藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

広島県は衰えていくばかりの感がある

2020-07-21 11:31:58 | 日記・エッセイ・コラム

 小さな町の議員は潔く議員を辞職した。 何かと言えば、河井元法相夫婦の買収事件である。 天下の政令都市の広島市の議員や、県議会議員が居直っているのだ。 自尊心も誇りも、選挙民から政治を付託された自覚さえない。 只々、黙して語らずだ。 今回見えてきた政治的構図は、嘗て「亀井静香」兄弟が衆参の国会議員を分担していた時の再現を、河井夫婦がもくろんだ形跡が見える。 選挙資金の流れからも、空き家になった企業からの資金提供や、後ろ盾を無くした市議会い議員などの端末議員に、そのお金が流れている。 私もかつては、政治活動をしていた関係で、その勢力分野はよく理解しているつもりだ。 ただ私は、「被爆者」であり、ある「同和問題」事件に大きくかかわった過去が有って、広島市議会については地元議員は、「社民党」、他の区については、人物本位で支持していた。 勿論亀井静香元大臣とも同窓であり、旧社会党議の町長や、市長との顔つなぎも随分行った。 広島市議会議員会館の地下の食堂で、昼休みに、共産、社民、自民、公明等、良識派と呼ばれた皆さんと割り勘で食事をしながら意見を交わしていた。 そこで知り得たことは口外した事は無い。 ただ行政の間違いや、あるべき姿はハッキリと言ってきた。 ところがここ十五年、議員が妙にお高く止り始めた。 いつか此の付けが来ると、私は感じていたが案の定である。 平和の問題や、文化施設の在り方や、形ばかりの行政に成りつつあるのは何故であろうか。 その一例が、被服省跡地の問題である。 行政に群がった企業が持つ「票」にすがった議員が増えてしまったからだ。 戦後広島県下の養鶏の発祥地は、広島の安佐南区や、安芸区であった。 そこにはひなを育てる施設が有り、今でも安芸区には大型な飼育施設が有る。 昭和45年頃、養鶏振興のための試験場が狭くなったとき、県中央部に移転が始まった。 その時、三次市と庄原市にまたがる、備北地区に、農学部を中心にした大学の設置を提案したのが私で、此の時、高速道路「中国縦貫道」の建設と合わせた政策を打ちあがたのが「亀井兄弟」だった。 広島に空いた土地の活用を、提案したのが「私だ」 安佐南では、防災壁代わりに四階建ての県営住宅の建設を計画した。 事実この施設で先の災害で多くの人間が救われた。 私が住んで居る今の街には、大型公民館と、文化施設を立てる事を提案し、町村合併時に組み込んで実現した。 そうした後から政治に参加した河井氏には、何の政策も無かった。 地元市会議員の足を引っ張る事しか無かったと言いても過言ではない。 地元大地主との結託で、防災目的の幹線道路拡張も邪魔され、今回の災害復旧が、困難を極めているのはその所為である。

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