最後の火花 53
わたしは彼と待ち合わせをしている。数分だけ遅れる。男性は化粧の分だけ時間がかからないので、これぐらいはよしとする。彼は駅のベンチにすわって本を読んでいた。彼の名前を呼ぶと、目を上げてうれしそうな表情をした。その途端に直ぐに本をジーンズの後ろのポケットに無雑作にいれてしまった。青い表紙。
「なに、読んでたの?」
「ふて腐れた男の子の話」彼はまた器用に後ろに手をまわして、つかんだ本のタイトルを見せた。
「ホールデン・コールフィールド」
「知ってんだ?」
「お父さんが好きだから」
「親と本とかの話をするの?」彼は信じられないという表情をする。
「するし、家にいっぱい買ってもらった本がある」
「一度、行ってみたいな」彼は何気なく言った。ピンチはチャンスである。
「世の中に不満があるの?」わたしは話題をさらっと変える。「そんな風に見えないけど」
「ないと思えばないし、あると思えばあるんじゃないの」他人事のような口振りだった。彼はじっとわたしの顔を見る。今日は日曜日だった。いつもの放課後は化粧などしていない。「ないと思えばないし」
彼は歩き出す。大きなポケットには本がある。もう片方にはお財布がある。そして、手ぶらだった。わたしは彼の前後に揺れる腕をつかまえた。
「怒んないの?」
「なにを?」
「遅刻したから」
「そうだった」彼は駅の時計を見る。まだ数分しか経っていない。「これぐらいならね」
「どれぐらいまでなら許す?」
「ひとによるよ」
「わたしなら?」
「一時間ぐらいかな」
「そんなに?」
「え、多いの? 少ないの?」
「長いか、短いかだけど、長いよ、とっても」わたしには一時間待たせる価値があった。魅力もあった。だが、与えられた境遇にあぐらをかくということは常に悪であり、不正直だった。
「同じぐらい待つだろ?」
「待たないよ」わたしの返事に彼は不服な顔をした。
緊張感となれ合いの狭間にいた。わたしはドキドキを失いながら安心を得る。最終的には無頓着まで進んでしまう危険があるが、そこまではいかせない。だから、うまくもないのに丁寧にお化粧もしたのだ。
彼は吊り革につかまり、わたしはその腕をつかんだ。顔が近くにある。ひげがある。違う。剃られたひげの痕がある。さわってみたい。電車のなかでいちゃいちゃするのはどうかなとも思う。彼は窓の外を見ていた。あたまのなかに侵入して考えていることをのぞいてみたいと思った。
「え?」彼が振り向く。ひとつの音でわたしのこころはざわめいた。
「なんでもないよ」
「くち、ちょっと動いたよ」
「え?」
「それ、くせ?」
「分かんない」はっきりとした否定ではないが、本心を確かめるように彼はじっとわたしの目をみる。彼はきれいなまつげをしていた。わたしは加点をしている。彼は減点方式を採用しているのだろうか。どうでもよいことを考える。
「ずっと関係がつづけば、明らかになるけどね」
「そうかもね。そうだ、あの本ね、不満があるから、妥協をしたくないから物語はすすんでいくんだよね」
「観察もなかったら、世間と自分の差も分からないから」
乗換駅に着く。階段をのぼる。ずっと、というものの感覚を彼はどのぐらいの時間と定義しているのか教えてもらいたくなった。一時間待つ、ということは随分と気長だ。わたしの二十五才や三十才はずっとという範疇に入っているのだろうか。彼はジーンズがまだ似合う年頃なのだろうか。
目的地に着いた。多くの若者がいる。だが、わたしは彼を選んでいた。反対かもしれない。選ばれていた。彼といっしょに甘いデザートを食べる。彼の本はわたしのバッグにいれてあげた。窓の下にはたくさんのひとがいる。比較も点検もなく、ただわたしは幸せだった。誰かといて自分の幸福感がふくらむということを知った。となりのテーブルには横柄なおじさんがいて、この幸せな気分を台無しにした。彼もいつか、ああなってしまうのだろうか。
「若さだけが大事だとも思えないけど」彼は小声で言う。「自分が偉いとか思った時点で、人間は終わりなのかもね」わたしたちは外に出る。たくさんの若者がいる。流行というものを通過して、かつ遅れることに怯えている。歩幅が流行とともにあるという実感が欲しかった。その割にふたりとも古臭い本を読んでいた。
父の会社のロゴが見える。彼はどういう会社に入るのだろう。本を書いてくれて、わたしだけが読むということに憧れた。両親はそんなことには不満だろう。彼のお母さんはどういう方かしら。わたしは加藤さんを想像する。すべてを手早くこなす能力をもっているひと。わたしは好かれようと強く願いつづけ、結果、唇の端がゆがんでしまう予感がした。
はぐれないように手をつなぐ。あの本の妹の名前を思い出そうとする。実際に名前が書かれていただろうか。彼に今度、訊いてみよう。
わたしはバッグの本を別れ際に渡しそびれてしまった。今度、会う時に返さないといけない。彼はつづきが読めない。どのぐらいまでなら待ってくれるのだろう。わたしは、どれぐらいまでならまた会うことを待てるのだろうか。
わたしは彼と待ち合わせをしている。数分だけ遅れる。男性は化粧の分だけ時間がかからないので、これぐらいはよしとする。彼は駅のベンチにすわって本を読んでいた。彼の名前を呼ぶと、目を上げてうれしそうな表情をした。その途端に直ぐに本をジーンズの後ろのポケットに無雑作にいれてしまった。青い表紙。
「なに、読んでたの?」
「ふて腐れた男の子の話」彼はまた器用に後ろに手をまわして、つかんだ本のタイトルを見せた。
「ホールデン・コールフィールド」
「知ってんだ?」
「お父さんが好きだから」
「親と本とかの話をするの?」彼は信じられないという表情をする。
「するし、家にいっぱい買ってもらった本がある」
「一度、行ってみたいな」彼は何気なく言った。ピンチはチャンスである。
「世の中に不満があるの?」わたしは話題をさらっと変える。「そんな風に見えないけど」
「ないと思えばないし、あると思えばあるんじゃないの」他人事のような口振りだった。彼はじっとわたしの顔を見る。今日は日曜日だった。いつもの放課後は化粧などしていない。「ないと思えばないし」
彼は歩き出す。大きなポケットには本がある。もう片方にはお財布がある。そして、手ぶらだった。わたしは彼の前後に揺れる腕をつかまえた。
「怒んないの?」
「なにを?」
「遅刻したから」
「そうだった」彼は駅の時計を見る。まだ数分しか経っていない。「これぐらいならね」
「どれぐらいまでなら許す?」
「ひとによるよ」
「わたしなら?」
「一時間ぐらいかな」
「そんなに?」
「え、多いの? 少ないの?」
「長いか、短いかだけど、長いよ、とっても」わたしには一時間待たせる価値があった。魅力もあった。だが、与えられた境遇にあぐらをかくということは常に悪であり、不正直だった。
「同じぐらい待つだろ?」
「待たないよ」わたしの返事に彼は不服な顔をした。
緊張感となれ合いの狭間にいた。わたしはドキドキを失いながら安心を得る。最終的には無頓着まで進んでしまう危険があるが、そこまではいかせない。だから、うまくもないのに丁寧にお化粧もしたのだ。
彼は吊り革につかまり、わたしはその腕をつかんだ。顔が近くにある。ひげがある。違う。剃られたひげの痕がある。さわってみたい。電車のなかでいちゃいちゃするのはどうかなとも思う。彼は窓の外を見ていた。あたまのなかに侵入して考えていることをのぞいてみたいと思った。
「え?」彼が振り向く。ひとつの音でわたしのこころはざわめいた。
「なんでもないよ」
「くち、ちょっと動いたよ」
「え?」
「それ、くせ?」
「分かんない」はっきりとした否定ではないが、本心を確かめるように彼はじっとわたしの目をみる。彼はきれいなまつげをしていた。わたしは加点をしている。彼は減点方式を採用しているのだろうか。どうでもよいことを考える。
「ずっと関係がつづけば、明らかになるけどね」
「そうかもね。そうだ、あの本ね、不満があるから、妥協をしたくないから物語はすすんでいくんだよね」
「観察もなかったら、世間と自分の差も分からないから」
乗換駅に着く。階段をのぼる。ずっと、というものの感覚を彼はどのぐらいの時間と定義しているのか教えてもらいたくなった。一時間待つ、ということは随分と気長だ。わたしの二十五才や三十才はずっとという範疇に入っているのだろうか。彼はジーンズがまだ似合う年頃なのだろうか。
目的地に着いた。多くの若者がいる。だが、わたしは彼を選んでいた。反対かもしれない。選ばれていた。彼といっしょに甘いデザートを食べる。彼の本はわたしのバッグにいれてあげた。窓の下にはたくさんのひとがいる。比較も点検もなく、ただわたしは幸せだった。誰かといて自分の幸福感がふくらむということを知った。となりのテーブルには横柄なおじさんがいて、この幸せな気分を台無しにした。彼もいつか、ああなってしまうのだろうか。
「若さだけが大事だとも思えないけど」彼は小声で言う。「自分が偉いとか思った時点で、人間は終わりなのかもね」わたしたちは外に出る。たくさんの若者がいる。流行というものを通過して、かつ遅れることに怯えている。歩幅が流行とともにあるという実感が欲しかった。その割にふたりとも古臭い本を読んでいた。
父の会社のロゴが見える。彼はどういう会社に入るのだろう。本を書いてくれて、わたしだけが読むということに憧れた。両親はそんなことには不満だろう。彼のお母さんはどういう方かしら。わたしは加藤さんを想像する。すべてを手早くこなす能力をもっているひと。わたしは好かれようと強く願いつづけ、結果、唇の端がゆがんでしまう予感がした。
はぐれないように手をつなぐ。あの本の妹の名前を思い出そうとする。実際に名前が書かれていただろうか。彼に今度、訊いてみよう。
わたしはバッグの本を別れ際に渡しそびれてしまった。今度、会う時に返さないといけない。彼はつづきが読めない。どのぐらいまでなら待ってくれるのだろう。わたしは、どれぐらいまでならまた会うことを待てるのだろうか。