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組曲も中ほどまでくると、「卵の殻をつけたひなどりの踊り」にさしかかる。実は『展覧会の絵』ではじめて聴いたのは、この部分であった。もうずいぶん昔に、テレビのCMか何かに使われていたのではなかったろうか。もちろんラヴェルによるオーケストラ版であった。
その題名からも、ぼくはフルートで奏される愛らしい音型が、ひよこのさえずりを模したものだと信じ込んでいた。いかにも、“ピヨピヨ”と聞こえたからである。ぼくが毎日利用する私鉄電車では、自動改札を通るときに、小児用の切符だと“ピヨピヨ”と音が鳴って知らせるようになっているが、ちょうどあんな感じだ。たしか冨田勲のシンセサイザー版でも、同じようなアレンジになっていたと思う。
そして主部の終わり近く、高い変ニ音をフェルマータで長く伸ばし、そのあとにハ音がオクターブ上の前打音付きでぴょこりと降りてくるところがある。ぼくは想像をたくましくして、やんちゃな子供たちのはしゃぎっぷりを腹に据えかねた親鳥が素っ頓狂な変ニ音で叱りつけ、ひよこが途端におとなしくなって居ずまいを正す場面を思い浮かべていた。まるでディズニーアニメのワンシーンでも見るような、思わず笑みがこぼれる小品である。
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だが、オリジナルのピアノ版を聴いてみると、ちっともそのようには聞こえないので憮然としてしまったものだ。いくら多彩な音色をもつピアノでも、鳥の鳴き声を模倣するのは難しいのではなかろうか。かつて現代作曲家のメシアンが『鳥のカタログ』という長大なピアノ曲を書き、世界中で取材したさまざまな鳴き声を鍵盤から響かせようと試みたが、ぼくにはあまり鳥の声らしく聞こえなかったというのが正直なところである。
考えてみれば、そもそもピアノという楽器の構造上、それは致し方ないことだ。基本的に打楽器であるピアノは、音が出たその瞬間に最大のアクセントがあり、あとは漸次弱まっていくだけである。京都の寺なんかにある鶯張りの音のほうが、よっぽど鳥のさえずりに近いといったらいいすぎだろうか。
ところが、ぼくはこの曲の題材とされるガルトマンの原画(上図)を観て、心底驚いた。孵ったばかりのひよこが、まだ温かい卵の殻を頭にくっつけたカリメロのような姿で“ピヨピヨ”と走り回る情景を勝手に想像していたぼくは、ちょっと落胆してしまった。その絵は何と、卵の殻から手足の生えた、バレエの衣装のデザイン画だったからだ。正面向きで描かれている踊り手はまだ可愛らしいが、精巧に作られた鳥のかぶりものをすっぽりかぶった横向きの姿は、何だかグロテスクでさえある。ひなどりというには長くのびすぎた足の爪と、ごていねいに蹴爪までもっていて、卵の殻の側面には着脱用の留め具がついているのすら見える。ウルトラマンのファスナーを見てしまったようで、あまりいい気はしない。
これだと、あの“ピヨピヨ”という音はやっぱり、ひよこのさえずりではなかったのだと判断せざるを得ないだろう。ムソルグスキーがこの絵から何を感じ取ったか知るすべはないが、むしろバレエのステップを音楽化したようにも思われる。こんな動きづらいかっこうでは、どうしたってひよこのようなヨチヨチ歩きになってしまうのは無理もない話だからだ。
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さてこの曲は、オーケストラ版では快速なインテンポで演奏されるのが常である(だからこそ、あの変ニのフェルマータが際立つのだ)。しかしオリジナル版では、一定の速度を維持して弾くピアニストは非常に少ないように思う。テンポのぐらつき自体が、ひよこの危なっかしい足取りを具現化しているのである。
中間部に入ると、高音のトリルが連続する。ラヴェルのオーケストレーションの天才ぶりが冴えわたる箇所であり、ピアノで聴いても素晴らしい。ただ、中村紘子は2回繰り返されるメロディーの後半を、オクターブ高く演奏していた。どうも先ほどから、いつも聴きなれているピアノ版とはちょっとちがうなと思っていたが、やっぱりそのようだ。
ムソルグスキーは豊かなインスピレーションの泉のような人で、才気にまかせて書き飛ばすものの、それをまとめて整理したり、演奏可能な状態にまで仕上げたりすることの不得手な人物だったらしい。そのせいか、彼の作品は生前あまり演奏されず、盟友リムスキー=コルサコフらの校定によってようやく名曲の座にのぼりつめた曲も多かった。ピアノ版『展覧会の絵』もまさにそれであるが、中村紘子は誰の楽譜に依っていたのであろうか。ひょっとしたらムソルグスキーが書きつけた生(なま)の音により近いのかもしれないが、本当のところはわからない。
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