ついにというか、とうとうというか、赤塚不二夫が息を引き取った。近いうちにこの日がくるのではないか、という予感はあった。ときどき思い出したように、赤塚不二夫は今どうしてるのかなあ、と話題にすることもあった。
ギャグ漫画の王様の晩年は、あまりにもつらく、気の毒だった。何年間も寝たきりで、言葉を発することもできなかった。2人目の妻で、プロダクションの社長でもあった眞知子さんは献身的に看病をつづけたが、無理がたたったのか自分がくも膜下出血で倒れてしまい、2年前に亡くなった。56歳の若さだった。周囲に迷惑をかけながらも愛されていたバカボンのパパと、その生みの親の生きざまとは、見事に重なるような気がする。
14歳年上の夫を「フジオちゃん」と呼んだ眞知子夫人は、亡くなるまでの3か月の間だけ「これでいいのだ!!」というブログを書いた。載せられた写真のなかには、病床の赤塚不二夫がちらりと写っているものがある。バカボンのパパのイラストが描かれた毛布にくるまれ、タモリから贈られたというさくらんぼを枕もとに置いている。
九州から上京してきた素人の森田一義(タモリ)を自宅に居候させ、芸能界進出の足がかりを作ったのは赤塚だった。やがて森田の奥さんも上京し、自分の家のようにして赤塚家に住んだ。その間、超売れっ子漫画家の赤塚センセイは自分のスタジオで寝起きしたという。現代ではあり得ないような話である。
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正直にいうと、ぼくは赤塚漫画を読んだことはあまりない。小学生向けの月刊誌で「まめたん」という子供が主人公の連載を読んだ記憶はあるが、ギャグも控えめで、おとなしいという印象があった。ただ、今でも覚えているのは、まめたんが好きな食べ物をたずねられたとき、「ぼくはビールのあぶくが好き」と答えていた場面である。赤塚不二夫の酒好きは、筋金入りだった。
ハチャメチャなギャグが頻発する赤塚ワールドに親しんだのは、やはりアニメである。当時は漫画家になりたいなどと思っていたので、勉強の合い間にウナギイヌやニャロメを描いたりしていたが、それから四半世紀余り経った今でも、あのときのキャラクターたちがちっとも色あせずに生きながらえているのには驚かされる。
バカボンは必ず渦巻模様の着物を着ていたし、バカボンのパパは鉢巻と腹巻を手放さなかった。イヤミはどんな激しい動きをするときにでも、ビシッとスーツで決めていた。どぎついキャラクターがいつも同じ服装で登場すると、まるで喜劇を見ているような懐かしい気持ちになる。寅さんや花紀京の扮装と、バカボンのパパの服装は、どこかで重なり合うような気もする。
加速度的に世の中が変化し、漫画の世界も多様化した。しかし赤塚不二夫が生み出した愛すべきキャラたちは、昭和時代のちょっと古びた雰囲気をただよわせながら、いつまでもぼくたちを楽しませてくれることだろう。
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昔、NHKの「美と出会う」という番組があった。さまざまな美術家を訪ね、その活動ぶりや私生活の一端を紹介するような内容だったと思うが、あるときなぜか赤塚不二夫が取り上げられた。サブタイトルは、「ギャグのココロは愛なのだ」。
赤塚が当時打ち込んでいたのは、視覚障害者向けの「さわる絵本」を作ることだった。山根基世アナウンサーに向かって、彼は絵本の構想を熱心に語った。温和な笑顔をくずすことはなかったが、そのときすでにしゃべり方はあやしく、あまり呂律が回っていなかった。彼が脳内出血で倒れたのは、その翌年のことだ。絵本は無事出版されたものの、ペンを持つことは二度とかなわなかった。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
(画像は記事と関係ありません)
とうとう・・・でしたね。
新聞によると、今春新しいリハビリの先生が来られたとき、喜ばれたそうです。
なぜならその先生、チビ太そっくり!!だったそうです。
ご冥福をお祈りします。
それにしてもチビ太そっくりの人って、どんなんでしょう。ぜひお顔を拝見したいものです(笑)。