『源氏物語絵巻 宿木(三)』(部分、徳川美術館蔵)
日曜日、出かけようと思って電車に乗った。
今年になってから美術関係の本は読んでも、小説はまだ開いていない。ぼくは昔から作家になりたかったわりには、読書のペースが非常に遅いのだ。長編小説ともなると、途中で息切れしてしまうことが少なくない。
今年最初の一冊として、たくさんある本のなかから選んで鞄に入れたのは、向田邦子の『思い出トランプ』という短編集だった。電車の席に座って読みはじめると、遅読なぼくでも降車駅に着くまでに一作は読み終わる。電車を降りた後は、読んだばかりの小さな作品世界を頭のなかで反芻しながら、その余韻を楽しむのである。長編となると、毎回こうはいかない。
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ぼくはこれまでずっと、向田邦子の存在を無視してきた。名前はもちろん知っていたが、その本を手に取ったことは一度もなかった。やはり、作家というよりも脚本家というイメージが先に立ったからかもしれない。子供のころに茶の間で流れていたドラマは、後でわかってみると向田邦子の台本だった、ということがよくあった。
そんなぼくが向田邦子を読んでみようという気になったのは、3年ほど前にNHKでやっていた番組がきっかけである。といってもドラマの再放送を見たわけではなく、漫才コンビ「爆笑問題」の太田光が、向田邦子について講義するという内容であった。
彼はいつものバラエティー番組で見せるような怖いもの知らずのオドケを封印し、非常に真摯に、謙虚に、向田ドラマとその魅力について語った。今でも向田ドラマのビデオを見ると涙が出そうになる、という発言もしていたように思う。
太田はぼくより6歳年上だが、向田邦子についてしっかりとした自分の見解をもち、縦横無尽に語りつくすことができる人物としては、もっとも若い世代に属するのではないか。向田はぼくが10歳の誕生日を迎えた次の日に飛行機事故で死んだということだが、リアルタイムでそのニュースを聞いた記憶はぼくにはない。16歳の太田光には、大きな衝撃だったかもしれないけれど。
ぼくはドラマをほとんど見ない人間なので、とりあえずシナリオではなくて小説を買ってみた。それが『思い出トランプ』だったのだが、買ってはみたもののなかなか読むきっかけがつかめず、今年になってようやくブックカバーをつけ、鞄のポケットに入れたのである。
まだ読了したわけではないので(さっきもいったように読むのが遅いのだ)細かい感想を書くのは差し控えるが、20ページ足らずの枚数のなかに日常生活のさりげない場面が凝縮され、そこに男女の間の期待や失望や裏切りや、さまざまな感情の機微がびっしりと織り込まれているのに感心した。彼女は独身をつらぬいたはずだが、夫婦間の思惑のすれちがいや、いかにもありそうなしぐさ等々が的確に描写できるのはいったいなぜだろう? やはり、シナリオ作家として腕を磨いたせいなのだろうか。
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そういえば、さらに一週間前の日曜日に電車に乗ったとき、向かいの席の初老の女性がぶ厚い文庫本を読んでいた。失礼とは思いながらも表紙を見ると、円地文子訳の『源氏物語』、その第一巻であった。なるほど今年は源氏の千年紀などといわれているので、読む人も増えそうだ。ただし長編が苦手なぼくは、もちろんまだ読んでいない。
源氏の現代語訳にも、円地のほかにいろいろな人のものがある。谷崎潤一郎、与謝野晶子、田辺聖子、たしか橋本治が“窯変”させたものもあった。新しいところでは、瀬戸内寂聴の訳が完結している。これほど多くの種類があると、かえってどれを読んだらいいのか迷ってしまう(マンガもあるみたいだが、それはこの際おいておく)。
ぼくが敬愛する寂聴さんは、源氏ほどおもしろい小説はないというようなことをおっしゃるけれど、本当にそうだろうか? と思っていたら、読売新聞のコラムに次のような文章を見つけた。
《大きな声で言うことでもないが、「源氏物語」を読み通したことがない。幾度か挑んでは挫折した。冒頭「桐壺(きりつぼ)」の巻で投げ出す人を評して「桐壺源氏」という言葉があるところをみれば、同憂の士はいるのだろう。》(1月16日付 編集手帳)
さらに、かの山田風太郎も70歳を過ぎてから読んだらしい、とつづく。「たいていの人が途中で降参するのは、わからないからである」とは、山田の弁。寂聴さんとは、評価が180度くいちがっている。
ぼくは「桐壺源氏」どころか、1ページも開いたことはないが、両者の意見が異なるのもわかる気がする。寂聴さんは今でこそ尼さんだが、若いころは道ならぬ恋に身を焦がした、いわば奔放な恋愛の実践者であった。
一方で山田風太郎がどのような女性遍歴の持ち主か、それは知りようがないけれど、だいたい美男子が女をとっかえひっかえするような話を、もてない男が読んだっておもしろいはずがない、という気もするのである。あまりにも現実感のない、絵空事に思えてしまうにちがいない。
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超現実的な『源氏物語』よりは、向田邦子のほうがぼくにはリアリティーがあるように感じられる。とはいえ今年一年間、まったく源氏に見向きもしないというのも、ちょっと難しそうだ。
紫式部と向田邦子。このふたりの“む”ではじまる才媛に、今年は振り回されそうである。
(了)
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