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傾かない天秤(13)

2015年10月24日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(13)

 時の要素、最大の主要成分は忘却だ。忘れて何が悪い、に尽きるのだ。時の居直り。

 あれから数か月が経っている。さゆりには恋人がいる。幸せな状態は気分を華やかにする。ひとは親から初歩的な言語体系を受け継ぎ、先生から高度を上げる学習を授けられる。視野もひろがって、模範と繰り返しの結果により大人になる。大人は教わらなかったこともできるようになる。彼らはベッドにいる。アドバイスは不要だ。

 わたしはモニターを切る。いや、自動で切れるように設定されている。興奮も不要なものだ。その日はそのまま監視の時間が終わってしまった。あまりにも長い。報告書はその意味合いの記号で終わる。

 わたしは部屋にいる。クリフォード・ブラウンというトランペット奏者がいた。わたしは彼の音楽を長年、聴いている。以前はそれほど好きではなかったが、いまはこの楽器の演奏者として筆頭にあげている。聴いた期間は、彼の人生の全部よりずっと長い。その財産となるべき立場の期間は非常に短い。プロとして活躍したのは十年にも満たないはずだ。永続というのは不思議なものだ。わたしは音楽でよろこびを感じ、この若者のことを考えると、それより深い感情で悲しくなった。

 わたしたちの世界では作曲家もいない。もちろん、コンサートもない。仕方なくわたしは人間がつくった音楽で代用する。そもそも音楽に興味がない者がここでは多い。わたしはその面で、なぜだか不当に軽蔑されている。

 数日後、さゆりは仕事で印刷会社のひとともめている。決定した写真と別のものが使われていた。訂正はぎりぎり間に合わすということで決着したが、本日は残業になりデートの予定をすっぽかしてしまう。責任のなすりつけ合いがはじまっている。彼女はいくぶん、上の空だったのかもしれない。若い女性に完璧さなど求めるものではない。男性にもだが。聖人君子など地球上にひとりもいない。しかし、失敗がそのひとを伸ばすこともある。

「教育論は、まあいいから」

 わたしは目をつけられている。この業務から異動になるかもしれない。

 さゆりはタクシーに乗っている。電車はもうない。迷惑料として、業務後にお酒をおごった。相手は納得してくれた。確認を怠ることを今後は避けましょう、と提案をしてもらった。まじめとは融通が利かないことではないのだろう。頑固、こだわり。いろいろ失敗への誘惑がある。彼女はタクシーのなかで携帯電話を確認する。メールがある。恋人はやさしいことばで心配してくれている。遅い時間なのは分かっているが、彼女は返事を打って送る。直ぐにまた返信がきた。少しでも会いたかった。

「おっと、今度は恋愛小説家か」
「この場合の報告は、こうなるでしょう?」
「そうだよな」

 わたしも腹蔵なく酒でも酌み交わしながら、この管理者と話したかった。
 翌日、臨時の休みをとったさゆりは彼の家で料理をして、帰りを待っている。鍋から香ばしい匂いがする。ひとのために時間と技術を割く。そのことが愛情の最後でもあるようだ。自己中心的や、自分の時間、自分の力の誇示などが、子どもっぽくさえ思えてしまう。

 何種類かの料理ができあがっていく。冷蔵庫には数ブランドのビールやワインがある。彼女は洗濯までする。ベランダに大きなものを干した。学校帰りの子どもたちが追いかけっこをして騒がしい音を立てている。どこかで布団をたたく音もする。幸せなノイズたち。しばらくわたしは注意を怠り、下界を眺めている。犬を散歩させる上品そうな主婦がいる。豆腐を売りにきたラッパの音も聞こえる。夕刊を配達する大学生がいる。ひとは何らかの仕事をするのだ。

 さゆりはいくつかの皿を冷蔵庫に入れる。待つ間にテレビでニュースを見る。明日の天気予報があり、夜の時間に突入する前に家の玄関が開いた。

 さゆりは抱きつこうか迷っているが、理性が勝ってしまい、ただ微笑むだけだ。再度、エプロンをつけて作業にとりかかった。そして、温かいものは、もう一度、温かくなった。

 ムードを高める音楽がかかる。照明も薄暗くなる。静かにささやき、皿とフォークやスプーンがこすれる小さな音がする。スピーカーから黒人の低い声がながれる。食事が終わると彼は腕まくりをして皿を洗いはじめた。さゆりはシャワーを浴びる。彼もあとからついていく。わたしのモニターは切れる。手持無沙汰になり、過去のデータを確認する。

 わたしには夢がある。不渡り手形を換金してもらうことを望んでいる。

 ある塾の教室の音が混線して入ってくる。受験のための英語があり、実際の使用されている音としての英語がある。子どもは点数を増やさなければいけない。大人は実用に傾かなければならない。その狭間の若者は、勉強もせずに遊んでいた。

 時間には限りがある。わたしが受け持つふたりも、担当として最後になるのかもしれない。別の勤務形態を空想する。物質や化学にうとかった。元素記号のひとつも分からない。わたしは音楽を聴き、映画を見た。人間を観察して、ある場面で発揮される高貴さを、泥まみれの清浄さを高らかにうたいたかった。しかし、上が決めることは絶対なのだ。不服があれば、独立してその地位を得るしかない。死守に値するかは別にして。


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