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菩提心の種まき by 田中利典師(金峯山時報「蔵王清風」)

2017年05月06日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)・種智院大学客員教授の田中利典(りてん)師が5月3日(水)、ご自身のブログ「山人のあるがままに」とFacebookに、「菩提心(ぼだいしん)の種まき」というエッセイを掲載された。釈尊(しゃくそん=お釈迦さま)の話で、しみじみと心を打つ。
※トップ写真は師のFacebookから拝借(中央が利典師)。下の画像は師の名著『修験道入門』

師は以前、NHKの「こころの時代~宗教・人生~」に出演され、「花に祈る 山に祈る」というお話をされたことがある(内容はこちらのブログに掲載している)。ぜひ再び出演され、このようなお話を語っていただきたいものである。では記事全文を紹介する。

 体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)
 田中利典
 集英社

「菩提心の種まき」ー田中利典著述集290503
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ欄「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。今日のはそうとう古い文章です。いまから遙か20年前。まだ20世紀末のもの。それだけに私の文章も青臭く、稚拙です(いまも稚拙ですけど…)。また、40代初頭で、志もいささか青臭いです。かなり照れますが、心意気を読んでみてください。

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「菩提心の種まき」
二十一世紀が目の前に来ている。「新しい革袋には新しい酒を注げ」という諺があるが、まさに二十一世紀という新しい革袋に相応しい酒が必要とされる時を迎えているのである。別に飲む酒の話ではない。我々が生きる時代の、思想・文化・政治・宗教・社会機構などあらゆる分野に亙っての変革のことを言っている。特に今世紀末は今まで人類が経験したことのないような、激烈な文明の進歩と社会変革が生み出されてきた。

で、私たちがなすべき話は宗教である。「こころの時代」といわれて久しいが、二十一世紀こそ、こころの世紀であろう。つまり宗教の責務たるや極めて重大である。その責務を果たすに相応しい活動が出来ているかどうか、宗教に関わる人間は皆がこの際、省みて自己変革につとめねばならないと思うものである。宗教に巣くって、おのが糊口を賄うのに汲々としているような志のない者は、直ちに席を辞して、立ち去れと言いたい。仏教徒にとっての志とは菩提心につきる。

釈尊があるとき托鉢(たくはつ)をしておられると一人の農夫が通りかかり、「我々は田畑を耕し作物を作って生活しているが、おまえ達は何も作り出すことなしにただ食べ物を乞うているだけの、穀潰(ごくつぶ)しではないか」と罵った。それに対して釈尊は、物静かに「私たちは目に見えるものは何も生産していませんが、人間が正しく生きていくための菩提心の種蒔きをして、人の心を耕しているのです」とお答えになったという。

その菩提心の種蒔(ま)きが大切なのである。これこそを自己の生活の中心に据えて生きていくことが、仏教徒の正しい生き様なのではないだろうか。

近年、僧侶の職業化・形骸化が著しい。サラリーマン住職だって珍しくはない世の中である。そんな人たちが本当の意味で、他人に対して慈悲深い教化活動をおこなえるのか。僧侶とは姿・形ではなく、菩提心に関わる生き様のみが問われなくてはならないのである。

僧侶にとって生き様のみが問題であるとすれば、在家・出家の別などない。サラリーマン化した出家(と称する)僧侶より、サラリーマンでありながら宗教活動をする在家の人々の方が優れている場合だって多いのである。いわゆる在家宗教者の時代の予見が新世紀にはある。少なくともそれくらいの自負をもった、今世紀末の修験者でありたいものだ。われわれ在家行者を旨とする修験者にはその使命がある、と私は思っている。 
      
ー「蔵王清風」(金峯山時報平成9年2月号所収)より

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昨日、ひとりの入門希望者が自坊にやってきました。聞けば、得度受戒許可の前行として、大阪・東住吉の自宅を徒歩で出て、はるか綾部の私のところまで踏破を目指したそうですが、途中で股関節を傷め、最後はバス・JRなどを利用したとのこと。それでも60キロ以上を自力で歩いて来られたのでした。

修験道を志す中で、自分の体をつかって、その道を求めようとする姿勢…。感心をしました。そして、私のいくつかの講演会や講座に出る中で、齢60を目前にして発心を起こしたんだという話を聞き、私なりの「種まき」がひとつの形となって現れたのだと思うと、とっても嬉しくなるのでした。まあ、種まきというのはいささかおこがましいことではありますが…。

このところ、「日本仏教=葬式仏教」論の煩瑣なやりとりに少々疲れていましたが、20年前の志を忘れることなく、私なりの仏道を行じていければと、改めて思い直した文章でした。実は今年に入って彼で4人目の入門者となります。こういう仏教のあり方というのも有りかと、私は思っています。仏教ちゅうか、修験道ですけど(^^;)


「目に見えるものは何も生産していませんが、人間が正しく生きていくための菩提心の種蒔きをして人の心を耕しているのです」とは、素晴らしいお言葉だ。今も、そのような立派なお坊さんはおられる。そのような僧侶の導きで「人間が正しく生きていくための道」を模索していきたいものである。利典師、素晴らしい文章、有り難うございました!
コメント
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