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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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傾かない天秤(9)

2015年10月15日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(9)

 さゆりも恋をしている。若い女性にとって、それも仕事なのだ。

 加算主義と減点主義。ひとは恋をして、躊躇して、のぼせあがって、幻滅する。裏切られて、もらったプレゼントを処分する。質屋にいって、リサイクルの線路で運ばれる物質もある。ダイヤは硬く、こころは柔らかかった。

 さゆりは恋をしていると勘違いしているひとと向かい合っている。ただの一点だけで終止符をうつものもある。彼女の場合はどうなのだろう。男性がひじを付いたまま食事をはじめる。ひじとテーブルは磁石のように離れることはない。彼女のこころはビートを止める。あるいは不規則になる。彼はこれからはじまるという期待のスタートにいたが、それは彼女側では無惨に消滅してしまった。ただこの場だけを楽しくやり過ごそうとしているだけなのだ。

 さゆりは恋をしている。両親はしつけに厳しかった。彼女はそれで自分の振る舞いを笑われることなどなかった。皆無である。感謝しなければいけない。

 次の美男の彼は、箸を不器用に扱った。減点である。彼女は自分の意図しない領域で苦しみ、希望の種を隅に追いやった。陥れられた炎。わたしは批判をくぐりぬけ、報告書を芸術作品に仕立てあげたかった。

「なんだ、これ!」
 わたしは月に一回だけ提出するレポートを読む管理者の前で小さくなっている。
「けん命に記入したのですが…」
「人間に毒されているよ、まったく」

 だが、やり直す時間はない。次の報告と監視をつづけなければいけない。

 さゆりは恋をしている。その予感にじょうろで水を与えている。完璧を求めすぎていると反省もしている。彼女は昨夜のデートを記憶のうちに思い起こしながら、バスルームを掃除している。鏡はピカピカになり彼女の研ぎ澄まされた輪郭を映す。甘いものも控えている。神経質に見える要素はまったくない。人間は年齢を重ねると、そのひとの本質を、経験した苦しみや葛藤を刻み付けていく。

 キッチンもきちんとしている。タンスのなかも端整だ。玄関も厳格に整理されている。わたしはことばを操る能力の限界を感じている。ダジャレの介在は最低な類いのもので、人間関係の貴き高みへの放棄の一因だった。そして、わたしは人間でもない。次の恩赦を期待している意識のみの存在だ。

 しばらくするとさゆりは着替えて外出した。きょうの待ち合わせは、男性ではなくみゆきだった。ひとは緊張ばかりではいけない。緩和と安心感も必要なのだ。さゆりは彼女といると和む自分を感じている。永遠につづくかと思われる無駄話に興じている。みゆきは御曹司の話をさりげなく振る舞う。彼女の口が発すると自慢とかエゴとか優越とかは微塵も感じられない。彼女の濾過でどこか抜けた二代目になり、気のいいお兄ちゃんになる。

「ところで、さゆりんは?」いつの間にか、あだ名をつけられている。
「みゆちゃんみたいな育ちのよい坊ちゃんは全然いないよ」互いにだった。

 さゆりはとくに嫉妬をしているわけでもない。根が優しくて親切なのだ。少しだけ自分を律することにきびしいだけだ。それが仕事上の責任となって発揮される。彼女はたまに仕事のことが頭から離れなくなる。いまも自分の雑誌に生かすために、ある可愛い女性の姿や洋服を目で追ってしまっていた。素人からモデルになった似た年代の子を彼女の雑誌は特集していた。

 最初は誰でも素人なのだ。継続こそがプロともいえた。数作で消えた詩人は、その理屈ではプロとは呼べなくなるが、後世に産み落としたものに永続性が生じればプロの仕事として疑う余地もない。だが、そこには経験からくるテクニックの巧みさはない。瞬時に起こった奇跡なのだ。

 さゆりは手元のメモに、となりのお客の姿をスケッチする。みゆきは覗き込んで感嘆の声をあげる。

「そういえば、高校のとき、絵がどこかの会館のロビーに展示されたことあったよね?」
「覚えているんだ。珍しい」
「どうして、あそこに行ったんだっけ…」それは自分に投げかけた質問だ。問いも答えも同一だ。

 いまの段階では過去はもどってこない。いつか先ではもどってくるかもしれない。個性があれば目立つ。容姿、運動能力、頭脳、手先の器用さ。同時に埋没しつづける者もいる。個性がないわけではない。その特技が同年代のなかでフィットしないだけなのだろう。個性は大人になって職業として活用するひともいるし、趣味という聖地に押し込めるひともいる。日常の疲弊を休日に趣味に没頭して解消する。だが、あるときには脱落したものだけが趣味という領域に適することもある。及第点より少し減点。草野球の楽しみ。プロは競争であり、切磋琢磨でもあった。

 さゆりは加点も減らすことも、いまはとっくに忘れていた。大笑いして、夕方を過ごしている。すると、みゆきの電話が鳴った。相手は坊ちゃんである。無鉄砲ではない、育ちの確かな坊ちゃんだった。赤シャツも知らない。数日先の予定が埋まる。レストランは予約され、料理人は食材を手配する。ソムリエはワインの温度を測る。コーヒーの栽培に従事する労働者はひげを剃るタイミングを逸している。世界は回転している。人間の目が回らないぐらいのスピードでゆっくりと回転している。さゆりの横の席では、その自転の威力に負けないため、ひじを突いて投げ飛ばされないように身体を押さえている無頓着そうな男性がいた。わずかばかり必死になってその体勢を維持していた。