当人相応の要求(5)
例えば、こうである。
彼は、地下鉄に乗る。主に通勤時の乗り物として。まったくの安全な輸送手段だと認め。
誰もが、そう思っていた。ある事件が起こる前までと限定してよいのかもしれないが。
歴史。早川徳次という日本人はロンドンで、1910年代に地下鉄を見る。すべての先見性のある人のように、その人物も日本にそのシステムを取り入れようとする。その結果として、27年に浅草から上野に地下鉄が通る。主人公の彼もその路線に乗ってみたりしたこともあった。
さらにさかのぼる。その元となったロンドンは、1860年には工事がはじまり、3年後の63年には開通しているそうだ。かつ、またモスクワではフルシチョフという人物が、モスクワに地下鉄を通し、レーニン勲章というものを貰っている。もちろん、政治でも有名なフルシチョフ。
日本は、近代化を遂げるにあたり、いくつかのモデルを探す。探せば、やはり期待通りの目標は出来るものである。
その乗り物という移動手段を通す道は、ある種の密室にもなるのである。乗り物自体も、トンネルの中という構造自体も。
人は、その中で眠る。時には本を読む。会話もするし、喧嘩もする。ときには誤解もとけ、また時には解決不能なぐらい、関係がこじれる場合もある、その電車の中で。
ただ、普通の営みというバックグランドにはもってこいの日常的な乗り物だということを、説明もいれずに利用しているはずだった。ああした事件が表に表れるまで。
使われる薬剤。
彼は、友人とローマの地下鉄に乗っている。A線とB線というシンプルな棲み分け。しかし、その横の地面には、ローマ世界の歴史的な遺産が眠っているのだ、という誇張した表現を借りて。
その空調のあまり利いていない車内で、突然男女が密着する。それに目を向けていた友人の腰元には、見知らぬ手が延びている。すんでのところで、ファスナーが開くのを抑える。
「なにか盗られていたら、後々おいしい話が出来たのに」
と、彼は身勝手なことを言う。
友人は、それでも、当然のようにあせった声を出し、
「やっぱり、盗られない方がいいよ」と、ちょっと落ち着いた吐息まじりの言葉を出した。もちろん、あちらこちら、警察に届けたり、まったく無意味な労力を考えれば当然の結論に帰結する。
彼は、何度目かに交際した女性と、電車に乗っている。デジカメが身近な時代にはなっていなかった。少しだけ、喧嘩になりそうな予感が二人の間にただよっている。その時、反対側の椅子には、お酒に酔った男性が、不自然な格好で、首だけを座席の上に残し、あとは宙に身体が浮いたまま、無理な姿勢で座っていた。彼は、そのことを誰に言っても信じてもらえず、写真に残しておけばよかったなと、度々思った。それよりも、その喧嘩の予感が、笑いに転換した方が、彼には大きかったのかもしれないが。
彼は、そのような気持ちで地下鉄に乗っている。トラブルというのは、数分、電車が遅れるという程度の問題だということに留め。
しかし、彼は、その日自宅に帰り、夕方のニュースを目にする。
雑踏。救急車。リアルタイムの実況と、あとで知る話。
解毒する方法。農薬系の中毒をなおす薬が用いられたと彼は、何かで読む。それは、病院内に在庫をたくさん抱えておくようなものではないので、関東近辺から集め寄せ、関係者は総動員で駆けずり回ったことを知る。
一人の命をもののように扱いたかった人たちと、最善を尽くそうとする人たちのコントラスト。知識を、負の力に持っていってしまう人たち。
彼は、安全な世の中に、自分は存在しているのかと疑問を持つ。もはや、どこにも、誰もが簡単に手に入れることが出来なくなってしまったのかと、冷たい嫌な汗を感じる。
しかし、彼は今日も手擦りにつかまる。たまには新聞をひろげ、周りの人に配慮し、音楽を耳に突っ込みながら。もう、誰も日常の忙しさのせいなのか、その日が来て特集のテレビ番組でも放映されない限り、頭の中のトップに持ってくることもない。そして、ロンドンでも。
例えば、こうである。
彼は、地下鉄に乗る。主に通勤時の乗り物として。まったくの安全な輸送手段だと認め。
誰もが、そう思っていた。ある事件が起こる前までと限定してよいのかもしれないが。
歴史。早川徳次という日本人はロンドンで、1910年代に地下鉄を見る。すべての先見性のある人のように、その人物も日本にそのシステムを取り入れようとする。その結果として、27年に浅草から上野に地下鉄が通る。主人公の彼もその路線に乗ってみたりしたこともあった。
さらにさかのぼる。その元となったロンドンは、1860年には工事がはじまり、3年後の63年には開通しているそうだ。かつ、またモスクワではフルシチョフという人物が、モスクワに地下鉄を通し、レーニン勲章というものを貰っている。もちろん、政治でも有名なフルシチョフ。
日本は、近代化を遂げるにあたり、いくつかのモデルを探す。探せば、やはり期待通りの目標は出来るものである。
その乗り物という移動手段を通す道は、ある種の密室にもなるのである。乗り物自体も、トンネルの中という構造自体も。
人は、その中で眠る。時には本を読む。会話もするし、喧嘩もする。ときには誤解もとけ、また時には解決不能なぐらい、関係がこじれる場合もある、その電車の中で。
ただ、普通の営みというバックグランドにはもってこいの日常的な乗り物だということを、説明もいれずに利用しているはずだった。ああした事件が表に表れるまで。
使われる薬剤。
彼は、友人とローマの地下鉄に乗っている。A線とB線というシンプルな棲み分け。しかし、その横の地面には、ローマ世界の歴史的な遺産が眠っているのだ、という誇張した表現を借りて。
その空調のあまり利いていない車内で、突然男女が密着する。それに目を向けていた友人の腰元には、見知らぬ手が延びている。すんでのところで、ファスナーが開くのを抑える。
「なにか盗られていたら、後々おいしい話が出来たのに」
と、彼は身勝手なことを言う。
友人は、それでも、当然のようにあせった声を出し、
「やっぱり、盗られない方がいいよ」と、ちょっと落ち着いた吐息まじりの言葉を出した。もちろん、あちらこちら、警察に届けたり、まったく無意味な労力を考えれば当然の結論に帰結する。
彼は、何度目かに交際した女性と、電車に乗っている。デジカメが身近な時代にはなっていなかった。少しだけ、喧嘩になりそうな予感が二人の間にただよっている。その時、反対側の椅子には、お酒に酔った男性が、不自然な格好で、首だけを座席の上に残し、あとは宙に身体が浮いたまま、無理な姿勢で座っていた。彼は、そのことを誰に言っても信じてもらえず、写真に残しておけばよかったなと、度々思った。それよりも、その喧嘩の予感が、笑いに転換した方が、彼には大きかったのかもしれないが。
彼は、そのような気持ちで地下鉄に乗っている。トラブルというのは、数分、電車が遅れるという程度の問題だということに留め。
しかし、彼は、その日自宅に帰り、夕方のニュースを目にする。
雑踏。救急車。リアルタイムの実況と、あとで知る話。
解毒する方法。農薬系の中毒をなおす薬が用いられたと彼は、何かで読む。それは、病院内に在庫をたくさん抱えておくようなものではないので、関東近辺から集め寄せ、関係者は総動員で駆けずり回ったことを知る。
一人の命をもののように扱いたかった人たちと、最善を尽くそうとする人たちのコントラスト。知識を、負の力に持っていってしまう人たち。
彼は、安全な世の中に、自分は存在しているのかと疑問を持つ。もはや、どこにも、誰もが簡単に手に入れることが出来なくなってしまったのかと、冷たい嫌な汗を感じる。
しかし、彼は今日も手擦りにつかまる。たまには新聞をひろげ、周りの人に配慮し、音楽を耳に突っ込みながら。もう、誰も日常の忙しさのせいなのか、その日が来て特集のテレビ番組でも放映されない限り、頭の中のトップに持ってくることもない。そして、ロンドンでも。