京都の西京区から、大阪市最南部の住之江区まで通勤している。地図を見ると、自分でもよくまあこんなに遠方まで毎日かよっているなあと感心してしまう。自宅は阪急沿線、会社は南海沿線で、その間に地下鉄堺筋線が端から端まで挟まっている。こう書けば、関西在住の方にはおおよそ想像していただけるのではないかと思う。
せっかく遠くまで来ているのだから、会社との往復だけでは能がない。ついでに行けるところは、できるだけ仕事帰りに立ち寄るように考えている。といってもぼくは夜勤で、帰る時間は朝の出勤ラッシュが一段落したころになるので、キタやミナミの繁華街に寄るというわけにはいかない。
天王寺公園にある大阪市立美術館は、うまくいけば開館直後にすべり込むことができるし、心斎橋あたりにあるミュージアムやギャラリーに行くにも都合がいい。家と反対のほうに足をのばせば堺市にも連絡しているし(ただしまだ行ったことはないが)、そのうちアルフォンス・ミュシャ館を訪ねる機会があればと思う。どれも、京都からわざわざ出かけるには時間もお金もかかるところばかりである。
***
観光名所としては、住吉大社が近い。大阪人には「住吉っさん(すみよっさん)」と呼ばれて親しまれているということだ。八坂神社が「祇園さん」と呼ばれるようなものだろうか。
今年の初詣のデータを見ると、住吉っさんには三が日だけで実に234万人もの人が参拝に訪れていて、全国で7番目に多いそうだ。普段は急行すらも停まらない南海の住吉大社駅は、人々でふくれ上がったことだろう。ぼくはといえば、正月にわざわざ会社の近くまで来るのはまっぴらなので、別のところにしたけれど・・・。「越年顛末記(1)」に書いたように、奈良の春日大社(春日さん)はあまりに混みすぎていて引き返したのだったが、それでも人出は住吉大社の3分の1に満たなかったという。
というわけで、ぼくが住吉大社を散策するのはもっぱら仕事が終わった後である。信仰心のないぼくは、特にお参りをするというわけではないが、心地よい砂利の感触を足の裏に感じながら鮮やかな朱色の本殿を眺め、青空に突き刺さる鋭い千木(ちぎ)を見ていると、何となく気持ちが改まる感じがするから不思議だ。
***
路面電車が走る道路を横切り、大きな鳥居をくぐると、行く手が何やらこんもりと盛り上がっている。有名な反橋である。人はここを渡って神域へと入るわけで、その急な傾斜はほどよい緊張をもたらしてくれる。正月三が日、ここを何万という人の列が渡るのかと思うと、ちょっと想像を絶するものがある。
〔この急角度の橋を渡る〕
〔反橋のてっぺんから本殿をのぞむ〕
〔池に映った反橋。まるで印象派の絵画のようだ〕
川端康成の短編小節『反橋』は、ここが舞台になっているということだ(ぼくはまだ読んでいないが)。橋のたもと近くには、その一文を刻んだ文学碑がひっそりとある。
〔石碑に燈籠の影が落ちる〕
《反橋は上るよりもおりる方がこはいものです
私は母に抱かれておりました》
川端康成「反橋」より
たしかに、おりるほうがこわい。体が前につんのめりそうになる。川端のいだいた感想もよくわかるが、子供を抱いたままのぼりおりせねばならない親にとっても、ここは相当の難所だと思う。
***
この日は土曜日だった。とっくに正月気分は抜けてしまっていて、今さら初詣でもないが、本殿のそばには何人もの巫女さんが待機していた。
朝の9時だというのに、参拝客が大勢集まってくる。趣味の寄り合いらしい陽気な団体さんや家族連れ、散歩ついでにぶらっと立ち寄ったらしい人、鳥居をくぐるたびに立ちどまって一礼する人、ぼくみたいにカメラ片手で被写体探しに余念がない人。そして、切なる願いを胸に秘めたまま長いこと手を合わせる女性もいる。
〔「住吉造」と呼ばれる本殿は国宝に指定〕
〔商売繁盛を祈願する「初辰(はったつ)まいり」の幟がひるがえる〕
だが、今年の初詣でいきなり凶をひいてしまったぼくは、今さら神も仏もあるものかと、ちょっとやけっぱちな気分になっている。古風な竹ぼうきで境内を掃き清めるおばさんたちの間を縫って、あちこちと歩いてみた。住吉大社には、おそらく初詣客の眼には触れないだろうというような奇抜なもの、珍しいものがけっこうあるのだ。
ぼくが見つけたかぎりのものだが、次回にちょっとご紹介してみたいと思う。
つづきを読む
せっかく遠くまで来ているのだから、会社との往復だけでは能がない。ついでに行けるところは、できるだけ仕事帰りに立ち寄るように考えている。といってもぼくは夜勤で、帰る時間は朝の出勤ラッシュが一段落したころになるので、キタやミナミの繁華街に寄るというわけにはいかない。
天王寺公園にある大阪市立美術館は、うまくいけば開館直後にすべり込むことができるし、心斎橋あたりにあるミュージアムやギャラリーに行くにも都合がいい。家と反対のほうに足をのばせば堺市にも連絡しているし(ただしまだ行ったことはないが)、そのうちアルフォンス・ミュシャ館を訪ねる機会があればと思う。どれも、京都からわざわざ出かけるには時間もお金もかかるところばかりである。
***
観光名所としては、住吉大社が近い。大阪人には「住吉っさん(すみよっさん)」と呼ばれて親しまれているということだ。八坂神社が「祇園さん」と呼ばれるようなものだろうか。
今年の初詣のデータを見ると、住吉っさんには三が日だけで実に234万人もの人が参拝に訪れていて、全国で7番目に多いそうだ。普段は急行すらも停まらない南海の住吉大社駅は、人々でふくれ上がったことだろう。ぼくはといえば、正月にわざわざ会社の近くまで来るのはまっぴらなので、別のところにしたけれど・・・。「越年顛末記(1)」に書いたように、奈良の春日大社(春日さん)はあまりに混みすぎていて引き返したのだったが、それでも人出は住吉大社の3分の1に満たなかったという。
というわけで、ぼくが住吉大社を散策するのはもっぱら仕事が終わった後である。信仰心のないぼくは、特にお参りをするというわけではないが、心地よい砂利の感触を足の裏に感じながら鮮やかな朱色の本殿を眺め、青空に突き刺さる鋭い千木(ちぎ)を見ていると、何となく気持ちが改まる感じがするから不思議だ。
***
路面電車が走る道路を横切り、大きな鳥居をくぐると、行く手が何やらこんもりと盛り上がっている。有名な反橋である。人はここを渡って神域へと入るわけで、その急な傾斜はほどよい緊張をもたらしてくれる。正月三が日、ここを何万という人の列が渡るのかと思うと、ちょっと想像を絶するものがある。
〔この急角度の橋を渡る〕
〔反橋のてっぺんから本殿をのぞむ〕
〔池に映った反橋。まるで印象派の絵画のようだ〕
川端康成の短編小節『反橋』は、ここが舞台になっているということだ(ぼくはまだ読んでいないが)。橋のたもと近くには、その一文を刻んだ文学碑がひっそりとある。
〔石碑に燈籠の影が落ちる〕
《反橋は上るよりもおりる方がこはいものです
私は母に抱かれておりました》
川端康成「反橋」より
たしかに、おりるほうがこわい。体が前につんのめりそうになる。川端のいだいた感想もよくわかるが、子供を抱いたままのぼりおりせねばならない親にとっても、ここは相当の難所だと思う。
***
この日は土曜日だった。とっくに正月気分は抜けてしまっていて、今さら初詣でもないが、本殿のそばには何人もの巫女さんが待機していた。
朝の9時だというのに、参拝客が大勢集まってくる。趣味の寄り合いらしい陽気な団体さんや家族連れ、散歩ついでにぶらっと立ち寄ったらしい人、鳥居をくぐるたびに立ちどまって一礼する人、ぼくみたいにカメラ片手で被写体探しに余念がない人。そして、切なる願いを胸に秘めたまま長いこと手を合わせる女性もいる。
〔「住吉造」と呼ばれる本殿は国宝に指定〕
〔商売繁盛を祈願する「初辰(はったつ)まいり」の幟がひるがえる〕
だが、今年の初詣でいきなり凶をひいてしまったぼくは、今さら神も仏もあるものかと、ちょっとやけっぱちな気分になっている。古風な竹ぼうきで境内を掃き清めるおばさんたちの間を縫って、あちこちと歩いてみた。住吉大社には、おそらく初詣客の眼には触れないだろうというような奇抜なもの、珍しいものがけっこうあるのだ。
ぼくが見つけたかぎりのものだが、次回にちょっとご紹介してみたいと思う。
つづきを読む