goo blog サービス終了のお知らせ 

爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

11年目の縦軸 38歳-24

2014年04月06日 | 11年目の縦軸
38歳-24

 もう取り決めなどは必要なかった。ぼくの結婚したかった気持というのは流されてしまった浮き輪のように遠くに行ってしまった。取り戻すために遠泳する気力も体力ものこっていない。ただ、そばにあるものだけで、身近にあるものだけでよしとした。

 どちらが愛の重さがあるのか、どちらを大事にしているのかなど量ることもできない。同じ解釈は自分自身に対してでさえ当てはめることができなかった。十一年も経ってしまったのだから。もしくは二十二年も経た自分なのだから。それでも、波はやってきては、また戻っていった。精密な形などもないが、定期性をもって繰り返す。そして、両手で海水をすくったところで世界の水の量にはまったく影響がなかった。ぼくだけが濡れた。手は乾くまではその海水の記憶を保っている。

 おそらくもっと生活力の旺盛な男性と絵美はいずれ会うことになるだろう。そうした可能性がわずかばかりもないということなど想像できない。田舎のバスの停留所のようなところで、ぼくらはたまたま横のベンチにすわることになっただけなのだ。一時は同じバスに乗るだろうが、目的地に着けばそれぞれの歩みをする。ぼくは傷つかないということを前提にそういうずるさを内在させるようになってしまった。希美がいた状況に慣れた。もっとまえに十六才のぼくはあの少女がいることに慣れはじめた。それが途切れると、当然に苦しんだ。身もだえということは立派な大人には訪れないと思っていたが、それも表面的にあらわれないというだけで、奥にじっと隠れてぼくを苦しめたのだ。

 あれはどうしても避けなければならない。さらに、その小さな願いがあれば愛の対象を発見することに歯止めがきくのか、抑制されるのか、反対にそんな気持など簡単に無視されてしまうのか、ぼくには見当がつかなかった。だが、空白の期間もあることだから、ある程度は有効なのだろう。来年の今頃までは風邪をひかないだろうというぼんやりとした目安ぐらいで。

 仕事が終われば、関係ないことを誰かと話したくなる。起こったこと。今後、起こり得ること。起こる可能性のあるものとして想像してみること。自分にもし起こったら困ること。泣いたこと。笑った話しの再現。ぼくはこれらのことを絵美としたかった。もちろん、彼女が女性の身体をもっているということは捨て難い魅力である。その神秘的に見える目。匂いを嗅ぐという機能とは別の意味がありそうなデザインに優れた鼻。笑った時の口の形。最初に彼女を意識させられた不思議な声。やはり、ぼくは失いたくないと思っている。

 同時に彼女の魅力について隠し通せるものでもないと思っていた。ある地域では目以外をレースのようなもので覆っている。ぼくは絵美がそのような姿でいることを思い巡らした。だが、するとぼくは彼女の魅力をいつ発見できるのだろう。出だしが分からない。薬指にはめた細いリングがある種の防御をする役目を担うのかもしれない。「なんだ、彼女、結婚してたのか」という具合に。そうなれば、等しくぼくの指にも同じものが課せられる。人気も、奪われるおそれもないのに。

 いや、本来はそういう意味合いでつけているのでもないのだろう。敵からの防衛ではない。なにかの誓いなのだ。ぼくはだから誓うという行為をおそれ、軽蔑している。

 絵美はどこかで酔って歩きながら電話をかけてきた。ぼくは家で静かに映画を見ていた。その立場の違いがそのままテンションの差になった。絵美は一方的になにかを伝えたいようだったが、酔いが妨げとなってうまく伝達できなかった。反対に酔っていなければ持ち出すような話題ではないのだろう。ぼくは一時停止され動きを止めた俳優の横顔を見ながら、気長に絵美の話を待った。機械というのは人間の動きもとめる。ぼくもあのとき、このように立ち止まって希美の話をきいておくべきだった。もしくは、希美をこのように少しだけ止めて、ぼくはその間にゆっくりと次の言葉や、解決策を探す。しかし、生身の人間にはそんな願いなど叶うわけもなく、不可能な頼みでもあった。ぼくは不用意な言葉を吐き、希美の涙を見る。風船は割られ、浮き輪はながされた。

 ぼくは相槌をうち、電話の声をきいている。ずっと黙っていれば問題は遠退くのだという打算がわずかだがあった。反対にこの酔いの状態ならば、絵美は自分の言ったことも、ぼくの返答も覚えていないというずるい猶予もあった。そう思っていると自然に静止に耐えられなくなった画面は映像を停止してしまった。待たせるとか、待ちわびるという言葉を思い浮かべる。そこには期待があり、幻滅という副作用があった。ならば期待は悪であり、退治し、根絶しなければならない負の要素であろうか。期待がなければ一日も生きていないのは分かっているのに。

 絵美は地下鉄のホームにいて、電車に乗り込むまで電話を切らなかった。ぼくは自宅で電車の発車の合図のベルをきく。そこで彼女の一日の追跡が終わった。ぼくはそのままトイレに行き、手を洗って冷蔵庫を意味もなく開けた。この行為をそれこそ無制限にしてきた。これも期待であろうか。なかのものは自分が入れ変えない限り変動もしないのに。

 ぼくは、ここを自分のこころだと思う。ぼくは何かを出し、何かを処分し、新しいものを追加する。しかし、なかで、とくに目につかない奥で、いらなくなったかもしれないものがまだ残っているのを知っている。ぼくは考えを止め、また映画のつづきを見る。ひとの生活。ひとの幸運。ひとの不幸。ぼくは最後のエンディング・ロールまで見届けなければならない。そんな義務などまったくないのに。数日後には、この映画もきちんと返却しなければ追加の金額を徴収される。ぼくは、こころに残しているふたりの女性の追加の金額がいくらぐらいに積もったのか試しに想像してみる。