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義経神社 伝説の光と影

栗の御神木にはしばし別れを告げ、義経神社の本殿に向かいます、広場を横切り、正面に本殿の見える参道まで戻ると、
うーん、やはり風格を感じます。そしてこの山に馴染んでいる。樹々や山の気に負けず、むしろ景の重しとして、あるべきところに鎮座している感じ。
この配置はやはり絶妙です。

実はこの神社、建立は1799年頃といわれています。明治維新より70年ほど前です。
すると建立200年を越えていることになり、なるほどそれならばこの馴染み方も納得のいくものです。

『YOMIURI ONLINE ふるさと探見』の「義経神社(平取) 静寂の中、息づく生存伝説」によれば、
神社が建立されたのは1799年ごろ。江戸幕府から派遣された幕吏近藤重蔵が、現在の平取町付近に住むアイヌの人々が義経を敬っている事を知り、義経像を寄進したのが始まりといわれる。なぜアイヌの人々が義経を敬っていたのか。義経が穀物の栽培法を伝えたことが理由のひとつとされているが、正確な事は分かっていない。
とのことです。
義経神社の義経伝説。どんな伝説なのでしょうか。
平取商工会のHP、「義経神社」の項には、義経伝説として、以下のような説明を載せています。
義経神社は、源義経公を御神体としており、この御神体は近藤重蔵らにより寛政11年(1799)この地に安置されたのが始まりとされています。明治9年(1876)に村社の指定を受け名実共に平取義経神社として全国にその名を広めました。本神社にまつわる義経伝説には、義経公は、この地を訪れアイヌ民族をこよなく愛し、農耕や舟の作り方、操法、機織り等の技能を伝授したことから、住民は義経公を慕い「判官様」または「ホンカンカムイ」と呼んで尊崇していたと伝えられています。

以前、洞爺湖畔のキムンドの滝でも、義経伝説に出会いましたが、ここ平取の地の義経伝説は、かなり大がかりなものです。
この伝説に歴史ロマンを感じ、義経が生きて北海道に渡った、と信じている方々もいらっしゃることでしょう。

しかし、この義経伝説、そうでない捉え方もあることを知っておくべきでしょう。
各地の義経伝説を研究、HP「義経伝説」を開設している佐藤弘弥氏は、以下のように述べています。

今、北海道の平取町は、北海道の義経伝説の聖地 のような所になっている。しかしこの平取は、日高アイヌの故郷とも呼ばれる場所だ。(中略)おそらく、この地に様々なもっともらしい義経伝説が存在する理由は、先住アイヌ民族の懐柔のためのイデオロギーとしてこの伝説がねつ造され、それが盛んに喧伝されたためであるということができよう。

周知のように北海道における義経伝説の成り立ちというものは、先住民族であるアイヌの人々を懐柔するために極めて意図的政治的に持ち込まれた概念である。(中略)

北海道における義経伝説は、アイヌの人々に対しては、あたかも昔から義経一行を崇拝する伝承が存在したとして、アイヌの人たちを懐柔し、本土から開拓のために渡ってくる日本人には、この土地が希代の英雄である源義経のゆかりの土地であると思わせるイデオロギーそのものとして機能したことになる。「北海道の義経伝説」

そうです。同じ伝説でも、その持つ意味は正反対なのです。
そして、「どちらが正しいか」はわからないにしても、「どちらが説得力があるか」は、歴史的事実を客観的に積み上げていけば、佐藤氏の説の方が断然説得力がある、と言わざるを得ないでしょう。

義経伝説の光と影。
それは、北海道の開拓と日本化、日本という国家による蝦夷地の植民地政策と切っても切れないものであるようです。


本殿の建物も立派であるだけでなく、細部の造りまで日本式の宮大工の技が光る、本格的な、見事なものであることがうかがえます。この本殿の建立期は今回私にはわかりませんでしたが、神々しい山に似合ったみごとな雰囲気であり、しかも、非常に良く手入れされ、大切にされていることが印象的でした。

さて、この義経神社、義経を祭っている、というだけでなく、もう一つ、大きな特徴があります。それは次回の記事で。(つづく)
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