昨日(2/10)JR・日本旅行の「おとなび~邪馬台国畿内説~古代ロマン 卑弥呼の大和」という会員制の日帰りツアーに参加した。2月10日(水)・17日(水)・25日(木)の3回にわたって催行されるツアーで、すでに全席満員となっている人気ツアーだ。初回のメインガイドは雑賀耕三郎さん(NPO法人奈良まほろばソムリエの会)、サブガイドは道崎美幸さん(同)、私はサポーターとして参加した。
※トップ写真は雑賀さん。唐古・鍵遺跡で(写真はいずれも2/10撮影)
2/17(水)のツアーは私がメインガイドを務めるので、今回はそのための準備を兼ねていた。昨日のツアーは、九州の吉野ヶ里まで出向いて周到に準備された雑賀さんの丁寧なガイドで、お客さまは大満足されていた。私も頑張らなければ…。
さて「邪馬台国を考える」シリーズの第4弾である。今回は、邪馬台国畿内説のお立場の西谷正氏(九州大学名誉教授、九州歴史資料館長)の話である。出所は出所は、前回と同じ朝日選書『研究最前線 邪馬台国』のうち「第4章 東遷説はありえない」から抜粋する。
なお「邪馬台国東遷説」とは「邪馬台国九州説」の一種で、「九州にあった邪馬台国が近畿地方へ移った」という説、および「九州から技術や文化・人が近畿に移って国を建てた」とする説である。
(魏志)倭人伝の一番最後の段落に、「卑弥呼以(もっ)て死す。大いに冢(ちょう)を作ること径百余歩」とあることで、卑弥呼が亡くなってときに大いに冢をつくったとあります。この「大い」について、いろいろな解釈があるようですが、「冢」とは塚、つまり墳丘のある墓のことでしょう。
高島(忠平)さんは先ほど、卑弥呼の墓は小規模な方形周溝墓でもいい、とおっしゃっていましたが、私はそうは思いません。いまのところ北部九州にはもちろん、吉野ヶ里遺跡周辺にも、卑弥呼の墓とおぼしきものはみあたりません。あくまでもいまのところですが、九州に邪馬台国を求めるのは難しいのではないかと考えます。
纒向遺跡では西は北部九州、東は南関東など、全国各地から土器が集まっています。南関東から北部九州まで、広範囲のものが近畿の1ヵ所に集中しているということは、その背後に何らかの政治的な背景を考えるべきではないでしょうか。
一方、近畿地方の代表的な土器である庄内式土器は、西日本一帯に広がっています。土器だけでいえば、九州から近畿へ、というより、近畿には各地のものが集まっており、近畿の特徴的な土器も九州のほうにかなり広がっているのです。このことを考えると、北部九州の優位性は必ずしもいえないのではないでしょうか。
弥生時代後期、とりわけ邪馬台国の時代の近畿地方において、鉄器が普及していたことは間違いないと考えています。
奈良県桜井市の纒向石塚古墳(墳丘長78メートル)とか、あるいは同・箸墓古墳(墳丘長280メートル)という、弥生時代の墳丘墓とは一線を画する巨大な墳墓が登場します。その成立過程を追える場所はどこかといえば大和盆地の東南部です。墳丘墓から前方後円墳がどのようにして出来上がっていったのかがわかる墳墓群が大和盆地の三輪山の西の麓一帯に存在するわけです。そのような事実は非情に大きな意味をもっているのではないかと思います。
「魏志倭人伝」の一番最後の段落に「卑弥呼以て死す」とあり、この記事をめぐり古来諸説があったわけですが、最近、この問題について私どもの大先輩にあたる、渡邉正氣という福岡県の文化財行政の先駆者が卓見を披瀝(ひれき)されています。渡邉正氣さんが平成13年の日本考古学協会第67回総会で、卑弥呼の墓は箸墓古墳で寿陵(じゅりょう 生前に築いた墳墓)だと発表されました。
つまり卑弥呼は、間もなく自分は命が絶えるかもしれないと思い、権力をもっている生前に寿陵として墓を築いたのではないかと考えられたわけです。「以て」を「思うに」と動詞的に読まれたのです。中国古典からいろいろな使用例を引っ張り出して、そういう読み方もあると渡邉さんは論証されました。私もまつたくなるほどと思って渡邉さんの説を支持しているところです。いまのところ、北部九州でこれが卑弥呼の墓だと思われる候補地さえありません。
反論、異論があるにせよ、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説は有力な説としてあるわけで、これが仮に台与(とよ 壹与)の墓であるにしても、卑弥呼に近い人の墓であることは間違いないでしょう。その意味では三輪山麓の纒向遺跡一帯の遺跡群と墳墓群は、邪馬台国近畿地方説の有力な材料になるのではないかと考えています。
結論としては、あくまで現在のところですけれども、邪馬台国は九州ではなくてもともと近畿地方にあった、近畿地方にあったとすれば、東遷説はありえない、なるわけです。
冒頭でも少し触れましたように、東遷説にも、九州にあった邪馬台国が近畿地方へ移ったとするほかに、技術や文化、人が九州から移って近畿地方で国を建てたと、2つの考え方があります。
いずれにしても、いまのところ九州から技術や文化が、西から東へ行ったことは事実で間違いないのですが、1つの王権が移動してそこに国を建てたという状況は、考古学の資料による限り、求め難いのです。
さまざまな考古資料に基づき「邪馬台国は九州ではなくてもともと近畿地方にあった、近畿地方にあったとすれば、東遷説はありえない」とは、心強い。「卑弥呼の墓は箸墓古墳で寿陵」という説も、初めて知った。
いよいよ来週は「邪馬台国近畿地方説の有力な材料になる」という「三輪山麓の纒向遺跡一帯の遺跡群と墳墓群」を巡る。ここはシッカリと語っておきたい。
※トップ写真は雑賀さん。唐古・鍵遺跡で(写真はいずれも2/10撮影)
2/17(水)のツアーは私がメインガイドを務めるので、今回はそのための準備を兼ねていた。昨日のツアーは、九州の吉野ヶ里まで出向いて周到に準備された雑賀さんの丁寧なガイドで、お客さまは大満足されていた。私も頑張らなければ…。
さて「邪馬台国を考える」シリーズの第4弾である。今回は、邪馬台国畿内説のお立場の西谷正氏(九州大学名誉教授、九州歴史資料館長)の話である。出所は出所は、前回と同じ朝日選書『研究最前線 邪馬台国』のうち「第4章 東遷説はありえない」から抜粋する。
なお「邪馬台国東遷説」とは「邪馬台国九州説」の一種で、「九州にあった邪馬台国が近畿地方へ移った」という説、および「九州から技術や文化・人が近畿に移って国を建てた」とする説である。
研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか | |
石野博信・高島忠平・西谷正・吉村武彦 編 | |
朝日選書(朝日新聞出版) |
(魏志)倭人伝の一番最後の段落に、「卑弥呼以(もっ)て死す。大いに冢(ちょう)を作ること径百余歩」とあることで、卑弥呼が亡くなってときに大いに冢をつくったとあります。この「大い」について、いろいろな解釈があるようですが、「冢」とは塚、つまり墳丘のある墓のことでしょう。
高島(忠平)さんは先ほど、卑弥呼の墓は小規模な方形周溝墓でもいい、とおっしゃっていましたが、私はそうは思いません。いまのところ北部九州にはもちろん、吉野ヶ里遺跡周辺にも、卑弥呼の墓とおぼしきものはみあたりません。あくまでもいまのところですが、九州に邪馬台国を求めるのは難しいのではないかと考えます。
纒向遺跡では西は北部九州、東は南関東など、全国各地から土器が集まっています。南関東から北部九州まで、広範囲のものが近畿の1ヵ所に集中しているということは、その背後に何らかの政治的な背景を考えるべきではないでしょうか。
卑弥呼の墓説の最有力候補・箸墓古墳で
一方、近畿地方の代表的な土器である庄内式土器は、西日本一帯に広がっています。土器だけでいえば、九州から近畿へ、というより、近畿には各地のものが集まっており、近畿の特徴的な土器も九州のほうにかなり広がっているのです。このことを考えると、北部九州の優位性は必ずしもいえないのではないでしょうか。
弥生時代後期、とりわけ邪馬台国の時代の近畿地方において、鉄器が普及していたことは間違いないと考えています。
奈良県桜井市の纒向石塚古墳(墳丘長78メートル)とか、あるいは同・箸墓古墳(墳丘長280メートル)という、弥生時代の墳丘墓とは一線を画する巨大な墳墓が登場します。その成立過程を追える場所はどこかといえば大和盆地の東南部です。墳丘墓から前方後円墳がどのようにして出来上がっていったのかがわかる墳墓群が大和盆地の三輪山の西の麓一帯に存在するわけです。そのような事実は非情に大きな意味をもっているのではないかと思います。
古代日本と朝鮮半島の交流史 (市民の考古学) | |
西谷正 | |
同成社 |
「魏志倭人伝」の一番最後の段落に「卑弥呼以て死す」とあり、この記事をめぐり古来諸説があったわけですが、最近、この問題について私どもの大先輩にあたる、渡邉正氣という福岡県の文化財行政の先駆者が卓見を披瀝(ひれき)されています。渡邉正氣さんが平成13年の日本考古学協会第67回総会で、卑弥呼の墓は箸墓古墳で寿陵(じゅりょう 生前に築いた墳墓)だと発表されました。
つまり卑弥呼は、間もなく自分は命が絶えるかもしれないと思い、権力をもっている生前に寿陵として墓を築いたのではないかと考えられたわけです。「以て」を「思うに」と動詞的に読まれたのです。中国古典からいろいろな使用例を引っ張り出して、そういう読み方もあると渡邉さんは論証されました。私もまつたくなるほどと思って渡邉さんの説を支持しているところです。いまのところ、北部九州でこれが卑弥呼の墓だと思われる候補地さえありません。
反論、異論があるにせよ、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説は有力な説としてあるわけで、これが仮に台与(とよ 壹与)の墓であるにしても、卑弥呼に近い人の墓であることは間違いないでしょう。その意味では三輪山麓の纒向遺跡一帯の遺跡群と墳墓群は、邪馬台国近畿地方説の有力な材料になるのではないかと考えています。
結論としては、あくまで現在のところですけれども、邪馬台国は九州ではなくてもともと近畿地方にあった、近畿地方にあったとすれば、東遷説はありえない、なるわけです。
冒頭でも少し触れましたように、東遷説にも、九州にあった邪馬台国が近畿地方へ移ったとするほかに、技術や文化、人が九州から移って近畿地方で国を建てたと、2つの考え方があります。
いずれにしても、いまのところ九州から技術や文化が、西から東へ行ったことは事実で間違いないのですが、1つの王権が移動してそこに国を建てたという状況は、考古学の資料による限り、求め難いのです。
さまざまな考古資料に基づき「邪馬台国は九州ではなくてもともと近畿地方にあった、近畿地方にあったとすれば、東遷説はありえない」とは、心強い。「卑弥呼の墓は箸墓古墳で寿陵」という説も、初めて知った。
いよいよ来週は「邪馬台国近畿地方説の有力な材料になる」という「三輪山麓の纒向遺跡一帯の遺跡群と墳墓群」を巡る。ここはシッカリと語っておきたい。
西谷先生のお話が聞けるツアーというのは良いですね。
興味深く読ませてもらいました。
卑弥呼の墓は寿陵というのは、とても説得力がありますね。
私も30年来、邪馬台国大和説で、箸墓は卑弥呼の墓だと考えております。
よろしければ、私のブログ記事もお読みください。
https://mokotabi.exblog.jp/17109528/
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
> 私も30年来、邪馬台国大和説で、箸墓は卑弥呼の墓だと考えて
> おります。よろしければ、私のブログ記事もお読みください。
これは良いブログですね、時々参考にさせていただきます!
私のほうもこちらのブログを読ませていただき、参考にさせてもらっています。
これからも、時々、コメントさせていただきます。
なお、仁徳天皇陵などの被葬者の比定についての私の記事もありますので、お読みいただければ幸いです。
https://mokotabi.exblog.jp/29708177/
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。