太子町太子にある太子宗:本山寺院「磯長山(しながさん)・叡福寺(えいふくじ)」。『如意輪観音』を本尊とします。聖徳太子建立三太子の一つで、「野中寺」の「中の太子」、「大聖勝軍寺」の「下の太子」に対し、「上の太子」と呼ばれます。
「推古30年(622)旧暦2月22日、太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになった。その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴となり、この御廟には太子を敬う空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えた。天正2年(1574)、織田信長の兵火により堂塔の全てを失うが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建。その後、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興された。」公式HPより
境内に入って最初に目にするのが「南大門」。天正2年(1574)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建。腐朽のため昭和33年(1958)に再々建築されました。
山門内に安置される「金剛力士像」
山門内を入ってまず目にするのは、叡福寺のシンボルともいえる重要文化財の「宝塔」。承応元年(1652)の再建で、本尊は東面に『釈迦・文殊・普賢』の三尊像。西面に金剛界の『大日如来』を安置し、四本の柱には四天王の像が描かれています。
この日は秋晴れのとても爽やかな午後でした。青空を背景に立つ宝塔がまるで何かの意思を持っているかのように虹彩を従えて見えます。
南大門を入って北側には、享保17年(1732)の再建で府指定文化財の「金堂」。聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づき『如意輪観音』の坐像を本尊とします。
縁台左端には『賓頭盧尊者』、俗になで仏とされる「おびんづる様」。
右端にはボケ封じの観音様がおられます。まだ早いだろうと笑われますが、人生いつ何があるか・・一寸先は闇。どうかこれ以上ボケませんように!!
太子廟の入り口である二天門は、元禄元年(1688)に『徳川綱吉』の命によって丹南藩第六代藩主『高木正陳』が寄進したもの。
叡福寺の最も重要な位置づけにあるのが「聖徳太子御廟」。直径54・3m、高さ7.2mの円墳。横穴式石室で、『太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女』の三体を合葬した三骨一廟となっています。
御霊屋唐破風屋根の向拝に施された釈迦三尊の御来迎額
聖域を護るにふさわしい猛々しさで天空を睨み据えるのは、唐破風の上の龍。
墳丘周囲490本の「結界石」は、聖地と俗界を隔てるものとして弘法太子が築いたと言われ、いずれも観音の梵字が刻まれています。
桃山末期の特徴を示す「聖霊殿(重要文化財)」は「太子堂」とも呼ばれ、文治3年(1187)に後鳥羽天皇から下賜された「聖徳太子十六歳植髪等身像」と「南無仏太子二歳像」が祀られています。
『伊藤加賀守秀盛』によって慶長2年(1597)に再建された「浄土堂」。御本尊は『阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩』。 弘法大師御参籠の時、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎されたと伝えられています。
「見真大師堂」は明治45年(1912)の建立。本尊は、聖人が八十八歳で御参籠の折、自ら刻んで遺されたという「親鸞聖人坐像」。
「念仏堂」。本尊は『阿弥陀如来』で、脇侍は『観音・勢至菩薩』。善光寺48箇所中の第13番札所とされます。
何処の屋根にいたものか、すっかり失念している鬼瓦。数ある鬼瓦の中でも非常に特異な顔立ち・・まるで狼のような容貌で印象に残った一対です。
多くの写経典類が納められている「経蔵」
「久邇元帥宮御遺髪塔」。聖徳太子奉賛会総裁であった『久邇宮邦彦王殿下(香淳皇后の父君)』の遺髪が納められています。
一通り境内を廻った後、名残惜しく振り返った時に残した画像ですが、この何とも形容しがたい神々しさを思わせる景色は、何年たっても鮮やかで忘れ難い思い出です。
御詠歌【磯長(しなが)なる み寺にいまも うまやどの みこのみたまは しずまりてます】
参拝日:2015年10月9日
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