藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

ゴミの山は宝の山

2019-09-26 16:01:10 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和の時代が懐かしい。 特に40年から50年にかけては、私の中では特別な時代だった。 広島市が主催していた「青年学級」での多くの出会いが、真の学びについて考えさせられたからだ。 17歳から三年間の闘病生活で、広大医学部の図書館の本の中で、高校生が読めそうな本は全て読んだ記憶が有る。 というのも、医学部には同門の先輩が沢山いて、どの診療科にも必ず数人いた。 その先輩が、自由に図書館の出入りを出来るようにしてくれていた。 図書館の管理者も同門で、色々アドバイスをしてくれた。 そんな下地が有ったので、「青年学級」で、講師として招請された先生方は、広島大学の教授が中心であったので、その中でも、日本を代表する哲学者「門哲」こと角 秀一教授、 フランス文学の松浦 寛教授は、その講義内容が面白く私が一番好んだ講師だった。 そのお二人とは、妙に気が合って、個人的お付き合いが、・・・と言っても、勝手に大学の研究室に押しかけていた。 一時期は、本気で大学に進学すべく勉強を始めることも考えたが、仕事の建築が面白くなりはじめ、当時は雨が降ると工事が出来なかったので、雨が降れば広大キャンパスを、うろうろしていた。 つまりお二人の研究室に押しかけていた。 角先生の講義は、200人ほどが入る講堂で行われていて、出入り自由。 松浦先生は、20人ほどの部屋が中心で抗議されていたが、大学院生の講義は、2~3にでされていたので、自分の研究室が中心だった。 そこに押しかけた私がいたのだ。 ただし、お土産をもって。 ブラジルという喫茶店で引いてもらったコーヒー豆を持って行って、それを皆さんと飲みながら講義を聞いていた。 フランス語なんてチンプンカンプンな私だったが、同年代の若者と、先生のやり取りが面白く、楽しく過ごしたことは確かだ。 確か41年に、ボーボワールが広島に来た年は、先生と彼女についての議論は時間を過ぎても続いていた。 確か優生保護法の事だったとおもいだしている。 広大の門の周りには全学連の看板が張り巡らされていたように思うのだが、その事は記憶はあいまいだ。 いづれにしても、その先生の部屋の外廊下には、大量の本が積み重なっており、その大半が、生徒の忘れ物や、フランス語を諦めた連中の捨てた物で、ゴミだったのだ。 その中から、フランス語の辞書と、フランスで出版された本だけを探し出して、頂いて来た。 頂いただけで、読めたのではない、何時か時間が取れるようになった時に、めっくて見ようと思ったのだ。 今でも「物をひらう癖」はある。 そもそも、パソコンを使い始めたきっかけは、広島市の粗大ごみの廃棄が有料化される時に、日にちを限って無償で処分してくれた。 その時拾ってきた物を、色々触った結果、使いこなせるようになったのだ。 こうした私の、「拾い物生活」は、人間関係にまで及ぶ、鳩山家との関係や、藤山愛一郎外務大臣、灘尾広吉文部大臣・・・全て拾い物からの関係なのです。 石原慎太郎等もその口、彼が最初の選挙の時に、広島の建設業界の、影の仕切り屋さんから頼まれ仕事で選挙に参加。 気に入られて、東京の総決起大会でしゃべらされて、浅利慶太氏と仲良くなり、同席していた五島 昇氏に京都の祇園で、「人生最初で最後のお座敷遊び」を経験させていただいた。 そんなこんな「ひらい物人生」で、一番の「ひらい物」とはそれは、「奥様」である。 奥様がゴミの中にいたといううことではありませんよ。  

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