爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

拒絶の歴史(74)

2010年06月08日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(74)

 雪代が地元を去ってから一年が経っている。ぼくは大学の3年になり、今後の生活をよりいっそう考えるようになった。足がかりになるものをそろそろ作らなければならなかった。順調に行けば、雪代の東京での生活も半分を過ぎ、折り返しになった。それが思い通りに行くかは分からなかったが、離れている期間も耐え難くなってきていた。

 妹はその後、徐々にだが雪代の名前を口にするようになり、新たな関係を構築する時期に入ったのだろう。直ぐに改善されるようなものは何もないが、そのきっかけでも出来れば、自分としては充分だった。

 このような日々があり、授業もまじめに受け、その後のバイトも自分を出し惜しみせずに行った。その評価としてバイト代がちょっとだけ上がった。

「少なくて悪いな」と、店長は言った。

「そんなことないですよ。仕事以外の面でもいろいろ楽しいこともありますし」とぼくは返事をした。そこで、ぼくは多くの身体を動かすことの好きなひとびとと会うことが出来た。たくさんの用具があり、陳列されているのを見るたびに幸福な気持ちになれた。店長の仕入れの方法も的確だったので、ずっと埃をかぶってしまいつづける商品もあまりなかったし、もちろん大都会でもないので注文を受け、取り寄せるものも間々あった。だが、総じてカラフルな靴や、用具がところ狭しと並べられているその店内にいることが好きだった。

 母校のラグビー部の後輩たちも来たが、もうぼくが直接に知っている顔はなかった。だが、彼らは一方的にぼくに好意を持ち、親しくなるといろいろなことを質問するようになった。直接知らない分だけ、ぼくは逆に気楽な気持ちになって接することができた。もうぼくの時代より能力の優秀な人材を集められるようになったが、彼らはノスタルジックな気持ちなのだろうが、ぼくらの負けた試合のいくつかを感傷的に聞きたがっていた。それで、話すこともあったが多くの場合は過去の栄光など自分は捨ててしまったと考え話さなかった。しかし、失敗の数々はいまも自分の体内にしこりのように残っていた。

 また当然のように彼らは東京でモデルをしている女性のことを訊きたがった。しかし、それには答えず、ただ自分らも能力を発揮して、ひとの注意や関心を惹けるような存在になってくれ、とすすめることしか出来なかった。彼らは不服だったかもしれないが、そんな高校生の頭の中に雪代の存在を入れることに自分は興味がなかった。ただ、自分で手探りで方法を見つけるしか彼らの楽しい未来は訪れないのだろう。

 こうしたことが金銭面以外のバイトのメリットだった。ぼくが働いている店に自分を慕う何人かがいるということが、自分をある面では落ち着かせていた。誰しも自分の居場所が必要であるように。しかし、過去から連綿と流れる自分の歴史がすべてここにあるという狭い感覚も自分に与えた。だが、大学を卒業すれば自分にもまた新たなページが開かれるという希望ももっていた。その間は、自分はここで温まっている積もりだった。

 妹も家の電気屋の近くの酒屋でバイトを始めた。そこの店主はぼくらが子供のころから知っていた。それで、彼のところであればということでうちの父が頼んだらしい。結局のところ人と接することにぼくらは子供のころから自然と馴れていったのだろう。たまに店番もしたし、ぼくは大人になるにつれ配達を手伝った。小さな町だったのでぼくの顔は意識もせずに知られていった。妹も愛想の良いほうだったので、難なくこなしていくだろう。

 小遣いが増えれば多少の自由が手に入った。それをどう生かすかは教育が施されるわけでもないので、自分らで考えるしかなかった。ぼくらは何を目指せと親に押し付けられることもなかったので選択は自由だったが、失敗も成功もそれゆえに自分自身に多くを負っていた。それで、困ったことになったとしても、もちろん自分の責任だった。

 ぼくは、あるとき親が望んだような息子像を捨ててしまったように感じる。それは雪代という存在が大きく関係していた。ぼくにとっては最善の選択が、彼らにとってはそうではなかったのかもしれない。しかし、それでも自分の人生はそれなりに進んでいた。

 バイトも終わり、いつものように外で歌っているシンガーを見た。ラグビー部の後輩たちもまだ残っていたので彼らにジュースを一本ずつおごった。それを渡すと喜んで彼らは飲んだ。ぼくも上田さんによくそうしてもらったのを思い出している。

 歌は感傷的なものになっている。彼はいつまでこの土地にとどまっているのだろう、とぼくは考えている。羽ばたくときを決めるタイミングをその歌手は知っているのだろうか、それとも、それを躊躇しているのだろうか。ぼくは、考えながらその場を立ち去った。