金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は以前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(自らの発言)に大幅に加筆され、Facebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.10)。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログで紹介させていただいている。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第15回のテーマは「奥駈(おくがけ)病という病い」。奥駈病とは何か、それは「山修行に来て死ぬような思いで歩き通すと、心身のバランスを取り戻して、そして元気になって、元の都会に戻っていく。そんな修行を毎年毎年繰り返していると、奥駈に行かないと一年が終わらないようになってしまう」、いわば「山修行中毒」である。厳しい修行のストレスからの反動で、帰ってきてから暴飲暴食することではない(笑)。
これを師は、哲学者・森岡正博氏の『無痛文明論』を引きながら説明される。「現代の物質文明社会は高度に文明が発達して、なんでもかんでも便利になってきている。そうなると、だんだん身体が楽をすることを優先してくる社会が現出してくる。いろんな便利なものが出来てきて、身体を一切使わなくなる」。大峯奥駈修行は、これに対する強力なアンチテーゼなのである。では師のFacebook(2/7付)から全文を抜粋する。
シリーズ「山人vs楽女/奥駈病という病い」⑮
著作振り返りシリーズの第6弾は、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。みなさまのご感想をお待ちしております。
**************
「奥駈病という病い」
大峯奥駈修行の醍醐味として、「役行者さんが開いた道を歩かせてもらっている」という自負というか、喜びがすごくありますね。行中は本当にものすごくしんどいんですが、ちょっとだけでも、そういう、なんていうか、千年の時を超えて役行者さんと共有できているというような喜び。そんな思いを持てることがあると思います。
修験の行のすばらしさを説明するのに、ちと難しいことながら、私は森岡正博さんという生命学者が現代社会のことを「無痛文明だ」と論じている話を紹介するんです。
どういうことかと言いますと、現代の物質文明社会は高度に文明が発達して、なんでもかんでも便利になってきている。そうなると、だんだん身体が楽をすることを優先してくる社会が現出してくる。いろんな便利なものが出来てきて、身体を一切使わなくなるというかね。
移動するのは、昔は足で歩くしかなかったのに、車が出来、電車が出来、飛行機が出来て、そのうち「どこでもドア」でもできれば、瞬時に行きたい場所に移動出来る。足を使わない、身体を使わない文明です。掃除は掃除機がする、洗濯は洗濯機がする、料理は電子レンジがする…ってな具合になってきた。
そういうふうに身体が楽をすることばかりを目指したあまりに、ついには心と身体のバランスが崩れ、今までは心が身体の主(あるじ)であったものが、文明の発達によって心が身体に隷属させられてしまう。これを「無痛文明」(身体の痛みを感じない)というそうです。あるいは家畜化文明ともいう。
そういう人間が家畜化された時代だからこそ、身体を使って行じる以外にない山の修行は、大変苦しいわけですが、苦しい過程を超える中で、心と体のバランスが戻るような所があるというのです。もちろんこれは私が勝手に言っているだけで、森岡さんはご存じないことですよ。(笑)
「奥駈病」という私たち行者の隠語がありまして、喧噪な都会にいますと自律神経失調症とか、対人関係で悩んだり、うつ病になったり、まあ金欠病とか、いろんな病気に近いものを持たされてしまいます。
それが山修行に来て死ぬような思いで歩き通すと、心身のバランスを取り戻して、そして元気になって、元の都会に戻っていく。そんな修行を毎年毎年繰り返していると、奥駈に行かないと一年が終わらないようになってしまうのです。それを我々は「奥駈病」と呼んでいます。
しかも奥駈病者は、怪我したら修行に行けないから怪我に気をつけよう、酒も控えよう、奥駈に10日間も行かせて貰うので、家族サービスは普段から心がけようとか、ね。休みも我慢して、奥駈のために頑張ろうとか。
普通の仕事をしていて、十日間の休みをとるのは本当に大変です。奥駈のために仕事をやめた人さえいます。十日はなんとか社長に頼んで休みを取れるけど、それを毎年やってると同僚に悪いから、という理由でねえ
それくらい、人生を変えてしまうような行の魅力。そのことが初め私はわからなくてね。何故に、こんなに参加者のみなさんは喜々として来るんだろうかと思ってました。
まあ、行けばそれなりに満行の達成感はあるにしても、あんなに喜々としてくるのはちょっと脳のどこかがおかしいんちゃうかと思ったりしましたよ。行者を毎年迎える側としてはそういう気持ちが正直あったのですが…。そんな私も、いつの間にか奥駈病にかかっていましたわ。
山で修行すると、ある種の生きている実感のようなものが涌いてくるのでしょうね。現代社会はなにかと神仏から疎外されているような中にいますが、それが山にはいると間近に神仏がおられることを実感出来ますし、身近に神仏を取り戻すんでしょうね。無痛文明批判と同じで、誰もそんな難しいことを考えて歩いている人はいないんですけど(笑)。
でも山にはいると守られているということを実感しないと一歩も進めないということはあります。そういうことも教えていただいているように思います。これは行ったもの同士だと凄く納得出来るお話なのです。
**********
本文を読みながら、奥駈病の仲間達を思い出していました。みんな元気にしているかなあ。私はといえば、ここしばらくすっかり体調不良で、山には行けていない。もう山伏失格者みたいなものであるから、元気だった頃の自分の文章を読むと、けっこう落ち込む。(笑)
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)
第15回のテーマは「奥駈(おくがけ)病という病い」。奥駈病とは何か、それは「山修行に来て死ぬような思いで歩き通すと、心身のバランスを取り戻して、そして元気になって、元の都会に戻っていく。そんな修行を毎年毎年繰り返していると、奥駈に行かないと一年が終わらないようになってしまう」、いわば「山修行中毒」である。厳しい修行のストレスからの反動で、帰ってきてから暴飲暴食することではない(笑)。
これを師は、哲学者・森岡正博氏の『無痛文明論』を引きながら説明される。「現代の物質文明社会は高度に文明が発達して、なんでもかんでも便利になってきている。そうなると、だんだん身体が楽をすることを優先してくる社会が現出してくる。いろんな便利なものが出来てきて、身体を一切使わなくなる」。大峯奥駈修行は、これに対する強力なアンチテーゼなのである。では師のFacebook(2/7付)から全文を抜粋する。
シリーズ「山人vs楽女/奥駈病という病い」⑮
著作振り返りシリーズの第6弾は、諸般の事情で上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。みなさまのご感想をお待ちしております。
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「奥駈病という病い」
大峯奥駈修行の醍醐味として、「役行者さんが開いた道を歩かせてもらっている」という自負というか、喜びがすごくありますね。行中は本当にものすごくしんどいんですが、ちょっとだけでも、そういう、なんていうか、千年の時を超えて役行者さんと共有できているというような喜び。そんな思いを持てることがあると思います。
修験の行のすばらしさを説明するのに、ちと難しいことながら、私は森岡正博さんという生命学者が現代社会のことを「無痛文明だ」と論じている話を紹介するんです。
どういうことかと言いますと、現代の物質文明社会は高度に文明が発達して、なんでもかんでも便利になってきている。そうなると、だんだん身体が楽をすることを優先してくる社会が現出してくる。いろんな便利なものが出来てきて、身体を一切使わなくなるというかね。
移動するのは、昔は足で歩くしかなかったのに、車が出来、電車が出来、飛行機が出来て、そのうち「どこでもドア」でもできれば、瞬時に行きたい場所に移動出来る。足を使わない、身体を使わない文明です。掃除は掃除機がする、洗濯は洗濯機がする、料理は電子レンジがする…ってな具合になってきた。
そういうふうに身体が楽をすることばかりを目指したあまりに、ついには心と身体のバランスが崩れ、今までは心が身体の主(あるじ)であったものが、文明の発達によって心が身体に隷属させられてしまう。これを「無痛文明」(身体の痛みを感じない)というそうです。あるいは家畜化文明ともいう。
そういう人間が家畜化された時代だからこそ、身体を使って行じる以外にない山の修行は、大変苦しいわけですが、苦しい過程を超える中で、心と体のバランスが戻るような所があるというのです。もちろんこれは私が勝手に言っているだけで、森岡さんはご存じないことですよ。(笑)
「奥駈病」という私たち行者の隠語がありまして、喧噪な都会にいますと自律神経失調症とか、対人関係で悩んだり、うつ病になったり、まあ金欠病とか、いろんな病気に近いものを持たされてしまいます。
それが山修行に来て死ぬような思いで歩き通すと、心身のバランスを取り戻して、そして元気になって、元の都会に戻っていく。そんな修行を毎年毎年繰り返していると、奥駈に行かないと一年が終わらないようになってしまうのです。それを我々は「奥駈病」と呼んでいます。
しかも奥駈病者は、怪我したら修行に行けないから怪我に気をつけよう、酒も控えよう、奥駈に10日間も行かせて貰うので、家族サービスは普段から心がけようとか、ね。休みも我慢して、奥駈のために頑張ろうとか。
普通の仕事をしていて、十日間の休みをとるのは本当に大変です。奥駈のために仕事をやめた人さえいます。十日はなんとか社長に頼んで休みを取れるけど、それを毎年やってると同僚に悪いから、という理由でねえ
それくらい、人生を変えてしまうような行の魅力。そのことが初め私はわからなくてね。何故に、こんなに参加者のみなさんは喜々として来るんだろうかと思ってました。
まあ、行けばそれなりに満行の達成感はあるにしても、あんなに喜々としてくるのはちょっと脳のどこかがおかしいんちゃうかと思ったりしましたよ。行者を毎年迎える側としてはそういう気持ちが正直あったのですが…。そんな私も、いつの間にか奥駈病にかかっていましたわ。
山で修行すると、ある種の生きている実感のようなものが涌いてくるのでしょうね。現代社会はなにかと神仏から疎外されているような中にいますが、それが山にはいると間近に神仏がおられることを実感出来ますし、身近に神仏を取り戻すんでしょうね。無痛文明批判と同じで、誰もそんな難しいことを考えて歩いている人はいないんですけど(笑)。
でも山にはいると守られているということを実感しないと一歩も進めないということはあります。そういうことも教えていただいているように思います。これは行ったもの同士だと凄く納得出来るお話なのです。
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本文を読みながら、奥駈病の仲間達を思い出していました。みんな元気にしているかなあ。私はといえば、ここしばらくすっかり体調不良で、山には行けていない。もう山伏失格者みたいなものであるから、元気だった頃の自分の文章を読むと、けっこう落ち込む。(笑)
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