、頂点は町の発展を示したものです。」

撮影日:2012年5月16日


下呂温泉:合掌村 in 岐阜県下呂市

2020年03月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

下呂温泉でもっとも規模の大きい観光施設として2010年夏に竣工された「下呂温泉:合掌村」。重要文化財の「旧大戸家住宅」を中心に、白川郷・五箇山から移築保存された合掌造り家屋10棟が里山に点在。飛騨の生活文化が体験できる屋外型博物館です。

入場料は大人800円、受付・売店は「旧大濱家住宅」の建物で、ここから先に「合掌茶屋:旧井波家住宅」。旧岩崎家の建物を利用した民族資料館があります。

集落では一際存在感を放つ民家は「旧大戸家住宅」。白川郷の御母衣字上洞にあったもので、御母衣ダム建設の際に解体され、この地に移築されました。天保4年(1833))から弘化3年(1846)まで、13年の歳月をかけて建造されものと「棟札」に記録されています。

鳥居と石灯篭が見えるこのささやかな場所には、どんな神が祀られているのでしょう?、周囲を歩きながらに垣間見る立地では、確かなことは何もわかりません。

私たちは、合掌の里と歳時記の森を結ぶ道路上を歩いています。そこから見える景色は、間近に見るものとはまったく別の、美しく懐かしい光景を展開しています。

あの建物は何処だろう?こうして見ると、僅か十軒の集落だと言うのが信じられないくらい、はるか向こうにまで茅葺屋根が連なって見えます。

2005年に一日かけて散策した「飛騨の里」、きっと此処とそんなに大差は無いだろう。数日後には白川郷に行き、そこで丸一日を費やす予定。全く興味が無いわけではないけれど、今回は周囲を歩くだけに留めました。この先も予定はびっしり、先に進まなくてはいけないのです。

訪問日:2012年5月16日


下呂温泉・足湯巡りの 町歩き~其の三 in 岐阜県下呂市

2020年03月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「江戸時代、ここ下呂郷湯之島から、富山、高山や、金山、蹟、中仙道大田宿を結ぶ飛騨街道と、中仙道中津川宿に至る南北街道がわかれていました。このように交通の要所のため、湯之島(下呂宿)には本陣や、荷駄の取次ぎのための馬繋場として伝馬宿が置かれ賑わいを見せていました。~中略~ 湯之島には、伝馬宿があったこの場所に高札場を儲け、荷駄高札や、年間三万人を超す湯治客に関するお触れも掲示されたものと思われます。」湯之島の高札場より

いにしえの宿場の雰囲気を取り戻そうと言う事で、かって問屋場が置かれていた場所に復元された「高札場」。夜になるとライトアップもされるそうですが、この時は私たち以外に誰も立ち止まる人は居ませんでした。

石畳の湯の街通りを歩いていると、ちょっとした植え込みの影から、モザイクの「カエル」さんが顔を覗かせ、楽しませてくれます。

町歩きの楽しみの一つでもあるお店の暖簾観察。あっちにもこっちにも趣向を凝らしたカエルさんの絵があり、おかげで中々先に進めません。そうそう、カエルと言えば・・湯の街通り沿いに鎮座する「下呂温泉:加恵瑠(かえる)神社」。下呂温泉街の新しい観光名所として2010年7月創建されました。「げろ」にちなんだネーミングと「無事帰る」などの語呂合わせで、縁起やご利益を楽しむスポットとなっています。

「加恵瑠(かえる)神社」なので、石灯籠の円窓はカエルのシルエット、手水鉢の上にもカエル、もちろん奉納の絵馬も「カエル」、となれば、当然・・・・・・

そう、ご神体も「加恵瑠様」。形としては玉に手を置く仕草とか、注連縄の巻かれた体とか・・神社の狛犬さんっぽいイメージなのですが、きっとそれは触れてはいけない「コト」なのかも😣

が、何と言っても私のお気に入りは、拝殿前に掛けられた「紋幕」。染め抜かれた「加恵瑠紋」を見た瞬間、二人顔を見合わせてニンマリ😄 こういうセンス、大好きです。

本日五つ目の足湯は、「加恵瑠神社」の斜向かいにあるヒノキ造りの「鷺の足湯」。下呂温泉街で一番最初に誕生した足湯という事で訪れる人も多く、何度か観光客の方と同席しました。さすがに五つ目ともなると足湯巡りも義務のような感じで、滞在時間はどんどん短くなります😅

有名な足湯と言うことで、敷地には観光地名物?の顔出し、その近くには、かって飛騨街道にあったという「常夜灯」が保存展示されています。

湯の街通りから少し坂を下った先に、白いロマネスク風の建物が見えてきました。1925年から続くという歴史のある公衆浴場「白鷺の湯」。建物の右手には「日本三名泉 発祥之地」碑が建立されています。

という事で足湯巡りの最後は、「白鷺の湯」の前に造られた「ビーナスの足湯」。円形の湯船の真ん中には、その名の通り、ビーナス像が置かれています。最後の足湯巡りの証拠写真の為に頑張って足を浸けましたが、三分ともちませんでした。

無料の足湯は、下呂庁舎脇に2008年にオープンした「田の神の足湯」が残っていますが、流石にもうお腹一杯・・いや、飲んではいないので何と言えば良いのだろう😅。結局、足湯の写真そのものも残さないまま退散。

下呂温泉の名所巡り、もう少し続きますが、それはまた明日に。

訪問日:2012年5月16日


下呂温泉・足湯巡りの 町歩き~其の二 in 岐阜県下呂市

2020年03月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「下呂ロイヤルホテル雅亭」の別館敷地内、等身大の「さるぼぼ弁財天」がお出迎えしてくれる「さるぼぼ七福神社」。その名の通り、七福神になった「さるぼぼさん」が祀られている可愛い神社です。

どれくらい等身大かと言うと、これくらい😆  。「さるぼぼ恵比寿さん」、二頭身なので、顔デカイ!!😲

銀ネズ色の「さるぼぼ布袋尊」。黄金色の「さるぼぼ寿老人」は、いつでも何処でも、さるぼぼになっても、亀さんと一緒。

青いお体に真っ白いお髭の「さるぼぼ福禄寿」。緑のお体の「さるぼぼ毘沙門天」

お社の手前にある「さるぼぼ黄金の足湯」で、黄金の宝船に乗った“さるぼぼ七福神”を見ながら、のんびりと足湯を楽しむ・・とっても贅沢な感じ。眩しい黄金の湯に足を浸せば、「運気」も「幸運」アップも叶うかも😍 

金色に輝くお湯で足の疲れもほぐれたら「さるぼぼ大黒天」がお出迎えしてくれる「おみやげ処」で、お土産の品定め😊 。入り口の暖簾には大黒天様に扮した赤いさるぼぼさんが並んでいるのですが、それがとっても可愛いのです。この赤い「さるぼぼ大黒天」、奉納絵馬にも登場してます。

本日四番目の足湯は、「雅亭」の前にある「雅の足湯」。文字に罪は無いのですが、実はここ数年「雅」という文字を見ただけである人物の顔がちらつき、虫唾が走るほどの拒否反応がおきます😣

温泉街にのびる石畳の飛騨街道沿いには、何ともエロティックな『小島功』氏のイラストが点在しています。エロティックですが決してイヤらしくないのは、多分に某お酒メーカーのカッパさんの影響かもしれません。

1984年に下呂温泉の観光PRポスターのイラストを製作した『小島功』氏、私達が下呂を訪問した三年後の2015年4月、87歳でその生涯を閉じました。

下呂温泉:足湯巡りの 町歩き、もう少し続きます。

訪問日:2012年5月16日


下呂温泉・足湯巡りの 町歩き~其の一 in 岐阜県下呂市

2020年03月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

往古より「日本三名泉」と称された「下呂温泉」。アルカリ性単純温泉の湯は無色透明で、別名、美肌の湯とも言われています。

下呂温泉街を突っ切るように流れる飛騨川の河原には「噴泉池」と呼ばれる河原露天風呂があり、心地よさげな湯気をくゆらせています。囲いの一切無い露天風呂で入浴をするには水着が必要だそうです。青空の下の露天温泉・・心惹かれますが流石に水着は準備していない、更にこの状況でお湯につかる根性は無い・・で、手を浸しただけで終了。

下呂温泉の起源は、延喜年間(901~923)とも天暦年間(947~957)ともいわれています。現在の温泉地の東方にある湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近に温泉が湧出したのがはじまりで、泉効があり、当時から湯治客があったと言われています。

文永2年(1265)、山頂からの湧出は止まってしまいましたが、飛騨川の河原に湧出しているところを発見され、このことは開湯伝説における「薬師如来が一羽の白鷺に化身し、湧出地を知らせた」として伝えられています。

室町時代の京都五山の僧『万里集九』の詩文集「梅花無尽蔵」「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島、この三か所なり」と記され、また江戸時代の儒学者『林羅山』「詩集第三西南行日録」に、「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島、この三か所なり」と記しています。(当時の泉名は「下呂」ではなく「湯島」と表記されていました。)

「河原露天風呂」は無理ですが、下呂の温泉街には七箇所の無料足湯が設置されています。タオルと冷たいお茶を持って、早速足湯巡り😄 スタートは「モリの足湯」。頭上のビニール傘は、子育てに励むツバメさんの為に用意されたものです。

温泉街の中心、飛騨川を跨ぐ「白鷺橋」。橋の両側にはレトロな雰囲気を演出するガス燈。日暮れてオレンジ色のガス灯に照らされる温泉街、きっとロマンチックな景色でしょうね。

橋の中ほどに作られた案内板、中央に描かれた白鷺と、独特の「下呂温泉」の文字。そして白鷺の頭上、矢印の示す方向には「下呂富士」の文字が見えます。

下呂温泉を日本三名泉の一つとして世に知らしめた『林羅山』の像、足元に集まった猿たちは、まるで何か語りかけるような仕草で『羅山』の手元を見上げています。そういえば、町歩きの途中でこれとよく似た構図の版画絵を見たっけ。

さて、その『林羅山』と向かい合ってベンチに座り、物思いにふけっているのは『チャップリン』の等身大ブロンズ像。なんで下呂温泉に彼が??と気になって調べたら、観光客たちが映画について楽しく語らいながら温泉街散策ができる”映画通り”を目指す「ミラクルマイル」事業なるものが持ち上がり、その第一号として精巧なチャップリン像が誕生。それが2001年の話ですが、他に誰の像もないことを思うと・・・・多分、企画倒れになったのでしょう😅

「白鷺橋」を渡りきった先、下呂温泉旅館会館1階に鎮座されるのは、下呂温泉の恵みと温泉が永遠に湧くことを願って1989年に建立された「下呂温泉神社」。出羽三山の湯殿山の御分霊が祀られています。

本日二つ目の足湯は「足湯の里 ゆあみ屋」の前にある「ゆあみ屋の足湯」。歩き疲れた足にホンワカとした湯のぬくもりは最高、ついでに何ともいえない珈琲の良い香りが鼻腔を刺激します。

下呂温泉:足湯巡りの残りは五カ所、町歩きとあわせて明日に続きます。

訪問日:2012年5月16日


ご当地マンホール in 岐阜県旧下呂町(下呂市)

2020年03月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧益田郡下呂町(げろちょう)は岐阜県飛騨地域の南部に位置した町です。益田郡小坂町、萩原町、金山町、馬瀬村、加茂郡白川町、恵那郡加子母村に。また県を跨いで長野県 王滝村に隣接。高山藩時代は金森氏によって七代100余年にわたり、その後幕府の天領となり、明治に入ると高山県の設置、梅村騒動、築魔県への移管、岐阜県への編入とこの地域は大きく揺れ動きました。そんな中、飛騨川河畔の下呂温泉は、古より万病を癒す名場の湧き出るところとして栄えてきました。町の周囲は御嶽山系に属する1,000m級の山々に囲まれ、面積の約90%を山林が占める山村地域となっています。竹原川、門和佐川、輪川がそれぞれの地区を潤し、町の中央を貫流する飛騨川(益田川)に合流。帯雲橋から金山町に至る益田川は、奇怪怪石の連なる名勝「中山七里」として訪れる人の目を楽しませています。「町の花:ツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「いいゆ いいまち 下呂のまち」

「宝亀2年(776)下呂温泉の付近には美濃国菅田駅と、飛騨国大野郡の伴有駅があった。しかし、この2つの駅間は遠い上に道も険しかったため、間に駅を新たに置くこととなり、「下留駅(しものとまりえき)」を置いた。やがて下留は時代が進むに従い「げる」と読まれるようになり、転じて現在の音「げろ」となった。」続日本紀より

明治16年(1883)、三郷村より下呂と竹原が分立、下原郷より上原と中原が分立しそれぞれ村となる。

明治22年(1889)、町村制の施行により、益田郡下呂村、竹原村、上原村、中原村、川西村が発足。川西村の一部であった三原、少ヶ野村を下呂村に編入。

1925年、下呂村が町制を施行、益田郡下呂町(初代)となる。

1955年、益田郡竹原村、上原村、中原村と合併、益田郡下呂町(2代)が発足。

2004年、益田郡小坂町、金山町、萩原町、馬瀬村と合併し下呂市となりました。

マンホールには、温泉にまつわる白鷺伝説の「白鷺」と、「いいゆ いいまち 下呂のまち」の文字がデザインされています。

竹原地区の特定環境保全マンホールには、「白草山とアマゴ」、特産の「トマト」がデザインされています。

ひとまわり小さい汚水枡の蓋には、「町の花:つつじ」がデザインされています。

下呂温泉と言えば「カエル」、その心は「ゲロゲロ~♪」・・という理由でもないでしょうが、仕切り弁や消火栓などには、可愛いカエルが一杯😊 

昭和33年3月31日制定の町章は「「下・ロ」を組み合わせて図案化したもので、二代目の町章になります。」

「下呂町」の自治体名のみが書かれた消火栓・空気弁。

「下呂温泉」とかかれた・・温泉用の量水器か何かでしょうか? 蓋を開けて確認していないので用途は今一つ不明。他にも温泉地では必ず設置されている「排泥弁・断湯弁」などがありました。

中央に「電話」とかかれたマンホールですが、会社名を示すマークの類が無いので、町の有線電話用かも。

撮影日:2012年5月16日


ご当地マンホール in 岐阜県下呂市

2020年03月14日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

下呂市(げろし)は岐阜県の中東部に位置する市です。2004年3月1日、益田郡下呂町、萩原町、金山町、小坂町、馬瀬村が合併して発足しました。北は高山市、南は加茂郡七宗町、白川町、西は郡上市、関市、東は中津川市に。また県を跨いで長野県木曽郡木曽町、王滝村に隣接。市域のほぼ中央を飛騨川が南へ流れ、西には馬瀬川があり、周囲には霊峰御嶽山をはじめ1千メートルを越える急峻な山々がそびえ、飛騨木曽川国定公園や県立自然公園なども位置する自然豊かな地域です。「日本三名泉」とされる下呂温泉で知られた町です。

キャッチフレーズは「豊かな自然と温泉のまち、下呂市へようこそ。ふるさと見っけ!温か下呂市 ふるさとを感じる森と清流、人とまちが響きあう 健康と交流のまち」こんなに長いフレーズ・・・初めて😅

下呂市独自のマンホールは見つけられませんでしたが、市章のある側溝蓋を発見しました。

新しく導入された「仕切弁・消火栓」には、可愛いカエルさんがタオル片手に温泉を楽しんでいます。頭の上の三本線は温泉マークの湯気かな?

2004年6月21日制定の市章は「全体の形は下呂市の「G」を表します。外側のラインはグリーン「森」を、中のラインはブルー「清流」を表しています。楕円から広がる形は、健康と交流のまち下呂市をイメージ。オレンジは人と街と温泉を表しています。」公式HPより

「下呂温泉ファンクラブ」や、「下呂温泉ぐるっと案内サイト」のキャラクターを務めつつ、下呂温泉の顔として活動する、モリアオガエルの『げろぐるくん』。ぐるぐるメガネとハッピ、のぼり旗がトレードマークだそうです。

撮影日:2012年5月16日

(※)旧益田郡馬瀬村は未訪問です。


ご当地マンホール in 岐阜県白川町

2020年03月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

加茂郡白川町(しらかわちょう)は岐阜県の中南部、加茂郡の東部に位置する町です。北は下呂市、西は七宗町、南は八百津町、恵那市、東は東白川村、中津川市に隣接。町域の約87%は山林で占められ、海抜150mから1,223mと高低差が激しく、平野部はわずかで可住地面積は全体の5%程度。 町の西端を木曽川水系の飛騨川が流れ、それにそそぐ、佐見川、白川、黒川、赤川が扇状に東側に伸び、それらの流域に集落が点在。主要産業は「東濃桧」の生産。農業では、基幹産物の「白川茶」が知られており高級茶として有名です。「町の木:ヒノキ」「町の花:岩つつじ」「町の鳥:うぐいす」「町の魚:アジメドジョウ」「町の色:緑」を制定。

飛騨川にかかる、人・自転車専用の吊り橋「白川橋」は大正15年(1926)の完成。現存する数少ない大正時代の近代吊橋として、2006年に土木学会選奨土木遺産を受賞しました。

キャッチフレーズは「人と自然が輝く あったかいまち 美濃白川」

明治22年(1889)、町村制の施行により、加茂郡西白川村、蘇原村、黒川村、佐見村、武儀郡坂ノ東村が発足。

1953年、西白川村が町制を施行、初代加茂郡白川町となる。

1954年、白川町が、武儀郡坂ノ東村を合併。

1956年、白川町が黒川村、佐見村、蘇原村を合併、二代目:白川町となりました。

白川町独自のマンホールは残念ながら見つけられませんでしたが、辛うじて自治体名のある水道用の蓋を見つけることが出来ました。こんなに酷い雨でなければ、他にも何かあったかもしれませんが・・・・

昭和38年5月10日制定の町章は、【「し」の字を図案化し円は町の平和を、鋭い曲線は躍進を表わし、合せて町民の団結と勤労を意味する。全体的優美なデザインは、みどりの山と、清い水の自然郷白川を象徴する。】公式ページより

「岩つつじ」は、岩間にしっかり根を張り、風雪に耐え、白川の清流に風情を添える花として、町の花に制定されています。

酷い土砂降りの中では、気になる建物や場所を見つけても、何処にも立ち寄れません。通りがかかりにデジカメを向けるのが精一杯。それさえも雨に濡れるのが怖くて、恐る恐る😥

大雨の中を辿り着いた「道の駅:美濃白川「ピアチェーレ」」。この日はこちらで車泊をさせていただきました。早い時間だったので名産品をしっかり買い込むことが出来、お腹もお口も大満足。  

車で旅をする私達には、こうした施設は本当に有難く大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

翌朝、下呂市に向かう途中に見た美しい景色、出来るなら電車が来るまで待っていたかったけれど・・・出来るならもう一度白川町に立ち寄りたかったけれど・・・この当時はスケジュールどおりに移動するのが重要だったのです。

撮影日:2012年5月15日


ご当地マンホール in 岐阜県七宗町

2020年03月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

加茂郡七宗町(ひちそうちょう)は岐阜県の中南部に位置する町です。関市、美濃加茂市、下呂市、加茂郡川辺町、八百津町、白川町に隣接。町域のおよそ9割は標高200~700mの山林が占め、平地は町内を流れる飛騨川・神渕川及びこれらの支流沿いに点在し、農地、居住地として利用されています。また、飛水峡一帯に点在する甌穴群(ポットホール)は、大きなものでは穴の直径が5mに及ぶものもあり、その数は約880個あるといわれ、他に類のない規模となっています。町名の「宗」「みたまや(御霊舎、神の宿る場所)」を意味し、町の北部にそびえる峰々が、古来より「七宗山」「七宗権現」と呼ばれ崇められてきた歴史にちなみます。「町の木:ヒノキ」「町の花:シャクナゲ」を制定。

昭和45年、飛騨川の河床から20億年前片麻岩 「上麻生礫岩 が発見され、当時、それまでに年代測定したものの中では日本最古のものであることが判明。道の駅ロック・ガーデンひちそうに隣接して「日本最古の石博物館」が誕生しました。

キャッチフレーズは「日本最古の石発見地の町 自然と歴史がふれあう環境文化のまち”七宗”の創造」

明治22年(1889)、町村制の施行により、武儀郡上麻生村・神渕村(かぶちむら)が発足。

1952年、上麻生村の所属郡が加茂郡に移動。

1955年、武儀郡神渕村と加茂郡上麻生村が合併、加茂郡七宗村が発足。

1956年、加茂郡下麻生町中麻生地区を編入。

1971年、七宗村が町制を施行、加茂郡七宗町となりました。

マンホールには「中央は、七宗町のマスコットキャラクターのレッキー君(上麻生礫岩)です。 下には町内を流れる飛騨川で、飛水峡(飛騨・木曽川国定公園)を表し、左には、飛水峡に咲く岩ツツジと右には、町の花・しゃくなげです。 上は、町内を飛び交う源氏蛍の明かりをイメージしています。」町HPより

 昭和44年(1969)2月11日制定の町章は「七の字を図案化して、町の将来の円満な発展、飛躍を現すと共に、町民の融和、協力を端的に象徴したものである。」七宗村発足時に制定され、町制施行後に継承されました。

七宗町マスコットキャラクター『レッキー君』。「日本最古の石」といわれる上麻生礫岩をモチーフに誕生。身長:2.0m・体重:200Kg。20億年もの間、地球をずっと見守ってきました。おにぎり型の大きな頭の中には、地球の歴史と、みんなの愛がいっぱい詰まっているらしいです!

撮影日:2012年5月15日