山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

島崎藤村『夜明け前』読了 渾身の大作

2014-02-12 18:15:16 | 読書
 2週間ほどかかったが、長編大作・島崎藤村の『夜明け前』(筑摩書房)を読み終えた。
 登場人物が多いので人物相関図をメモしながら読む。

 幕末から明治までの時代の変貌を、木曽・馬籠宿とその庄屋青山半蔵の生き方から炙り出す。
 大名の参勤交代・和宮降嫁行列・官軍行列・水戸天狗党狩りなど、武士に翻弄される本陣・庄屋・問屋を担う半蔵だった。

                            
 明治維新(御一新)になっても街道筋の農民の暮らしは良くなるどころか、官僚支配によってますます悪くなる。
 半蔵の理想とする平田派国学も西洋化に駆逐され、娘の自殺未遂事件も起きてしまう。

 家庭も地域も国家も国学もどこを向いても活路が見えなくなった半蔵は、天皇行幸に自分の心情を謳った扇子を投げつける事件を起こしたり、隣の菩提寺を放火したりした結果、座敷牢に閉じ込められ狂死してしまう。

       
 解説の亀井勝一郎は、
 「街道筋にあたる山国の人の感受性を最も典型的に示しているのが彼だ。
 彼はこの街道の上を道を求めてさまよう。
 その一生は心の旅の一生と言ってよく、そういう意味でも“街道”をも藤村は象徴としてここにとどめた。」と的確に指摘する。

                             
 編集者松岡正剛は、
 「藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有である。
 それは、日本の近代に“過誤”があったのではないかと苦渋をともなってる。」
 と、日本人全体に「あるおおもと」を提起したのではないか、と受け止める。

 その過誤は、のちに太平洋戦争へと拡大し破局へ向かう。
 藤村の煩悶した時代の憂いはまさに的中したわけだ。

 日中戦争へ突入する日本のきな臭い時代に、この『夜明け前』が書かれていることが驚異だ。
 大勢に迎合しない藤村の視座は、木曽谷の自然と朴訥な村民たちに裏打ちされているからだと思えてならない。

 だからこそ、「あるおおもと」に肉薄する任務をわれわれは持っているのだが。
 とりあえずオイラは、鍬を持って土と会話することから始めることにする。
 

                             
コメント (4)
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