きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(29)・singular ? plural ?

2010年09月25日 | 思い出探し
 西多賀ベッドスクールは、国立療養所の中に中学校があって、子供達が病気療養しながら勉強することができる、当時全国でもまれな施設であった。

昭和38年に、僕が入院してすぐに、このベッドスクールが舞台の山本富士子と北村一夫主演のテレビドラマ「お母さんの骨をもらって歩けた」が放映され、それから一層見学者が増加した。

 授業中や放課後に、ぞろぞろ列を作って廊下を通りながら、ベッドの上の僕たちを好奇の目や憐れむような目(と当時の僕には思えた)でジロジロ見ていく見学者達に、イライラがつのった挙句、見学をさせないで欲しいと先生に訴えたことがあったが、先生から「こんな学校が増えていくためには、多くの人たちに現状を知ってもらう必要がある。その為の見学なので、我慢して欲しい。」と諭され、「見られる患者の身にもなって欲しい」と反論したかったが、できなかった。
見学する側もされる側も何か気まずい雰囲気があったのは、そこが病院であるからで・・・致し方ないことである。

 窓から覗き込むようにして通り過ぎていく見学者達とは別に、毎週末や夏休みには様々な人達が慰問やボランティアで病棟を訪れていた。
私が入院していた1年間の間でも、全日本プロレスの外人レスラー達、宮城県立第一女子高等学校(一女高)の合唱部や東北学院大のグリークラブの皆さん、などは特に記憶に残っている。病室から東北放送ラジオの生中継(音楽のリクエスト番組)などもあった。

 その中でも、東北学院大学セツルメント会のボランティア活動の学生さんが良く訪問していた。病院の中庭にプールを作ったり、裏山に車椅子でも行ける遊歩道やアーチェリー場を作ったり、大学の夏休みを利用して、大汗をかきながら土木作業をしている学生さんたち(お兄さん達といった方が良い)がいて、作業の合間に子供達と遊んだり、交流も盛んだった。
現在でもセツルメント会と西多賀ベッドスクールとの交流はしっかり続いている。

 忘れてならないのが、東北学院大学、英文科4年生のUさん。
毎週のように病室に訪れて、皆を集めて学習塾のような形で英語を教えていた。
色白の痩せ型で、スリッパをつっかけて小走りで歩く姿や、甲高い大きな声で話す、ちょっとオネエがかった話し方も、何となく女性的だったが、授業は厳しくて、singular?(単数形は?)、plural?(複数形は?)などと甲高い声で質問されると、ピリピリ緊張したものである。
 今までいた中学校の英語の授業とは違って、なんかレベルの高い勉強をしているようで、面白かった。なにしろ、中学2年の教科書にディケンズの小説「デビッド・カパーフィールド」を使っていたのだから・・・僕が洋書を買ったのはこれが初めてだった。おかげで英語の読解力が上がったせいで、退院後に戻った中学校でも、英語は得意科目になっていた。

 なにしろ元気が良くて、指導に熱心で、「僕の好きな先生~」だったが、他の生徒達にも慕われ、看護婦さんたちにも人気があった。
翌年、静岡県の高校の教師になって、仙台を去ったが、僕が退院する直前に、夏休みを利用してベッドスクールに来られた時がU先生にお会いした最後で、今は70歳前後になっているはずだが、ずっと御無沙汰のままである。
お元気でいることをただ祈るだけである。あらためて感謝いたします。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

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