MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『対論 1968』

2023-07-27 00:59:12 | Weblog

 1968年頃の日本の学生運動に関してちょっと興味があり新書ということもあって、本書を手に取ってみたのであるが、「専門用語」だらけで何がなんだかよく分からない。巻末には「新左翼党派の系統図」が載せてあるものの、アニメにでもしてもらわないと覚えられないが、ここでは印象に残った話題を書き留めておきたい。

 日本の学生運動とは「自分探し」だったのか?

「つまり〝生きずらさ〟と言っても、別に〝差別されて辛い〟とか〝ブラック労働で辛い〟ということではなく、むしろそういう具体的な根拠を欠いた、抽象的でスカスカした、手応えのない辛さ......それを〝辛い〟と表現すること自体が正確なのかどうかという、そうした息苦しさ。これは対象化としての〝疎外〟ではないんだよ。何か〝正しい私〟あるいは〝本来あるべき私〟があって、それは現在の私のありようとは違っており、だからその〝本来の私〟を取り戻そう、回復しようというのが、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクス的な自己対象化論としての疎外論だね。/しかし問題なのは〝疎外感〟であって〝疎外論〟ではない。」(p.71)

 ゲーデル的であれ郵便的であれ、脱構築と否定神学を対立させる東浩紀の発想がそもそもトンチンカン?

「〝メシアなきメシアニズム〟(ジャック・デリダ)
 〝神は存在しないと思いながら祈らなければならない〟(シモ―ヌ・ヴェイユ)」(p.76)

 岡本太郎は原発礼賛派?

「花田清輝あるいは武井昭夫さんの周辺にいた人たちの多くは、今でも岡本太郎をいいと思っているし、まして世間一般はそうでしょう。しかし『太陽の塔』って、あれは原発のことですよ(笑)。原発のシンボルなんです。日本初の商用原子炉である福井県の敦賀原発が稼働を始めて、その最初の電気を万博の開会式に送電するっていうイベントなんだからさ。」(p.78-p.79)

 〝転向論〟は日本にしかない?

「ヨーロッパ人ならば、コミュニズムが正しいのかファシズムが正しいのか、というのが重要な問題なのであって、〝立場を変えた〟こと自体は思想的主題にはなりませんよ。仮にファシズムが正しいんなら、むしろ立場を変える〝べき〟であって、逆にコミュニズムの方が正しいのであれば、立場を変える〝べき〟ではなかったということになる。それだけのことです。〝転向〟自体が問題だという思考は、ヨーロッパ人にはありません。例えば、ポール・ニザンが独ソ不可侵条約に激怒して共産党を脱党したことについて、〝裏切り者め!〟という話になることはあっても、〝なぜ彼は転向しえたのか?〟みたいな〝転向論〟の議論は起きない。〝なぜ〟って、〝独ソ不可侵条約に激怒したから〟でしょう(笑)/どういうわけで、日本にだけ〝転向論〟が生まれたのか? あの時代、思想転向そのものが日本に固有の現象だったからですね。ポール・ニザンの脱党は、権力の強制による思考転換という意味での転向ではない。」(p.129)

 上野千鶴子のフェミニズム

「80年代のフェミニズムというのは、上野千鶴子を典型として、最近だと〝リーン・イン・フェミニズム〟と呼ばれるような、つまりアッパー・クラスのインテリの、〝男と同等になるべきだ〟、それも要は社会の枢要な地位に就くことを可能にすべきだという、上層階級内部での〝不平等〟を問題にしてきた。これはいたしかたない面があるにせよ、全共闘を批判するとすれば、上野千鶴子のような〝リーン・イン・フェミニズム〟を大量に生み出したことをこそ批判するべきなんだ。」(p.143)
「そもそも特権的な立場の女が、〝ガラスの天井〟を突破しても、その恩恵が非正規・不安定層までトリクルダウンするなんてことはない。階級上昇にチャレンジしうる立場の女を主とするような、そんなフェミニズムではダメだということです。」(p.144)
「上野千鶴子みたいなフェミニストには、男であれ女であれ〝非正規〟労働者の存在が視野に入っていないし、そういう人たちは〝問題外〟として端的に排除されてしまう。それが最終的には、移民を排除して、かつての帝国主義本国の遺産を本国人だけで分配したいという排外主義に帰結していく。実際、上野千鶴子は、〝リーン・イン・フェミニスト〟の路線を純化して、〝排外フェミニズム〟へと見事な転換を遂げて、『移民を入れるな』と言い出したわけです。」(p.149-p.150)

 内ゲバの原因?

「表面的には、西欧と日本の状況はパラレルだったとも見えます。しかし決定的に違っていたのは、フランスやイタリアでは、親世代の共産主義者たちがファシズム体制への武装抵抗をやっていたこと。アルジェリアやベトナムのようにパルチザン戦争で侵略者を叩き出したわけではなく、アメリカ主導の連合軍の力で勝ったにすぎないとしても、それでも武器を取って闘ったという事実は決定的だった。政治的な威信や民衆からの支持は急速に拡大し、戦争直後のフランス共産党やイタリア共産党には、政権を獲得しかねないほどの勢いがあった。」(p.175-p.176)
「ところがユーロコミュニズムの本場では、新左翼の若者がいくら口先で威勢のいいことを言おうと、銃を持ってファシストと戦っていた親たちに鼻の先であしらわれてしまう(笑)。〝行動の急進性〟を競ってもかなわないんです。だから戦術問題として武装闘争の有効性を主張するとしても、暴力が活動家の存在理由になってしまうような傾向は希薄だった。その点、日本の新左翼は、戦後憲法の〝平和主義〟の問題と相俟って、〝戦争〟というものから疎外されていたんだね。だからこそ逆に〝戦争〟に向けて疎外されていく。」(p.177)

 フリーダムとリバティ

「では、〝68年〟以降の世界はどうなったか? 〝平等〟の要求が〝自由〟の要求に反転したわけだ。(中略)〝68年〟世代のある部分がネオリベ化していったことにも根拠はある。〝平等〟の要求が達成された結果としての抑圧的な社会への叛乱は、それを裏返した〝自由〟の要求を広範に生じさせた。/ところが日本語では同じ『自由』でも、〝68年〟のフリーダム要求がリバティにすり替えられてネオリベラリズムが支配的になっていく。」(p.182)

 呉智英は吉本主義者?

「呉智英の〝反・反差別〟って要は津村喬批判でしょう。吉本も津村の反差別論を『ナンセンスだ』と批判してきた。呉智英というより、そのバックボーンの吉本が、反差別論をすべて無効だと言いたてるようなネトウヨ的言説の源流だと思う。」(p.195-p.196)
「だけど呉智英も、笠井が言うように、小林よしのりや排外主義に流れていくんだよ。大月隆寛も〝新しい歴史教科書をつくる会〟に参加してたしさ。」(p.197)

 何かとマルクス頼み?

「斉藤幸平が言ってるのも、ブルジョア主義のエコロジーは不徹底なので、マルクスに即してもっとちゃんとやりましょう、という程度のこと。しかし支配層がやる以上のことなんかできないし、結局はその補完物になっていく言説にすぎない。本源的蓄積における収奪と奴隷化は資本主義の原罪=現罪で、たった今も貧困と従属は再生産され続けている。先進地帯の内側にさえ第三世界は存在します。その第三世界は地球温暖化なんか知ったことじゃない、飢えないための今日のパンをよこせと要求しているわけで、この難問を回避する限り、エコロジーと言っても地球市民の支配的富裕層による趣味の問題にすぎませんね。」(p.212)

 高橋源一郎は助けてくれない?

「国会前でいろいろ言ってるぶんには先生にもホメてもらえるけど、自分の大学で、〝安保法制反対〟のビラを仮に撒いたら、たぶん処分されますよね。で、処分されたとして、まず高橋源一郎が、学生側に立って当局と闘ってくれるとは思えない(笑)」(p.219)

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https://news.goo.ne.jp/article/shueisha/trend/shueisha-92134


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