きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(31)・初めての手術

2010年09月30日 | 思い出探し
入院した夏から秋へ、秋から冬へ、季節は巡ってもベッドのなかから見える窓越しの景色からは季節の変化はさほど感じられず、単調な毎日が続いていた。

国立西多賀療養所・ベッドスクールで寝たままの正月を迎えてしばらくして、やっと手術の日取りが決まった。

これまで、ギプスに固定された寝たきりのままで、抗生物質(ストレプトマイシン)の注射とパスを飲むだけの、治療と言うよりはとにかく安静の療養生活が数ヶ月続いて、飽きてきたというより、先行きに不安を覚えていた僕は、これでやっと回復できる、気仙沼に戻れる、という期待が膨らんだ。

ただし、この間に股関節の手術を受けた隣り部屋の女子が手術中にショック死したことがあり、その時は看護婦さんが廊下をばたばた走り回り、また若い看護婦さん達が泣き崩れていたりで・・・そんなことも頭をよぎって、期待と同時に、自分だってもしもということがある訳で、死ぬことがとても怖かった。

手術の前日から、絶食となり、夜には下剤も飲まされて、朝まで何度か下痢をして当日の朝を迎えた。夜が明けると決められた段取りにしたがって作業が進んで、何も考える暇もなくあっという間にストレッチャーに乗せられた。

まず、レントゲン室で腰に局所麻酔を打たれて、なにかクギ状のものをハンマーで打ち込まれた。
それが骨に当たるたびに頭までガンガン衝撃がきて、幸い痛みは感じない。
それが刺さった状態でレントゲン撮影し、何のことは無いこのクギが手術をするときのマーカーになったようだ。

うつ伏せのままストレッチャーで手術室に移動し、手術台にうつ伏せに乗せられて、背中に白い布が被せられて、周りには何人か医師と看護婦さんがいたが、僕には彼らの足しか見えなくて、頭の上にいる婦長さんだけがいつもの優しい声で「大丈夫だからね。怖くないからね・・・大丈夫だからね。」と励ましてくれた。僕はただ「早く、無事に終わりますように。」と祈るだけだった。

手術は局所麻酔で行われたため、一部始終は身体と耳で分かった。
メスで切られた感覚は無かったが、ノミとハンマーのようなもので骨を削っていく作業の時だけは、身体全体への衝撃とカンカン、ガンガン、ゴリゴリの音が聞こえて、辛くて、怖くて、ずっと婦長さんの手を握り締めていた。
腰椎の破壊された部分を削りとって、腰椎の3番と4番を固定するというのが、手術の内容で、何を使って固定したんですか、と後日医師に聞いたら、「豚の骨」といって笑っていた。そんなこと有るはずがないが・・・。

手術は3時間ほどで終わった。終わり近くには麻酔がきれて来て、傷口を縫われる時の痛さは並み大抵ではなかったが、医師は「もうすぐ終わるから、我慢して」と言うだけで、この時間が長かった。
ストレッチャーの上のギプスに戻され、運ばれてそのままベッドに寝かされた時には、痛みもほとんど無く、手術後だけに出される慣例になっていた夕食のお子様ランチ風の特別食もおいしくいただいて、「なあ~んだ手術もたいした事無いなあ・・・。」などと思っていたのはここまでで、元気な僕を見て安心した両親が帰った後の、夜はまさに地獄であった。

鎮痛剤は2時間ほどしか効かず、薬が切れてきたときの痛みは、傷口が裂けてしまったのではと思うほどで、看護婦さんを呼んでも特に何かをしてくれる訳でもなく、医師に来てもらって「出血していないから安心しなさい。」の一言で少しは落ち着いたが、痛みが無くなる訳でもなく、その夜はまんじりすることもなく夜明けを迎えてしまった。
次の日も痛みで身体を動かすことができない状態が続き、食欲も全く無かった。

3日目の朝、目覚めると昨夜までの苦しみがなんだったのかと思うほど、痛みが全く無くなっていた。思わず鼻歌が出るほどうきうきした気分になってしまう自分が不思議だった。この日の朝食はいつもと同じであったが、入院してから一番おいしかった。
1週間後に抜糸をしたが、この時がまた快感で、それまで痛みは無くても、何か重苦しい感じが傷口にあったのが、抜糸される毎に霧散していき、アルコール綿で消毒された時などはサーと涼風が背中を吹きぬける感じだった。
これからまた寝たきりの生活がしばらく続き、梅雨明けの頃から徐々に歩行訓練が始ることになる。

昭和39年2月、14歳。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

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