MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

ファッションデザインの「歪さ」の起源について

2018-03-10 00:23:20 | 美術

 世田谷美術館で催されている『ボストン美術館 パリジェンヌ展 現代を映す女性たち』

を観ていて、今まで何故気がつかなかったのかということがあった。

 上の作品は『ギャルリー・デ・モード・エ・コスチューム・フランセ』という雑誌に

掲載された「商品を届ける優雅な仕立屋」という、1778年に流行したフランスの衣装

をエッチングによって描いたものである。

 原画はピエール=トマ・ルクレール(Pierre-Thomas Le Clerc)によるものだが、

美術史的には新古典主義と言われる時代を全く感じさせず、明らかに四肢が細すぎて

デッサンとしてならともかく「絵画」として見るならばありえない描写である。つまり

絵画として後世に残らないような作品が当時の風俗を表すものとして残っているのである。

ここの齟齬を専門家がどのように捉えているのかいまいちよく分からない。


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パリジェンヌの社会的地位の遍歴について

2018-03-09 00:48:45 | 美術

 世田谷美術館において「ボストン美術館 パリジェンヌ展 時代を映す女性たち」という

特別展が催されている。

 本展の特徴はパリの女性たちの社会的地位の向上の歴史が絵画作品を通して学べる点に

あると思われるが、例えば、テオフィル=アレクサンドル・スタンラン(Théophile

Alexandre Steinlen)の『宝飾品店のウィンドウショッピング』、『女性と求婚者』、

『外を歩くカップル』というタイトルの制作年不詳のリトグラフがある。それはどれも

一人で外にいる女性に話しかけてくる男性が描かれており、女性が一人で外にいることは

当時はそのまま売春を暗示させるような社会的雰囲気だったのである。

 上の作品は時代が少し進んでゲアダ・ヴィーイナ(Gerda Wegner)の『ジョルナル・

デ・ダム・エ・デ・モード』より「袖をたくし上げたドレス」というエッチングの作品

なのだが、1914年の本作においては女性一人でも外を歩ける様子が描かれている

のである。ただゲアナ・ヴィーイナに関しては立場が微妙で、『リリーのすべて』という

トム・フーパー監督の2015年の作品で描かれたようにヴィーイナの夫はリリー・エルベ

Lili Elbe)という世界初の性別適合手術を受けた人物なのである。そこを考慮した上で

検証しなければ上の作品で描かれているように女性の社会的地位の向上が現実だったのか

理想として描かれたものなのか微妙なのではある。


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『安宅家の人々』

2018-03-08 00:58:26 | goo映画レビュー

原題:『安宅家の人々』
監督:久松静児
脚本:水木洋子
撮影:高橋通夫
出演:船越英二/田中絹代/三橋達也/乙羽信子/三條美紀/山村聡/本間文子
1952年/日本

女性の地位向上と過剰な純粋さの関係について

 吉屋信子の原作で水木洋子が脚本を担った本作には、過剰な純粋さが見て取れる。例えば、主人公の安宅宗一は知的障害者で特別支援学校「小桜学園」で学んだ後に、安宅家の長男として実家の広大な養豚場を託されているのであるが、実質経営者は妻の國子である。
 國子は良家から嫁いできたのであるが、宗一の弟の安宅譲二の妻の雅子に「修道女のような生活をしている」と告白するように宗一とは夜の営みはなく、宗一が雅子のことを好きだと聞いて酷く動揺する。それがプラトニックであるが故に、なおさら宗一のために身を捧げている自分が愛されていないことに傷つくのである。
 國子は雇い人以上に朝から晩まで働いているにも関わらず、事業の失敗により負債を清算してもらったのみならず居候までさせてもらっている譲二の悪知恵により使用人たちにストライキを起こされ、さらに雅子の面影を追っているうちに宗一が崖から転落死したことで、遺産を整理することにする。養豚場をたたみ譲二に半分相続させ、残りは「小桜学園」に寄付し、國子はその分校の保母になることにして、譲二と離婚した雅子も保母になる決心をするのである。
 雅子が訪れるキリスト教系の特別支援学校は実在する学校と生徒たちが映されており、その純粋さは戯言を許さない。


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『あるセックス・ドクターの記録』

2018-03-07 21:10:12 | goo映画レビュー

原題:『あるセックス・ドクターの記録』
監督:弓削太郎
脚本:高橋二三
撮影:宗川信夫
出演:船越英二/水木正子/田武謙三/吉田義夫/笠原玲子/石黒三郎/目黒幸子/早川雄三
1968年/日本

「子供っぽい」成人向き作品について

 本作はある少年の怪我の治療に携わった主人公で泌尿器科の専門医の根岸公二が少年に輸血した血液で梅毒に感染したことで、少年のみならずそのО型の血液を提供した5人の人物を探し出して治療を試みるというストーリーである。
 梅毒というテーマからポルノ映画のような雰囲気があるのだが、「ガメラシリーズ」の脚本を担っていた高橋二三がガメラ映画の合間に書いたためなのか梅毒が様々な手段で人間の体内に忍び込む「未確認生物」のような扱いである。しかしウィキペディアによるならば1967年に日本において梅毒の小流行があり、本作はその流行に乗っかって1968年に撮られたものと思われる。
 その5人を列挙してみると、成城のお嬢様でレズビアンの本沢チエ子、ある会社の課長の三村信吉、新興宗教の教祖で、そのおかしな言動から「脳梅毒」を疑われた茨木玄白、地元で強姦された経験から上京して「ヌードの女王」と呼ばれて活動している踊り子の滝ユカリ、タクシー会社の社長で、妻の水田キヨノの不妊という要因もあってのことか妊娠している久保田鈴子を愛人として囲っている水田栄三である。
 奈良林祥
が監修に携わっていることもあって当時としては正確な情報で脚本が書かれていると思われるが、さすがに本沢チエ子の相手の久美が通っている洋裁の短期大学の寄宿舎のルームメイトの全員が霧吹きを共用していたから梅毒に感染したというのはもはやギャグである。
 ラストはリモコン飛行機で遊んでいる回復した少年を根岸が見守っているというシーンである。テーマが成人向きなのにストーリー展開が子供っぽいという原因は上記の通りである。


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『ダウンサイズ』

2018-03-06 00:58:21 | goo映画レビュー

原題:『Downsizing』
監督:アレクサンダー・ペイン
脚本:アレクサンダー・ペイン/ジム・テイラー
撮影:フェドン・パパマイケル
出演:マット・デイモン/クリストフ・ヴァルツ/ホン・チャウ/クリステン・ウィグ/ウド・キア
2017年/アメリカ

「運命」という名に相応しい振る舞いについて

 「運命論」という観点から捉えるならば本作と『15時17分、パリ行き』(クリント・イーストウッド監督 2018年)は同じテーマを扱っていると思う。3人の青年たちがパリ行きの列車でイスラム過激派のテロリストと対峙するまでの運命と、本作の主人公のポール・サフラネックがダウンサイジングして隣人のドゥシャン・ミルコヴィッチや元政治活動家のノク・ラン・トランと出会い、「ダウンサイジング」を最初に提唱したノルウェーのユルゲン・アスビョルンセン医師たちのグループに合流するまでの人生を運命と捉えることに違いはないように見える。
 だからポールは環境破壊による地球の終末を唱えるアスビョルンセン医師たちと共に地下に作られたコロニーへの移住を決心するのであるが、ドゥシャンは彼らを「カルト」と見なす。つまり「現在」に向き合うことなくどうなるのか分からない「未来」にこだわる集団は、皮肉にも金儲けのためにわざわざダウンサイジングして普通に生きている家族と組んでクスリや高級品を売りつけている「現実主義者」のドゥシャンには胡散臭いものでしかないのである。
 土壇場になってポールがコロニーに行かなかった理由が、コロニーにたどり着くまでに歩いて11時間かかることだったのかどうかは定かではない。再び「ダウンサイジング」して暇を持て余すような行為に飽き飽きしていたのかもしれない。結局、ポールはまたノク・ランのボランティア活動の手伝いをすることになる。
 「レジャーランド」でいつもの高齢の車椅子の男性に食事を運んだ後に、ポールは改めて振り返って彼を見つめる。その時、ポールは自分の亡き母親を思い出していたに違いない。医学部に進学しながら病気になった母親の面倒を見るために中退して理学療法士にしかなれなかったポールだが結局同じことをしている。それはまるで『15時17分、パリ行き』同様に自分自身のことではなく他人に奉仕することこそが「運命」という名に相応しいというかのようだ。


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『15時17分、パリ行き』

2018-03-05 00:15:50 | goo映画レビュー

原題:『The 15:17 to Paris』
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ドロシー・ブリスカル
撮影:トム・スターン
出演:アンソニー・サドラー/アレク・スカラトス/スペンサー・ストーン/ジュディ・グリア
2018年/アメリカ

もはや映画評論家の評価などどうでもいい映画監督の作品について

 2015年8月21日に実際に起こった「タリス銃乱射事件」を基に実際に事件に関わった3人を主人公に据えて撮られており、てっきりイーストウッドがフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」的実験を試みたのかと思って期待して観に行った。しかし例えばエリック・ロメール監督やジャック・ロジエ監督作品が持つ瑞々しさが見られるわけではなく、「ヌーヴェル・ヴァーグ」的手法が成功しているようには見えないのであるが、そもそもイーストウッドにはそのような意図は最初からなかったと捉えるべきであろう。
 アンソニー、アレク、スペンサーの3人は幼なじみで学校でははみ出し者として教師たちに目を付けられており、転校したものの転校先のキリスト系学校でも同じ目に遭っていた。やがてスペンサーは空軍の落下傘部隊に入隊することを目指し自身に厳しいトレーニングを課して身体能力を上げて入隊することができるのであるが、先天性の奥行感覚の欠落によりスペンサーは熱望していた部隊に入隊することができず、救護班に所属して救急処置を学び、そこで首を切られた際の治療法は存在せず運に左右されることを知り、それは事件の現場で活かされることになる。
 アフガニスタンで従軍していたアレクが休暇を利用してガールフレンドがいるドイツを訪れることになったために3人で会うことになる。ドイツに滞在後、3人はフランスに行く予定だったのだが、たまたま飲みに入ったバーで出会った男性に「良い女がいる」と勧められてアムステルダムに行くことになり、その後、パリ行きの高速列車に乗って事件に巻き込まれるのである。
 小さい頃からはぐれ者で運にも見放されて努力も報われなかった者たちが、まるでそんなやんちゃな彼らこそ必要とするように運命が彼らを事件現場に導き、フランスから勲章を貰うにいたるまで一気に上りつめた彼らを見た時、私たちに必要なこととはただ(「行動しろ」という説教臭い言葉よりも)「何かをしろ(do something)」という至ってシンプルなことだと気づかされるのである。
 映画評論家には評判が悪いのだろうが、若者には勇気を与える佳作であることに間違いない。


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『ブラックパンサー』

2018-03-04 00:55:04 | goo映画レビュー

原題:『Black Panther』
監督:ライアン・クーグラー
脚本:ライアン・クーグラー/ジョー・ロバート・コール
撮影:レイチェル・モリソン
出演:チャドウィック・ボーズマン/マイケル・B・ジョーダン/ルピタ・ニョンゴ/ダナイ・グリラ
2018年/アメリカ

逆に「干渉」されて存在感を失うヒーローについて

 このようなスーパーヒーローものがアフリカを舞台にしているところに、例えば『ジオストーム』(ディーン・デヴリン監督 2017年)のような新鮮さを感じるし、『ワンダーウーマン』(パティ・ジェンキンス監督 2017年)が大ヒットしたことと同様に女性の次に黒人がフューチャーされたことに大きな意義があると思うのだが、ワンダーウーマンと同様にアヴェンジャーズの一員として組み込まれてしまうとブラックパンサーでさえ影が薄くなってしまう嫌いはある。
 ところで本作のテーマである「他国への干渉」というのは難しい問題だと思う。ワカンダという国が持つ希少鉱石のヴィブラニウムが悪用されないようにその存在を隠してワカンダのこれまでの王は国を治めていたのであるが、結局、主人公のティ・チャラは世界の負の部分を見逃すわけにはいかないと敢えて世界にヴィブラニウムを広めることで世界平和を推進することにしてしまう。この判断は当然のことながら誤りとして続編が製作されるのであろう。
 舞台のひとつとして韓国の釜山が選ばれているのであるが、『シェイプ・オブ・ウォーター』(ギレルモ・デル・トロ監督 2017年)でも釜山のことが語られており何故ネタが被ったのかが興味深い。


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『シェイプ・オブ・ウォーター』

2018-03-03 00:27:44 | goo映画レビュー

原題:『The Shape of Water』
監督:ギレルモ・デル・トロ
脚本:ギレルモ・デル・トロ/ヴァネッサ・テイラー
撮影:ダン・ローストセン
出演:サリー・ホーキンス/マイケル・シャノン/リチャード・ジェンキンス/ダグ・ジョーンズ
2017年/アメリカ

粋がるアメリカが捕らえられない「水の形」について

 時代設定は1962年でアメリカのボルティモアが舞台である。当時のアメリカとソ連の冷戦関係をなぞるような登場人物の相関図は、まるでアメリカそのものを体現しているようなリチャード・ストリックランド大佐と、主人公で発話障害を持つイライザ・エスポシト、彼女の友人で黒人のゼルダ、イラストレーターでゲイのジャイルズ、ソ連のスパイのロバート・ホフステトラー博士と半魚人というマイノリティーたちの対立として描かれている。
 とかくイライザと半魚人の恋愛が注目されがちなのであるが、個人的にはストリックランド大佐の「葛藤」が気になる。ストリックランド大佐たちは捕まえた半魚人の生体解剖により、宇宙開発においてソ連に差をつけようと試みているのであるが、上司であるフランク・ホイト将軍には朝鮮戦争時に釜山にいた頃から14年も世話になっておりストリックランド大佐は失敗が許されない厳しい状況に置かれている。
 ところがストリックランド大佐は半魚人に手を咬まれたり、イライザたちの共謀で半魚人に研究施設から逃げられたりして散々な目に遭い、ついには咬まれた手の指が腐り出し、港湾にまで半魚人を追い込みながら、一度は撃ち殺した半魚人が生き返り反撃に遇って絶命してしまうのである。アメリカがどのように粋がってみても勝てないこともあるという現実に直面するのはヴェトナム戦争で証明されることになるのだが、ストリックランド大佐がもがき苦しむ有様にアメリカの悲壮感を感じるのである。
 ラストシーンを観た観客はイライザが住んでいた部屋の下にあった名画座で上映されていた映画の意味を知ることになる。『砂漠の女王(The Story of Ruth)』(ヘンリー・コスター監督 1960年)と『恋愛候補生(Mardi Gras)』(エドマンド・グールディング監督 1958年)の2作品がかかっているのだが、「ルツ(Ruth)」とは旧約聖書に登場する「他者」の慣習に従う女性であり、「マルディ=グラ(Mardi Gras)」とはアメリカのニューオーリンズなどで行なわれるカーニバルで「告解火曜日」、または「懺悔火曜日」と呼ばれているのである。驚くべきことはこの事件が起きたのは当初10日の予定を前倒しした1962年10月9日の火曜日の夜なのである。


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『風速七十五米』

2018-03-02 00:10:59 | goo映画レビュー

原題:『風速七十五米』
監督:田中重雄
脚本:高岩肇/田口耕三
撮影:高橋通夫
出演:宇津井健/田宮二郎/叶順子/菅原謙二/浜田ゆう子/菅井一郎/高松英郎
1963年/日本

「ディザスター的」演出について

 タイトル通りに良質のディザスタームービーであることに加えて、意外と伏線となるストーリーもしっかりとしている。
 主人公の新聞記者の田村信一郎は昨年(昭和34年)の伊勢湾台風を目の当たりにしたためなのか東京に大型台風が来る場合の危機感を抱いており、特に林立しているネオンが倒壊する危険性を指摘していた。そんな時に東西製薬のネオンが完成し、それを請け負った丸高組の社長の娘の丸山照子と大学の同級生(卒業して7年経っているから29歳くらいか?)だった田村は完成式に顔を出した。
 その夜、ネオンが何者かにダイナマイトで爆破され、工事の入札を丸高組と競った名古屋に拠点を置く遠藤工業に疑いの目が向けられたのであるが、足が付かないように遠藤工業は直接関与せず、暁産業の常務の木谷明を使っていた。木谷も照子と田村の大学の同級生だったのであるが、かつて遠藤が同じ軍隊の副官として木谷の父親に師事しており、敗戦直後に自殺した木谷の父親に代わって明を育てた恩義があるために裏切れなかったのである。
 工事現場の監督である浅沼を演じた早川雄三のコミカルな演技が宇津井健や田宮二郎に負けず劣らずの出来栄えなのだが、例えば、爆破事件を伝える紙面が昭和39年7月22日付だったり、さらに遠藤工業の策略で、ネオンを再建しようとする丸高組の従業員で吃音症を患う梅原の主導によるストライキを報じる紙面が6月18日付だったりして、やはり演出が大雑把なところは致し方ないのだろうか。


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『宇宙人東京に現わる』

2018-03-01 00:26:49 | goo映画レビュー

原題:『宇宙人東京に現わる』
監督:島耕二
脚本:小国英雄
撮影:渡辺公夫
出演:南部彰三/目黒幸子/川崎敬三/見明凡太朗/永井ミエ子/山形勲/苅田とよみ
1956年/日本

ノーベル賞級の発見をした博士の雑な扱われ方の意味について

 作品冒頭は赤い塗料が撒かれた跡にタイトルが映され、その次に青い傘のアップが映された後に、小村芳雄と新聞記者が訪れた「宇宙亭」の提灯の赤が映されるなど本作は赤と青のイメージで彩られている。
 岡本太郎がデザインした「パイラ星人」は1970年に大阪に「太陽の塔」として再び現れた。
 しかし肝心のストーリーが良くない。そもそもどの客層をターゲットに制作されたのかよく分からないのである。原水爆などの核兵器廃絶を訴えたいのならば地球に接近してきている「R」と呼ばれる惑星を原水爆で攻撃して地球を救うというストーリーに違和感を持つし、松田英輔博士が発見した原水爆以上の破壊力を持つ元素「ウリウム101」を使って惑星を破壊するというのは逆に「平和的」と呼ばれる怪しい核開発を推奨しているようなものである。
 ところが別の側面を注目してみるならば、必ずしも核開発を勧めているようには見えない。それは松田英輔博士の扱いである。松田博士は「ウリウム101」の情報を盗んで金儲けを企てるジョージ斎藤と名乗るブローカーたちに誘拐されるのであるが、「R」の接近で諦めて松田博士を縄で縛りつけて置き去ってしまう。松田博士が閉じ込められたビルは「R」の接近により崩壊するのであるが、松田博士は辛うじて落ちなくて助かっていた。そこへ天野銀子(人間の姿をしたパイラ星人)たちが現われて松田博士から「ウリウム101」の情報を聞き出して「R」を破壊するためのミサイルを作るのであるが、松田博士は縄を解かれただけで自力で東京城北天文台まで青息吐息で帰らせられるのである。原水爆以上の破壊力を持った元素を発見したノーベル賞級の博士の割には扱いが雑過ぎる。つまりどれほど優れた発見をしても「害悪」を伴うものだとこんな目に遭うのだよというメッセージなのであるならば納得できるストーリーではあるのだ。


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