きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(27)・チキンラーメンの味

2010年09月24日 | 思い出探し
西多賀ベッドスクールは仙台市の郊外にあり、病気療養をしながら中学校の授業が受けられる国立の療養所である。

私が入院していた昭和38年当時は肺結核と脊椎カリエスの患者さん(子供達)が多くて、筋ジストロフィーや骨髄炎の患者さんも少数在学していた。
結核が国民病であった時代である。
現在は肺結核やカリエスは少数となり、主体は筋ジストロフィーの生徒に移行しているようだ。

当時のクラスの仲間は皆仲が良かった。
それぞれ親元を離れて、長期療養している身であれば、その辛さや寂しさ、健常者に対するコンプレックスなどを共有していて、不自由な病院生活の中でも、協力し合いながら闘病生活を送っていた。
歩ける子は歩けない子の面倒をよく見たし、特に女の子達はみんな優しくて面倒見が良かった。
所長が父親、婦長さんが母親のような存在で、看護婦さんの中には学校出たての準看護婦さんもいて、自分達と年齢もそんなには変わらず、お姉さんみたいな感じであった。
子供達はけんかをしたり、遊んだり、いたずらしたり、まるで病院全体がが1つの家族のような生活を送っていた。

病院の食事は何処でもそうであるが、通常よりはかなり早い時間に食べることになっている。
特に夕食の時間は早くて、5時ごろからであったろうか。消灯は8時か9時だったと思うが、当然ながらすぐに寝る子はいなくて、消灯後はラジオを聞いたり、病室の子どうしで話をしたり、他の部屋に出かけたり、廊下で鬼ごっこしている子もいたりで、巡回してくる看護婦さんに見つかっては怒られていた。

当然、早く食べた夕飯が寝るまでもつ訳は無い。
お腹が減ってきて、ごそごそ、がさがささせながらベッドの中でお菓子を食べたりしていたが、当時は「日清のチキンラーメン」が発売されてまもなくで、このインスタントラーメンには大分お世話になった。

入院患者のシーツ、パジャマ、衣服などを消毒するために、病棟のリネン室には蒸気や熱湯がいつも準備されていて、お湯を注ぐだけで食べられるインスタントラーメンは恰好の夜食となった。
僕のような寝たきりの子の分は、歩ける子が看護婦さんの目を盗んでは作ってくれた。
丼なんてものは持っていなかった僕は、お絞りを入れておくプラスチック製の丸い透明な容器をもっぱら利用した。
それにはチキンラーメンが丸ごと1つは入らず、いつももがしゃがしゃと半割りにして、半分だけ食べていた。

忍者さながらに、廊下の暗闇にまぎれて、すばやくリネン室からもどってくる友達の手の内の美味しそうなラーメンも、残念ながらプラスチックの容器では、お湯はすぐに冷めてしまって、結果、いつもモソモソしたラーメンを食べるはめになったのだが、薄味の病院食になれた舌には刺激的なしょっぱさのモソモソ・チキンラーメンはいつも物凄く美味しかった。

現在のインスタント・ラーメンは、あの、ただただしょっぱい醤油味のチキンラーメンの味とは雲泥の差であるが、食べるとあの時のあの懐かしい味をいつも思い出してしまう。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

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