長年、奈良県立民俗博物館に勤務され、現在は奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さんが、4回にわたって毎日新聞奈良版の「やまと 民俗への招待」欄に茶粥についてお書きになっていた(3/22~5/17)。モノが茶粥だけに、熱くなるのだろうか。私も大好物なので、毎回のめり込んで読んでしまった。
※トップ写真はわが家の茶粥。記事を読んで食べたくなって炊いた、お茶は煎茶を焙じた
茶粥についての一般の理解は、おおよそこのようなものだろう。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』の「茶粥」によると、
奈良名物として知られる茶粥は鎌倉時代ごろから寺院で食べられていたという。近松門左衛門の浄瑠璃「博多小女郎波枕」の中には「奈良ちゃがい」が出てくる。この頃には広く知られるものだったということ。お茶が庶民の飲み物になったのと同じ時期に茶粥が食べられていたことになる。茶の産地ならではの工夫だったのだろう。素朴な味わいとお腹にもたれないことから、朝食に人気がある。
しかし『日本大百科全書』の「茶粥」にはこのように書かれていて、びっくり仰天した。
山口県の郷土料理。一年中つくるが、季節により加える材料が変わる。たとえば1月には餅(もち)、早春のサヤエンドウ、夏にはアズキ、秋はサツマイモや小麦粉の団子を加える。3リットルの水を釜(かま)に入れて火にかけ、番茶を焙(ほう)じて布袋に入れたものをその釜に入れる。
煮立ったら箸(はし)などで袋を押して茶を浸出させて取り出す。米1カップを加えて煮て、柔らかくなったら火からおろし、熱いところを供する。米はさらりと仕上げ、粘りけがあってはならず、冷めると味が落ちる。アズキなど柔らかくするのに時間のかかる材料は、別に下煮をしておいて粥に加える。朝食に茶粥を食べる習慣は奈良、京都、和歌山地方に多い。[多田鉄之助]
冒頭の「山口県の郷土料理」と「奈良、京都、和歌山地方に多い」とのつながりが意味不明だが、「奈良、京都、和歌山」の茶粥が山口に伝えられていろんな材料を混ぜるようになったのだろうと思いたい。茶粥は私の実家(紀州九度山)でも、よく朝の食卓に上った。
ウチの会社が東京に支店を出したとき、寮の物干しに茶袋(ちゃんぶくろ=粉のほうじ茶を入れて煮出すための木綿の袋)がずらりと物干しに並んで、話題になったことがある。大和の民は東京へ行っても、茶粥を作って食べていたのである。
さて鹿谷さんの4回もの茶粥の話の全文は、この記事の末尾にリンクを貼っておくとして、私がピンときたと部分を以下に抜粋しておく。
1.練行衆癒す伝統の味(2017年3月22日付)
(東大寺二月堂修二会の)練行衆の正式な食事は1日に一度だが、その日の行を終えると夜食の茶粥(ちゃがゆ)を食べることが出来る。この茶粥は風変わりだ。練行衆の世話をする童子(どうじ)役が、10時間ほど炭火で番茶をたき出し、そのあと米をいれて普通の茶粥のように炊くのだが、炊きあがる頃、味噌(みそ)こしなどで、茶で炊いたご飯を半分ほどすくいあげ、おひつにいれて保温しておく。
深夜、下堂した練行衆は、茶の飯を器に入れて、その上から鍋に残った茶粥をかけて食べる。茶のご飯をゲチャ(揚げ茶からという)、残った茶粥はゴボという。ゴボには塩味をつける。つまり、炊いた茶粥を一度、ご飯と汁に分離して保温し、食べるときにまた一緒にして、つまりゲチャにゴボをかけて食べる。
江戸期に「奈良茶」と呼ばれる食べ物が評判になったが、それは茶粥を意味したり、茶飯を指したりした。この修二会の茶粥は、茶粥・茶飯・茶漬けなど茶と米の組み合わせ食の歴史を考えるときのヒントになるように思う。
東大寺のお坊さんから「ゲチャにゴボをかける」と聞いていたが、ようやくその意味が分かった。なお茶飯(奈良茶飯)とは、米に煎った大豆をまぜてほうじ茶で炊き上げたご飯のことである。
わが家の奈良茶飯。スーパーで買った煎り大豆を米に混ぜ、ほうじ茶で炊いた
2.香り高い大和の茶粥(同年4月19日付)
県内で一般に食べられていた茶粥は、チャガイ、オカイサン、単にオチャ、オチャチャとも呼ばれた。木綿のチャンブクロ(茶袋)に焙(ほう)じた番茶や粉茶(ドロコ)を入れて、よく炊きだしてから袋を引き上げ、洗った米を入れ、15~20分で炊きあがる。
冷やご飯の上から熱い茶粥を掛けて食べたり、また逆に昼の温かいご飯に、朝の残りの冷たい粥を掛けたりもする。カキモチを割って茶粥を掛けて楽しんだり、餅や芋や団子などを入れたり、ハッタイコを振りかけたり、夏は冷やして食べたりした。
「大和の茶粥、京都の白粥、河内のどろくい」という言葉がある。生駒市高山がウブスナの私は、オカイサンといえばこんもりと盛り上がりねっとりとした白粥だったが、初めて食べた茶粥は、香り高くさらりとして大変美味しかった。
JR・南海橋本駅前の橋本市観光協会で、こんな茶粥を発見!
オカザキ紀芳庵(橋本市高野口町大野)の商品で税込み270円
「河内のどろくい」とは、大阪の茶粥は泥のようにカタい、という意味だ。鹿谷さんのご出身地・生駒市高山町では、白粥を食べていたとは驚きだ。私は永らく、白粥は病人食だと思って敬遠していた。シェラトン都ホテル東京に泊まったとき、朝食バイキングに茶粥がなくて白粥だったのでガッカリしたことを覚えている。
3.茶粥、大仏造立起源か(同年5月3日付)
起源については諸説がある。その一つは、東大寺大仏造立に、庶民が米を食い延ばして協力したというものである。
(宮武正道著『奈良茶粥』で)平家の残党悪七兵衛景清が、大仏殿再建の落慶供養に参詣する源頼朝を討とうとして大門の二階に隠れていた時、大食漢だった彼が胸がつかえてしかたがなく、茶を入れた粥を炊いたところ非常に腹具合がよかったのが始まりだという説を紹介している。
ともに東大寺がらみであることは興味深い。茶粥がお水取りの夜食に食べられることから、その歴史も修二会と同じく1200年以上とする食文化研究者がいるが、修二会で茶粥を食べているから、茶粥の歴史も同じとするのは、極端な三段論法というべきだろう。
電子レンジ(500W)で1分20秒チンするだけ、夏はそのままでも。塩分は控えめ
お茶が日本に入ったのは早くても平安時代、普及したのは鎌倉時代以降なので、修二会(奈良時代の752年創始)よりずいぶん新しいはずだ。私は自宅では、少し古くなった(湿った)煎茶をフライパンで焙(ほう)じて使う。焙じすぎないようにすると、煎茶の香りが引き立つ。米を軽く焙じてから炊く方法もあり、えもいわれぬ香ばしが出る。
4.倹約で発案した茶粥(同年5月17日付)
(『河内屋可正旧記』によると)奈良の茶粥は「奈良茶」とも呼ばれたが、1693(元禄6)年執筆の「奈良茶の事」によると、可正が若い頃に酒殿権右という80歳の老人から「昔往、南都ニ弥二ト云(いふ)者、貧キ者ニテ仕始メタリ」と聞いたという。
越智宣昭は『南都古記』に「茶粥ヲやじうトイヘルハ、寛永年中ニ、小西町井戸屋弥十郎トイフモノ、初メテ仕出シ侍(はべ)ル。弥十郎ヲ略シテ弥十トイフナリ」とし、さらに古老から聞いた話では、弥十郎はもと酒屋でその屋敷跡が正気書院だという。正気書院は宣昭の義父越智宣哲が創立した学校で、場所は現在の小西通りの商店街の西側だった。
茶粥は倹約家の奈良町民の発案で、現在の近鉄奈良駅のすぐ南西の小西町から始まったことになる。ここが「奈良茶粥発祥の地」と知る人もなく、商店街はいつもにぎわいを見せている。
茶粥のことを「弥十(やじゅう)」と呼んでいたのだ。茶粥は、小西さくら通り商店街の西側あたりの「正気書院」が発祥とは、驚きだ。この商店街は新陳代謝が進み、古くからのお好み焼き屋がチェーンのラーメン店に、同じく古くからの文房具屋がチェーンの餃子店に変わってしまって、嘆いていたところである。どなたか、茶粥発祥の地で茶粥の店を始めてくれないものか。
なお、小西さくら通りと平行して走る東向商店街に入ってすぐ(成城石井の2階)の「月日亭近鉄奈良駅前店」では、お米から炊いた本格的な茶粥が味わえる。「大和茶粥膳」(税込み2,700円)があるし、ほかの定食のご飯を茶粥に変更することができる(値段はアップするが)。炊き上がりまで約40分かかるので、40分前に電話で注文しておくことをお薦めしたい。
鹿谷さん、興味深いお話をありがとうございました! ああ、また茶粥が食べたくなった…。
(ご参考1.)この記事を読まれた姫路市の池内力(いけうち・ちから 奈良まほろばソムリエ)さんから、以下のコメントをいただきました、ぜひお読みください。
引用されている『日本大百科全書』の≪山口県の郷土料理≫が気になり、山口県と奈良県の公式観光サイトを見ました。山口県は≪岩国茶がゆは、今から約400年前の関ヶ原の戦いの後、吉川広家が出雲富田14万石から岩国6万石に移封された際、厳しい情勢下、家臣団を養っていく米の節約のため始まったといわれる≫となっています。
一方、奈良県は≪聖武天皇の御代に遡る由来≫となっています。四百年前と千三百年前とでは、比較になりません。確かに≪山口県の郷土料理。≫でもあるのでしょうが、歴史的経緯を等閑視する『日本大百科全書』の記述は問題だと思います。
私も同感です。ついこないだ「B-1グランプリ」に入賞した程度で「郷土料理」と称する食べ物が、あまりにも多いからです。上記の「聖武天皇起源説」は、『古事類苑』(明治政府により編纂された百科事典)に出てくるそうです。『出会い 奈良の味』(奈良の食文化研究会)から引用しますと、
茶粥のルーツを調べて見ると、「古事類苑」の飲食部六の項には「大和の国は農家にても一日に四、五度の茶粥を食する。聖武天皇の御代、南都大仏御建立の時、民家各かゆを食して米を食い延ばし御造営のお手伝いをした。以降奈良では茶粥を常食するようになった」とある。
(ご参考2.)鹿谷勲さんの「やまと 民俗への招待」記事全文は、氏が代表をお務めになる奈良民俗文化研究所のHPで読むことができます(4.だけは未掲載のため当面、毎日新聞のHPへのリンクを貼っておきます)。
1.練行衆癒す伝統の味 毎日新聞奈良版 2017年3月22日付
2.香り高い大和の茶粥 毎日新聞奈良版 2017年4月19日付
3.茶粥、大仏造立起源か 毎日新聞奈良版 2017年5月3日付
4.倹約で発案した茶粥 毎日新聞奈良版 2017年5月17日付
※トップ写真はわが家の茶粥。記事を読んで食べたくなって炊いた、お茶は煎茶を焙じた
茶粥についての一般の理解は、おおよそこのようなものだろう。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』の「茶粥」によると、
奈良名物として知られる茶粥は鎌倉時代ごろから寺院で食べられていたという。近松門左衛門の浄瑠璃「博多小女郎波枕」の中には「奈良ちゃがい」が出てくる。この頃には広く知られるものだったということ。お茶が庶民の飲み物になったのと同じ時期に茶粥が食べられていたことになる。茶の産地ならではの工夫だったのだろう。素朴な味わいとお腹にもたれないことから、朝食に人気がある。
しかし『日本大百科全書』の「茶粥」にはこのように書かれていて、びっくり仰天した。
山口県の郷土料理。一年中つくるが、季節により加える材料が変わる。たとえば1月には餅(もち)、早春のサヤエンドウ、夏にはアズキ、秋はサツマイモや小麦粉の団子を加える。3リットルの水を釜(かま)に入れて火にかけ、番茶を焙(ほう)じて布袋に入れたものをその釜に入れる。
煮立ったら箸(はし)などで袋を押して茶を浸出させて取り出す。米1カップを加えて煮て、柔らかくなったら火からおろし、熱いところを供する。米はさらりと仕上げ、粘りけがあってはならず、冷めると味が落ちる。アズキなど柔らかくするのに時間のかかる材料は、別に下煮をしておいて粥に加える。朝食に茶粥を食べる習慣は奈良、京都、和歌山地方に多い。[多田鉄之助]
冒頭の「山口県の郷土料理」と「奈良、京都、和歌山地方に多い」とのつながりが意味不明だが、「奈良、京都、和歌山」の茶粥が山口に伝えられていろんな材料を混ぜるようになったのだろうと思いたい。茶粥は私の実家(紀州九度山)でも、よく朝の食卓に上った。
ウチの会社が東京に支店を出したとき、寮の物干しに茶袋(ちゃんぶくろ=粉のほうじ茶を入れて煮出すための木綿の袋)がずらりと物干しに並んで、話題になったことがある。大和の民は東京へ行っても、茶粥を作って食べていたのである。
さて鹿谷さんの4回もの茶粥の話の全文は、この記事の末尾にリンクを貼っておくとして、私がピンときたと部分を以下に抜粋しておく。
1.練行衆癒す伝統の味(2017年3月22日付)
(東大寺二月堂修二会の)練行衆の正式な食事は1日に一度だが、その日の行を終えると夜食の茶粥(ちゃがゆ)を食べることが出来る。この茶粥は風変わりだ。練行衆の世話をする童子(どうじ)役が、10時間ほど炭火で番茶をたき出し、そのあと米をいれて普通の茶粥のように炊くのだが、炊きあがる頃、味噌(みそ)こしなどで、茶で炊いたご飯を半分ほどすくいあげ、おひつにいれて保温しておく。
深夜、下堂した練行衆は、茶の飯を器に入れて、その上から鍋に残った茶粥をかけて食べる。茶のご飯をゲチャ(揚げ茶からという)、残った茶粥はゴボという。ゴボには塩味をつける。つまり、炊いた茶粥を一度、ご飯と汁に分離して保温し、食べるときにまた一緒にして、つまりゲチャにゴボをかけて食べる。
江戸期に「奈良茶」と呼ばれる食べ物が評判になったが、それは茶粥を意味したり、茶飯を指したりした。この修二会の茶粥は、茶粥・茶飯・茶漬けなど茶と米の組み合わせ食の歴史を考えるときのヒントになるように思う。
東大寺のお坊さんから「ゲチャにゴボをかける」と聞いていたが、ようやくその意味が分かった。なお茶飯(奈良茶飯)とは、米に煎った大豆をまぜてほうじ茶で炊き上げたご飯のことである。
わが家の奈良茶飯。スーパーで買った煎り大豆を米に混ぜ、ほうじ茶で炊いた
2.香り高い大和の茶粥(同年4月19日付)
県内で一般に食べられていた茶粥は、チャガイ、オカイサン、単にオチャ、オチャチャとも呼ばれた。木綿のチャンブクロ(茶袋)に焙(ほう)じた番茶や粉茶(ドロコ)を入れて、よく炊きだしてから袋を引き上げ、洗った米を入れ、15~20分で炊きあがる。
冷やご飯の上から熱い茶粥を掛けて食べたり、また逆に昼の温かいご飯に、朝の残りの冷たい粥を掛けたりもする。カキモチを割って茶粥を掛けて楽しんだり、餅や芋や団子などを入れたり、ハッタイコを振りかけたり、夏は冷やして食べたりした。
「大和の茶粥、京都の白粥、河内のどろくい」という言葉がある。生駒市高山がウブスナの私は、オカイサンといえばこんもりと盛り上がりねっとりとした白粥だったが、初めて食べた茶粥は、香り高くさらりとして大変美味しかった。
JR・南海橋本駅前の橋本市観光協会で、こんな茶粥を発見!
オカザキ紀芳庵(橋本市高野口町大野)の商品で税込み270円
「河内のどろくい」とは、大阪の茶粥は泥のようにカタい、という意味だ。鹿谷さんのご出身地・生駒市高山町では、白粥を食べていたとは驚きだ。私は永らく、白粥は病人食だと思って敬遠していた。シェラトン都ホテル東京に泊まったとき、朝食バイキングに茶粥がなくて白粥だったのでガッカリしたことを覚えている。
3.茶粥、大仏造立起源か(同年5月3日付)
起源については諸説がある。その一つは、東大寺大仏造立に、庶民が米を食い延ばして協力したというものである。
(宮武正道著『奈良茶粥』で)平家の残党悪七兵衛景清が、大仏殿再建の落慶供養に参詣する源頼朝を討とうとして大門の二階に隠れていた時、大食漢だった彼が胸がつかえてしかたがなく、茶を入れた粥を炊いたところ非常に腹具合がよかったのが始まりだという説を紹介している。
ともに東大寺がらみであることは興味深い。茶粥がお水取りの夜食に食べられることから、その歴史も修二会と同じく1200年以上とする食文化研究者がいるが、修二会で茶粥を食べているから、茶粥の歴史も同じとするのは、極端な三段論法というべきだろう。
電子レンジ(500W)で1分20秒チンするだけ、夏はそのままでも。塩分は控えめ
お茶が日本に入ったのは早くても平安時代、普及したのは鎌倉時代以降なので、修二会(奈良時代の752年創始)よりずいぶん新しいはずだ。私は自宅では、少し古くなった(湿った)煎茶をフライパンで焙(ほう)じて使う。焙じすぎないようにすると、煎茶の香りが引き立つ。米を軽く焙じてから炊く方法もあり、えもいわれぬ香ばしが出る。
4.倹約で発案した茶粥(同年5月17日付)
(『河内屋可正旧記』によると)奈良の茶粥は「奈良茶」とも呼ばれたが、1693(元禄6)年執筆の「奈良茶の事」によると、可正が若い頃に酒殿権右という80歳の老人から「昔往、南都ニ弥二ト云(いふ)者、貧キ者ニテ仕始メタリ」と聞いたという。
越智宣昭は『南都古記』に「茶粥ヲやじうトイヘルハ、寛永年中ニ、小西町井戸屋弥十郎トイフモノ、初メテ仕出シ侍(はべ)ル。弥十郎ヲ略シテ弥十トイフナリ」とし、さらに古老から聞いた話では、弥十郎はもと酒屋でその屋敷跡が正気書院だという。正気書院は宣昭の義父越智宣哲が創立した学校で、場所は現在の小西通りの商店街の西側だった。
茶粥は倹約家の奈良町民の発案で、現在の近鉄奈良駅のすぐ南西の小西町から始まったことになる。ここが「奈良茶粥発祥の地」と知る人もなく、商店街はいつもにぎわいを見せている。
茶粥のことを「弥十(やじゅう)」と呼んでいたのだ。茶粥は、小西さくら通り商店街の西側あたりの「正気書院」が発祥とは、驚きだ。この商店街は新陳代謝が進み、古くからのお好み焼き屋がチェーンのラーメン店に、同じく古くからの文房具屋がチェーンの餃子店に変わってしまって、嘆いていたところである。どなたか、茶粥発祥の地で茶粥の店を始めてくれないものか。
なお、小西さくら通りと平行して走る東向商店街に入ってすぐ(成城石井の2階)の「月日亭近鉄奈良駅前店」では、お米から炊いた本格的な茶粥が味わえる。「大和茶粥膳」(税込み2,700円)があるし、ほかの定食のご飯を茶粥に変更することができる(値段はアップするが)。炊き上がりまで約40分かかるので、40分前に電話で注文しておくことをお薦めしたい。
鹿谷さん、興味深いお話をありがとうございました! ああ、また茶粥が食べたくなった…。
(ご参考1.)この記事を読まれた姫路市の池内力(いけうち・ちから 奈良まほろばソムリエ)さんから、以下のコメントをいただきました、ぜひお読みください。
引用されている『日本大百科全書』の≪山口県の郷土料理≫が気になり、山口県と奈良県の公式観光サイトを見ました。山口県は≪岩国茶がゆは、今から約400年前の関ヶ原の戦いの後、吉川広家が出雲富田14万石から岩国6万石に移封された際、厳しい情勢下、家臣団を養っていく米の節約のため始まったといわれる≫となっています。
一方、奈良県は≪聖武天皇の御代に遡る由来≫となっています。四百年前と千三百年前とでは、比較になりません。確かに≪山口県の郷土料理。≫でもあるのでしょうが、歴史的経緯を等閑視する『日本大百科全書』の記述は問題だと思います。
私も同感です。ついこないだ「B-1グランプリ」に入賞した程度で「郷土料理」と称する食べ物が、あまりにも多いからです。上記の「聖武天皇起源説」は、『古事類苑』(明治政府により編纂された百科事典)に出てくるそうです。『出会い 奈良の味』(奈良の食文化研究会)から引用しますと、
茶粥のルーツを調べて見ると、「古事類苑」の飲食部六の項には「大和の国は農家にても一日に四、五度の茶粥を食する。聖武天皇の御代、南都大仏御建立の時、民家各かゆを食して米を食い延ばし御造営のお手伝いをした。以降奈良では茶粥を常食するようになった」とある。
(ご参考2.)鹿谷勲さんの「やまと 民俗への招待」記事全文は、氏が代表をお務めになる奈良民俗文化研究所のHPで読むことができます(4.だけは未掲載のため当面、毎日新聞のHPへのリンクを貼っておきます)。
1.練行衆癒す伝統の味 毎日新聞奈良版 2017年3月22日付
2.香り高い大和の茶粥 毎日新聞奈良版 2017年4月19日付
3.茶粥、大仏造立起源か 毎日新聞奈良版 2017年5月3日付
4.倹約で発案した茶粥 毎日新聞奈良版 2017年5月17日付