奈良新聞「明風清音」欄に月1~2回(木曜日)、寄稿している。先週(2023.6.29)掲載されたのは、素麺(そうめん)のルーツである「索餅(さくべい)」の話である。今日は七夕の日。7月7日は「そうめんの日」と、全国乾麺協同組合連合会が1982年(昭和57年)に決めた。その由来は、記事本文に登場する。
※トップ写真は、奈良市東向商店街でいただいた冷やしそうめん(2017.6.24 撮影)
奈良県内各地では、美味しい手延べそうめんがたくさん作られ、食べられている。冷やしそうめんの季節に、そのルーツに思いを致していただきたい。伝承料理研究家の奥村彪生さんの考証に基づき、紹介させていただく。
素麺のルーツ「索餅」
日本における麺の始まりは「素麺(そうめん)」だが、素麺の原形は、中国後漢末期の辞書『釈名(しゃくみょう)』にある「索餅(さくべい)」である。
これまで索餅の材料、形状や製法については諸説あったが、これらを解明したのが伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)氏で、その成果は『増補版 日本麺食文化の一三〇〇年』(農山漁村文化協会刊)に載る。以下、この増補版をもとに、索餅の謎を追う。
▼索餅とは水引餅(すいいんべい)である
清代の『釈名疏(そ)証補』によると、索餅は「水引餅(すいいんべい)」であるという。〈水引餅は紐状にしためんを水に漬けてから人差指と親指ではさみ、もみながらニラの葉のように平たく手延べしたものである〉(増補版からの抜粋、以下同じ)。
索餅は奈良時代に唐から伝わり『正倉院文書』にも登場する。東大寺の写経所では配給された小麦と索餅を交換しているので、乾麺であったことがわかる。
平安時代の『延喜式第三十三巻大膳下(おおかしわで)』によると、索餅の材料は小麦、粉米(細かく割れた米)、塩で、それぞれの数量も記載されている。
▼碾磑(てんがい)、転害、手貝
では大量の小麦や粉米を、どうやって挽(ひ)いたのか。『日本書紀』には、飛鳥時代の610年に朝鮮半島から「碾磑(てんがい)」が伝わったか、と記されている。碾磑とは、石製の大型の回転式ひき臼である。
2000年11月、東大寺境内の古井戸跡から、奈良時代の磑(小麦粉を挽く臼)の破片が発見された。石臼の直径は約1㍍と推定され、東大寺に、碓殿(うすどの)と呼ばれる製粉工場があったと考えられる。
かつては東大寺領だった奈良市手貝町の東側には転害門が立ち、中世から近世にかけて、周辺は転害(碾磑)郷と呼ばれていた。近くには佐保川が流れているので、〈この佐保川の水を引いて東大寺境内で水車製粉をしていたことは確実〉。従って平城京の東西の市で商われていた索餅は〈東大寺の製粉所でひかれた小麦粉でつくられていたと結論づける〉。
▼索餅の製造実験
奥村氏は『延喜式』などをもとに、索餅を再現した。得られた結論は、〈①小麦粉単独でつくる。②手もみ、手ない、手延べの、③細くて長いめんである。それ以外に米の粉を10~20%混ぜたものもあった〉。
▼縁起物・供物としての索餅
〈平安朝のころ宮中において天皇の健康と長寿を願って、元旦に殿上人が参列して朝賀の儀が執り行われた〉。朝賀の儀のあと、索餅が振る舞われた。〈おそらく長寿にかけて食べられたものと考えられる。今日においても中国では長寿を祈願して長いめんを食べ、陽春(ようしゅん)麺、または長寿麺と呼んでいる。これらにはそうめんがよく使われる〉。
平安時代から江戸初期まで宮中では、7月7日の七夕に索餅が食べられている。機織りに携わる女性たちは、索餅を糸に見立て、七夕の日に索餅を供えるようになった。平安時代には疫病が流行した。宇多天皇は疫病にかかって命を落とすことのないようにと、宮中でも七夕の日に索餅を供えるようになった。
▼古代式索餅の食べ方
奈良時代の『正倉院文書』や平安時代の『延喜式』によると、〈醤酢(ひしおす=二杯酢)や酢末醤(すみそ)、塩と酢をかけ、すりつぶしたショウガやクルミをトッピングして、和えて食べていたことになる〉。
この食べ方は今もある。秋田県横手市では梅酢で素麺を食べるし、兵庫県高砂市や熊本県南関町などでは二杯酢で食べる。このような調味法のルーツは、奈良時代の索餅にあったのだ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
※トップ写真は、奈良市東向商店街でいただいた冷やしそうめん(2017.6.24 撮影)
奈良県内各地では、美味しい手延べそうめんがたくさん作られ、食べられている。冷やしそうめんの季節に、そのルーツに思いを致していただきたい。伝承料理研究家の奥村彪生さんの考証に基づき、紹介させていただく。
素麺のルーツ「索餅」
日本における麺の始まりは「素麺(そうめん)」だが、素麺の原形は、中国後漢末期の辞書『釈名(しゃくみょう)』にある「索餅(さくべい)」である。
これまで索餅の材料、形状や製法については諸説あったが、これらを解明したのが伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)氏で、その成果は『増補版 日本麺食文化の一三〇〇年』(農山漁村文化協会刊)に載る。以下、この増補版をもとに、索餅の謎を追う。
▼索餅とは水引餅(すいいんべい)である
清代の『釈名疏(そ)証補』によると、索餅は「水引餅(すいいんべい)」であるという。〈水引餅は紐状にしためんを水に漬けてから人差指と親指ではさみ、もみながらニラの葉のように平たく手延べしたものである〉(増補版からの抜粋、以下同じ)。
索餅は奈良時代に唐から伝わり『正倉院文書』にも登場する。東大寺の写経所では配給された小麦と索餅を交換しているので、乾麺であったことがわかる。
平安時代の『延喜式第三十三巻大膳下(おおかしわで)』によると、索餅の材料は小麦、粉米(細かく割れた米)、塩で、それぞれの数量も記載されている。
▼碾磑(てんがい)、転害、手貝
では大量の小麦や粉米を、どうやって挽(ひ)いたのか。『日本書紀』には、飛鳥時代の610年に朝鮮半島から「碾磑(てんがい)」が伝わったか、と記されている。碾磑とは、石製の大型の回転式ひき臼である。
2000年11月、東大寺境内の古井戸跡から、奈良時代の磑(小麦粉を挽く臼)の破片が発見された。石臼の直径は約1㍍と推定され、東大寺に、碓殿(うすどの)と呼ばれる製粉工場があったと考えられる。
かつては東大寺領だった奈良市手貝町の東側には転害門が立ち、中世から近世にかけて、周辺は転害(碾磑)郷と呼ばれていた。近くには佐保川が流れているので、〈この佐保川の水を引いて東大寺境内で水車製粉をしていたことは確実〉。従って平城京の東西の市で商われていた索餅は〈東大寺の製粉所でひかれた小麦粉でつくられていたと結論づける〉。
▼索餅の製造実験
奥村氏は『延喜式』などをもとに、索餅を再現した。得られた結論は、〈①小麦粉単独でつくる。②手もみ、手ない、手延べの、③細くて長いめんである。それ以外に米の粉を10~20%混ぜたものもあった〉。
▼縁起物・供物としての索餅
〈平安朝のころ宮中において天皇の健康と長寿を願って、元旦に殿上人が参列して朝賀の儀が執り行われた〉。朝賀の儀のあと、索餅が振る舞われた。〈おそらく長寿にかけて食べられたものと考えられる。今日においても中国では長寿を祈願して長いめんを食べ、陽春(ようしゅん)麺、または長寿麺と呼んでいる。これらにはそうめんがよく使われる〉。
平安時代から江戸初期まで宮中では、7月7日の七夕に索餅が食べられている。機織りに携わる女性たちは、索餅を糸に見立て、七夕の日に索餅を供えるようになった。平安時代には疫病が流行した。宇多天皇は疫病にかかって命を落とすことのないようにと、宮中でも七夕の日に索餅を供えるようになった。
▼古代式索餅の食べ方
奈良時代の『正倉院文書』や平安時代の『延喜式』によると、〈醤酢(ひしおす=二杯酢)や酢末醤(すみそ)、塩と酢をかけ、すりつぶしたショウガやクルミをトッピングして、和えて食べていたことになる〉。
この食べ方は今もある。秋田県横手市では梅酢で素麺を食べるし、兵庫県高砂市や熊本県南関町などでは二杯酢で食べる。このような調味法のルーツは、奈良時代の索餅にあったのだ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
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