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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

プラントハンターの密命は

2025-07-12 10:17:51 | 読書

  幕末に日本にやってきた英国のプラントハンターのロバート・フォーチュンは、訪日前に中国で歴史的な密命をやり遂げた跡だった。当時、イギリスの綿をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへという「三角貿易」で、イギリス経済は巨万の富を帝国にもたらしていた。アヘン戦争(1840年)勝利でイギリスはさらに未踏の中国市場を飛躍的に拡大していくことになる。

  

 中国奥地に外国人が侵出するのは命がけだった。プラントハンターの若きフォーチュンは、「ロンドン園芸協会」から中国行きを命じられ、貴重な茶をはじめとする植物の苗と種を入手する密命を受けていた。彼は高級官僚服と辮髪をもって変装し、未知の国での採集を命がけでしていく。そんなドキュメンタリーを描いたのがサラ・ローズ(訳・築地誠子)『紅茶スパイ』(原書房、2011.12)だった。

 

  著者は、フォーチュンの果たした役割を次のようにまとめている。

 1 彼が東洋で発見した植物は、新種を含め数百種に達した

 2 緑茶と紅茶は同じ茶の木からできることを証明し、リンネ分類を訂正させた

 3 中国人が毒性の着色料で緑茶を染めて販売していたことを暴露し、英人の健康を回復させた

 4 当時、植物の苗や種の移送がことごとく失敗していたなか、彼の実験を経たやり方で成功させた

 5 彼が移送したインド産の茶は質量ともに中国を上回るようになり、大英帝国の利益を産み続けた 

 6 山間の茶畑からイギリスの家庭に到着するまでの生産・物流・販売システムのすべてを変え、贅沢品だった 茶を安価にし、大衆化させた

  

 本書を読むきっかけは、フォーチュンの『幕末日本探訪記』を読んだことで、植物だけでなく政治経済・文化・庶民などの分析の正確さに驚いたことだった。それは訪日の宣教師が逐次日本の情勢を自分の国に報告していた諜報活動と似ていた。彼らの中心人物は宗教の布教だけでなく相手の国を植民地化する尖兵でもあったという視点を忘れてはならない。キリシタン大名も敬虔な信者らも結果的には利用されていたわけだ。

 

 著者のサラ・ローズは、「フォーチュンが中国から茶の種や苗木を盗み出したとき、それは保護貿易上の秘密を盗み出した、史上最大の窃盗だった。彼の活動は現在なら<産業スパイ活動>とみなされ、センセーショナルに扱われたことだろう」と、終章で指摘している。

 フォーチュンは有能な植物研究者であるとともに、その経済的利益や効果をもふまえた視点を持っていたことで、結果的に大英帝国への莫大な利潤に貢献したのは間違いない。それをやり抜く胆力はまさに「ゾルゲ」並みの精神力であることを感じ入る。 

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茶を世界に広めたプラントハンターの慧眼

2025-06-20 22:28:09 | 読書

 幕末には世界から日本の珍しい植物を獲得する外国の「プラントハンター」がやってきた。その中でも、ロバート・フォーチュンは中国の茶をイギリスに広めたことで有名だ。その彼が幕末日本とその植物を冷静に観察した三宅馨・訳『幕末日本探訪記』(講談社学術文庫、1997.12)を読む。

   初めて長崎に入港したフォーチュンは、「その全景は、言ってみれば、人間の勤労と、大自然の造化の力が渾然と解け合った、平和で魅力的な絵画そのものであった」と感激し、在住のシーボルト博士に会いに行く。

 

 さらに氏は、「日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。…もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優って見える。」と、大国の傲慢さではない謙虚さで未知の国を分析している。

 

  そのうえさらに、ソメイヨシノで有名な染井村では、「私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。」と驚きを隠さない。また、「ヨーロッパ人の趣味が、変わり色の観葉植物と呼ばれる、自然の珍しい斑入りの葉をもつ植物を賞賛し、興味を持つようになったのは、つい数年来のことである。これに反して、私の知る限りでは、日本では千年も前から、この趣味を育てて来たということだ」として、大量の植物を購入していく。

 

 駐日外交官のハリスが「日本の人びとが自国の進歩に有用なことが判ると、外国の方式を敏速に採り入れる」との言葉をとりあげて、「シナでは<古い慣習>が、あらゆる外国品輸入の防壁となるが、日本人は先進文明を示されると、機敏に採用する」と、フォーチュンは日本人の進取な国民性を評価する。それはまさに、古来から中國という大国からあらゆる文化を導入してきた「学ぶ心」が日本のエネルギーと言っていい。それはまた、日本の文化のほうが遅れていたということがバネになっているからとも言える。

   本書は、植物だけでなく日本のあらゆるモノやしくみや外交にも注視している。フォーチュンは中国のお茶をイギリス社会に広めていく立役者ともなっていくが、漫画やドキュメントでフォーチュンは密命を受けていたという本もある。シーボルトと同じだね。

 攘夷で外国人が殺された現場も見てきたフォーチュンは日本礼賛ばかりでなく、それ以降警戒を隠さない。後半の中国旅行記はおまけのようで無くても良いような構成でもあった。アヘン戦争で中国の一部を占領したイギリスへの遺憾の情がないのが気にかかった。

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[奇妙な果実]の衝撃

2025-05-30 21:40:34 | 読書

 2022年から始まったNHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」をなるべく見るようにしている。普段のニュースでは掘り下げられていないような歴史的事象を取り上げている。この番組を見ていると、普段のニュースが当たり障りのない表面的なことにお茶を濁してしまうことが多いのがわかる。

 先日、1930年から1950年代に活躍したアメリカのジャズとブルースの黒人の歌姫・ビリーホリデイ(1915-1559)を特集していた。彼女の名前は知っていたがどういう人物かはオラはまるで無知そのものだった。そこで、ビリーが体験した人種差別やスラムの貧困・薬物中毒などの苦闘の人生を一部知ることで、とりあえずジョン・チルトン『ビリー・ホリデイ物語』(音楽之友社、1981.4)も読むことにした。

 

   大橋巨泉が共著で翻訳したビリーの自伝『奇妙な果実』にも興味があったが、記憶違いが散見されているようだったので、ビリーの詳細な事実を丹念に調べていたイギリスの著名なジャズ執筆家であり、トランペッターだったジョン・チルトンのドキュメントの本を安心して読んでみたというわけだ。

 しかし、音楽音痴であるオラには歌手や演奏者のカタカナの名前が次々出てくるのに閉口する。しかし、チルトンが演奏者だけに、ビリーのそのときの音声や感情、さらには共演者の演奏技術の精緻な分析をしているところには感心する。年譜がなかったのが惜しい。

 

 幼児期に虐待を受けたビリーはカトリックの養護施設に預けられ、その後母と娘は売春宿でも働くようになるが、14歳の時にビリーは放浪罪によって矯正施設に送られている。当時は、黒人と白人が一緒にいること自体が普通ではなく、ビリーもしばしば差別されていたことは言うまでもない。しかも、白人による黒人へのリンチ殺人も珍しいことでもなく、それを歌にしたのが「奇妙な果実」だった。

 作詞作曲はユダヤ人のルイス・アラン(本名はエイベル・ミーアボール)、それを、白人と黒人とが一緒にいられるジャズカフェを経営していたのがユダヤ人のバーニー・ジョセフソンだった。その店で、ジャズを歌っていたのがビリーだった。アランがジョセフソン経由でビリーに「奇妙な果実」を歌ってみないかと依頼したことで、歌ってみたら絶賛・反響があり、ビリーの代表曲となる。そして、それを大手のコロンビアがレコード化しようとしたが人種差別に逡巡し、結局零細な「コモドアレコード」店主のユダヤ人のミルト・ゲイブラーがレコード化することになる。つまり、三人のユダヤ人のネットワークで「奇妙な果実」は数十万枚のレコードを売り上げることとなる。

 その「奇妙な果実」の歌詞(訳=ビート・ウルフ)は次の通りだ。

南部の木は奇妙な実を結ぶ
葉に血が滴(したた)り、根は緋(あか)に染まる
南部の風に揺れる黒い躯(からだ)
ポプラの木に垂れ下がった奇妙な果実

気高く美しい南部の牧歌的風景
膨れ上がった眼と歪んだ口
甘く新鮮なモクレンの芳香
突然、鼻を衝く焼けた肉の異臭

果実は鴉に啄(ついば)まれ
雨に曝され、風に干上がり
陽に腐り、木から落ちる                                       この地に在る 奇妙で苦い作物

 1972年、『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』の映画が公開されると、サウンドトラック・アルバムは初登場から20週後に No.1に輝くロングセラーとなり、200万枚近くを売り上げる。『欲望という名の音楽』の著者・二階堂尚氏は「ビリーの声は一人ひとりが抱えるその悲しみを静かに震わせ、ビリーの言葉は人知れず忍ばれるその悲しみにそっと寄り添う。エンターテイメントは悲しみをいっとき忘れさせるが、アートは悲しみを美に変え、悲しみに向かい合う力を人々に与える。ビリー・ホリデイと「奇妙な果実」によって、ジャズはアートになった。狂気と騒乱の20世紀を代表するアートに」と見事に記した。

 ビリーが歌う「奇妙な果実」を聴いてみた。そこには、まさに「ブルー」な気分になるような哀しみが基調として流れていた。ある意味では演歌の哀しみと通じるものがあるが、その傷の深さを踏まえた歌い方だった。ブルースの吟遊詩人のように、感情移入に陥らず、殺された同胞を静かに鎮魂する歌い方だった。それは今ものさばるアメリカの白人至上主義者の本音を抉るプロテストソングであり、挽歌でもあった。そのころから、ロックやフオークソングが誕生していく。

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男装の女医、自由民権・反藩閥政府の国士を輩出

2025-05-09 22:14:03 | 読書

 西洋の覇権主義に対抗してアジアと連帯し、藩閥政治に命がけで異論を唱えてきた「玄洋社」をここ数年来注目してきた。メンバーが大隈重信や伊藤博文の暗殺を狙ったこともあり、右翼のレッテルが貼られ、しばらく抹殺されてきたが、やっと見直しの動きがやってきた。その一つが、玄洋社の担い手を輩出してきた女医・高場乱(オサム)の存在だ。それは、永畑道子『凛(リン)-近代日本の女魁・高場乱』(藤原書店、1997.3)が上梓したものを読むことで、男社会の強い風土にこういう男装の女魁がいたことに驚く。

 

  先進的眼科医でもあった高場乱(1831-1891)は、「自分のやるべきことは次の世代を担う若者たちに道を示すことだ」と悟り、漢学を中心に明治6年(1873)に開いたのが「興志塾」(愛称「人参畑塾」)である。塾生には後の「玄洋社」の頭山満や自由民権運動家をはじめ、「西南戦争」や士族反乱のメンバーも入塾していた。さらに、のちのジャーナリストの重鎮・緒方竹虎や中野正剛をはじめ総理の広田弘毅も在籍。

 体は虚弱で小柄だったが、若いときは颯爽と馬にまたがり、年老いてからはゆったり牛にまたがって往来していたという高場乱。幼少のころから、才気あふれ武芸にも秀でている才能が認められ、藩より男装と帯刀を許された公認の「武士」でもある。

 

 高場乱の生誕190年を記念して地元で銅像設立のためのクラウドファンディングが行われ、支援総額は10,510,000円となった。牛に乗った高場乱の銅像が福岡市博多区、崇福寺に建立され、2023年3月31日に除幕式が行われた。主催メンバーの中枢には高場乱の子孫も参画しているのもその魂が生きているのが伝わってくる。

 本書の半分は、九州・福岡での士族や西郷隆盛らを中心とする叛乱が叙述され、そして、命をかけた志士が参集した玄洋社誕生とその担い手を育てた高場乱の迫力ある講義やエピソードが続く。

   永畑道子さんの著書を何冊か読んだ記憶があるが、いずれも時代と生き方と恋とを絡めた抒情的な文章にいつも魅力を感じていた。今回は資料が多すぎてか、逆に証言者を見つける困難さの格闘が伝わってくる。

 著者が描いた『華の乱』『夢のかけ橋』をベースにした「華の乱」が1988年、深作欣二監督の映画として公開された。与謝野晶子(吉永小百合)を中心に有島武郎( 松田優作)や与謝野寛(緒形拳)らが大正の芸術・社会運動・愛をテーマにして花のように散っていった激動の生きざまが描かれている。

 もし、高場乱を主人公にした映画であったならば、もっと掘り下げた問題作になったに違いない。本書はその意味で、NHKの「大河ドラマ」になっても耐えうる作品になるに違いない。当時からの課題であるアジアから信頼される日本を形成するという宿題は、いまだ及び腰のままである。

 

 冒頭に寄稿された右翼ともくされた小林よしのり氏の「日本人は敗戦のショックにより、自ら西洋化して欧米と一体化しようとする薩長藩閥政府的な思考を強化し続けていき、そのまま七十年もの歳月が経過してしまった。…アジアに対しては、ひたすら中国・韓国を蔑視、敵視するような者たちが<愛国者>を自称する異常事態が横行している」という指摘は全面的に的確だ。従来の、西郷隆盛の「征韓論」や「玄洋社」の一方的な見解の見直しをしなければならない。

   
   
   
   
   

 

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明治・大正・昭和を貫く杉山家三代の軌跡

2025-04-11 00:25:10 | 読書

 世に知られていない「杉山家三代」の歴史は大河ドラマそのままのスケールだった。その詳細をまとめた労作・多田茂治『夢野一族 / 杉山家三代の軌跡』(三一書房、1997.5)をやっと読み終える。杉山茂丸・杉山泰道(夢野久作)・杉山龍丸三代の歩みはそのまま明治・大正・昭和の近・現代史をたどる軌跡になる。

 茂丸の父・三郎平は儒学者で「民ヲ親ニス」(民を親と思って社会に尽くせ)という家訓を残し、それを社会に具現化し貢献したのが杉山家三代の逸材だった。

   その家訓を真に受けた20歳の「茂丸」は、民の貧しさは国の中枢にいる総理・伊藤博文にあるとして暗殺を企てるが失敗し、逆に説諭される。そして、中国が外国に植民地化されている実態を見て、日本が植民地にならないよう尽力する人生を邁進する。それで、インドのビハリ・ボースや中国の孫文などアジアの革命家を支援 したり、日露戦争では、山形有朋・児玉源太郎ら関係者を影で支えた。

 また、産業を興すために日本興業銀行の設立や台湾銀行の創設に関わったり、博多湾築港や福岡空港、関門鉄道トンネルなど、地元九州の発展にも尽力した。 さらには、日本相撲協会設立・刀剣・浄瑠璃など日本の伝統文化の保護・支援にも大きな力を発揮した。

  政財界に隠然たるフィクさーぶりを発揮した「茂丸」は、玄洋社の頭山満とは生涯盟友関係を保持した。筑豊の鉱区権獲得を頭山満に進言し、それで玄洋社の資金源として確立させる。二人に対する評価は、戦後のGHQから右翼的な国粋主義者との烙印が押されたままでいまだ払拭されてはいない。彼らは、西洋列強から日本を護るために、アジアとの連帯を推進していたのであり、アジア人同士戦うことを危惧していたところがある。「夢野久作と杉山三代研究会」はそういう立場が鮮明だが、著者はそれでも戦争に結果的に迎合していたことは否定していないところに温度差がある。

 なお、頭山満の人間的な広さとピュアな直情はそこに多様な人間が集まったことで知られる。ちなみに、頭山家と松任谷家とは姻戚関係にあり、つまり歌手のユーミンはそのつながりの中にある。

 

 茂丸の長男の杉山泰道(夢野久作、1889~1936) は、近衛歩兵少尉、僧侶、郵便局長、新聞記者、農園主などを経験するが、異端にいた作家・夢野久作が注目されたのは、鶴見俊輔が『思想の科学』に紹介してからだった。

 また、関東大震災を取材した「久作」は、「数字とお金とで動かせる死んだ魂の市場ーそれが東京である。智識と才能と人格の切り売りどころーそれが東京である」と東京の腐敗堕落をレポートしている。一方、久作は「これからはアジアの時代。アジアの国々が独立した後に必要となる」として、アジア各国の農業指導者を養成する4万6千坪の杉山農園を開園する 。

  (画像は「書肆心水」社から)

 近代インドには二人の偉大な父親がいたと言われる。一人は英国からの「独立の父」・ガンジー。もう一人は、インドの緑地化のために奔走した「緑の父」(Green Father)・杉山龍丸(1919-1987)である。古代文明の砂漠化は森林伐採にあると喝破した「龍丸」は、植林の場所は、ヒマラヤ山脈に降った雨が地下に溜まる国際道路470km間とした。つまり、国際道路はヒマラヤ山脈と並行しているので、木の根が地下に壁を作り保水できるようになるという考えから、ユーカリを植林していく。

   1963年、ユーカリ植樹事業に乗り出すも、インドは大飢饉に陥る。龍丸はインド全域に及ぶ餓死者の続出はやはり森林伐採が原因と判断。龍丸は、「祖父と父が残した4万坪の杉山農園を切り売り」して資金を作り出した。植林帯周辺約2kmの地帯では生長が早い台湾の「蓬莱米」の栽培に成功。蓬莱米の種の入手は、「龍丸」がかつて孫文を支援した「茂丸」の孫ということで実現した。

 著者は、「硬骨の黒田武士の血脈をひく杉山家三代は破格の人物ぞろいで、志に生きた夢の一族と言えよう」とし、とくに、茂丸は、その「奔放不羈のその生涯には単純なレッテルを貼りがたいものがある。茂丸は政界の黒幕となっても、今時の政治屋とは違って、私利私欲を排し、生涯、無位無冠に終わった」と結んでいる。

 著者は、「久作」について「自然の恵みを受ける農業こそ人間の生活・文化の基本とし、西欧的近代化がもたらした功利的物質主義を厳しく批判」していたことに注目したい。それにオラが最も共感した「龍丸」はインドで砂漠緑化を私財をあげて実現していった姿は、アフガンの緑化途中で凶弾に倒れた中村哲医師と重なる。杉山家三代の軌跡には現代日本が忘れてしまった魂のよりどころがまだ埋まったままである気がしてならない。

 

 

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「弥勒プロジェクト」の行方は

2025-02-14 11:00:37 | 読書

  「知の巨人」といわれた松岡正剛氏が去年の8月に肺炎で亡くなった。編集業界ではマルチに活躍する異彩の重鎮だった。ネットの「千夜千冊」での書評はその深さと広さには刮目する鋭さに満ちていた。ということで、彼とそのチームがビジュアルに編集構成した『NARASIA 日本と東アジアの潮流』(丸善、2009.5)を読む。

  全頁をめくっても美術書を開いたような構成になっている。しかし、肝心の表紙はおとなしい。金粉を散らしたつもりのようだが、それは金粉そのものではないし、表紙が汚れているような印象になってしまったとも思える。もしくは、日本と東アジアとの浮遊する歴史を象徴したいのだろうか。

 

 それはともかく、 表紙をめくると「この一冊で、日本・奈良・東アジアが見えてくる」と示唆して暗示めいた密書の謎解きが始まる。その次をめくると、英雄が時運に乗じて変幻自在に活躍する「雲蒸龍変」、文武両道を兼ねた政治を表す「緯武経文」とか、物(月)の解釈は立場(舟)によって異なる「一月三舟」とか、初めて出会うような四字熟語が読者を突然襲う。この熟語から何が見えてくるというのだろうかと不安になる。

 

 2010年は平城京遷都(710年)から1300年を迎える。それを記念して出版されたのが本書である。同時の記念事業としては、平城京跡地をメイン会場として363万人を迎え、さらに奈良県内の各地・各寺院施設でも独自のイベントが行われ、県内全体の総来場者数は延べ2140万人となり、その全国への経済波及効果を約3210億円、県内では約970億円に上るという。

   平城遷都の710年は、日本で初めて本格的な首都が誕生し、ユーラシア文化との国際交流などを得て天平文化も花開いた国家としてのスタート地点だった。それから1300年後、東アジアの発展は着実にあるもののその混沌はいまだカオス状況にある。日本も隣人のアジアではなく欧化政策を優先させてきた経過もある。そんなところから、かつての奈良ー東アジアー日本という「narasia」潮流を大胆に見直し、「平城遷都1300年記念事業」を推進することになった。その一環として「弥勒プロジェクト」が誕生した。

 

 それに関連して「日本と東アジアの未来を考える委員会」が創立され、美術家の平山郁夫氏を委員長に政財界・芸術・学術・行政各界から約100名近くの日本の錚々たる顔ぶれが参集した。この委員の名簿を見て感じたことは、あまりにトップクラスの人材のため、これらの人脈を支える親衛隊がいるのだろうかと疑問に思った。機能不全に陥るのではないかと予想された。事業としては黒字になったようだが、「弥勒」精神の実現ではなかなか手間取ったようだ。一過性の祭りごとを永く支えるにはそれを推進するプロモーターの存在が欠かせない。その羅針盤ともいうべきアイテムの一つが本書だったようだが、消化しきれないまま今日に至ったように思える。

 

 本書では、戦前の三木清や竹内好らが提唱した「東亜共同体論」について触れられていないのが残念だった。彼らの理論は欧米中心主義に対抗する理念として先験的なものだったが、結果的には軍による大東亜共栄圏構想にすり替えられてしまった。しかし、最近は世界史の考え方に欧米中心主義の解釈から脱却の動きとして、世界に影響を与えたアジアとその周辺の歴史的意義が再考されてきている。

 その意味では、本書関連の「記念事業」のめざしていたものはもっと再評価しても良い。見え透いた経済効果ばかりの大阪万博よりは、松岡正剛氏が残した精神はもっともっと評価するべきだ。 (画像はすべて本書から)

                                              

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史上に刻印された平安女性の活躍

2025-02-01 09:43:00 | 読書

 大河ドラマ「光る君へ」が終わったが、読みかけだった服藤早苗『源氏物語の時代を生きた女性たち』(NHK出版、2023.12)をやっと読み終える。平安中期に輩出した女流文学は世界的に観ても驚異的なできごとだ。とくに日記は、事務的な備忘録の域を出ない場合が多いのが一般的だが、「紫式部日記」「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「更級日記」などの女流作家が、自叙伝・結婚恋愛・随筆などを内容とした「日記文学」を確立していったところが、今に至るデイープな世界を形成している。

  (引用はokke webから)

 その背景は、「唐」からの離脱としての国風文化の進展から、「かな文字」が発明され女流貴族の錬磨によって熟成されたことが大きい。さらには、背景として女性天皇や皇后の政治的政策的存在感もあり、それは、今日の国連が日本を指弾しているように、女性天皇誕生に否定的な日本の後進性を暴露するものでもある。その意味でも、女性は歴史的に重要な役割を担った古代そして平安には燦然と輝く星でもあった。

 

 (引用は、ライブドアニュースwebから)

 著者は、家具・調度品のデザインについても当時の女性の果たした役割も論じていたが、女性の婚姻・出産・労働・商売・旅行・神仏詣・家事など、ライフサイクル全般を紹介しているため、その詳細は省略されていたのが残念。

   女流作家の担い手は、中下流貴族の「受領」層の娘が多かった。そのため、立身出世のためには短歌・管弦・漢籍・能筆の力量が問われる競争社会におかれた面もある。さらには、主人がほかの女性に入りびたり帰ってこない孤独の心情をぶつける場としては、日記や物語は絶好の自己表現ともなった。

    また、婚姻形態は「妻方の両親が婿を取り、新婚当初は妻方で生活し、一定期間たつと新処居住に移り、けっして夫の両親とは同じ屋敷に住まない」と、著者は女性史研究の先達者・高群逸枝(タカムレイツエ)氏の主張をまとめながら、母系制家族形態が生きていたことを証明している。一時的にせよ、それは嫁姑問題はおこらず女性にとっては過ごしやすい環境でもあった。

   著者は、「男たちが、借り物の外国語である漢字や漢籍を下敷きに日記を書き、公的文書や漢詩を作っていたとき、女たちは、心の内面を描写できる仮名、いわば自国語で、自己を語ったのである。この仮名文字が、わが国の平易な日本文を定着させていったことはいうまでもない。女たちは、伝統文化の基礎をしっかりと固めたのである。」と、その背景を展開する。なお、藤原道長が書いた漢文調の『御堂関白記』は、当時の貴族社会を知る世界最古の直筆日記として「ユネスコ記憶遺産」に登録されている。

   女性のライフサイクルからの間口が広すぎて、論点がやや舌足らずになってしまったのが残念。むしろ、文化を創る女性たちや皇后の周りの女官・女房らのサロンなどに絞ったほうが主題にのっとったことになったのではないかと思われた。いずれにせよ、当時の男女格差は厳然としてあったものの、王朝を支えた中核には女性の活躍・役割、とりわけ今日に至る日本文化への貢献は計り知れない。

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混沌の時代だからこそ老子の出番

2025-01-10 18:40:56 | 読書

 ヨーロッパで出航の出口を失ったロシアは最近は日本海への脱出口を探っている。大国の戦火と力による現状変更は時代錯誤ではなく、実際に直面している現実となっている。また、わが国内の閉塞した状況での犯罪・殺人事件も止む兆しはない。

 そんな中だからこそ、紀元前8~3世紀の中国で群雄割拠する春秋戦国時代に一石を投じた「老子」に注目せざるを得ない。だもんで(方言)、童門冬二(ドウモンフユジ)『男の老子』(PHP研究所、2007.11)を読む。「男の」という表題は気にくわないが、企業戦士・サラリーマンをターゲットにしているからなのだろうか。そこがもう著者の勇み足に思えてならない。

 

 戦乱と殺戮が絶えない紀元前中国の乱世のさなか、孔子・孟子・孫子・墨子・老子など「諸子百家」の学者・ブレーン集団が創出していく。これらの思想が現代でも受け継がれているというのが大国のすごいところだ。戦争は国も人も暮らしも疲弊させていく。そんなとき、老子は「小国寡民(カミン)」のユートピアを提唱する。つまり、「住む人の少ない小さな国」だ。

 それはまさに、オラたちが住む過疎地ではないか、過疎地で桃源郷を実現していくことこそ老子の「道」ではないかと、我田引水の欲が動き出す。著者によれば、「良識を持った自己自治のできる人間」として、「常に弱く・柔らかく・後ろへ退く<へりくだりの精神>を発揮しつづけることだ」ということになる。

 

 老子というと現実逃避の空気を感じないでもない。しかし、自分たちの命や暮らしなどの安心を守るうえではそれも一つの選択肢だ。実際オラがこの過疎地にやってきたのもそんな精神状態があったのも否定しない。と同時に、今この過疎地に暮らしていて精神的な安らぎと自然からの恵みや豊穣をいただいていることも間違いない。老子の言う「無為自然」、自然の摂理に満ちた次元と清貧のぎりぎりの次元とに身を置いて、謙虚に現実を生きる、という発想は「小国」の地方が豊かに生きる上で大きな目標となる。

 

  東京都で美濃部亮吉知事のブレーンだった著者が都会に住む自分が老子的発想を取り入れている暮らしを時間軸で紹介している。つまり、桃源郷のような環境でない都会でも老子的生き方は可能だとする。著者のそれは確かに規則的でストイックな精神生活だ。だからか、本書を80歳で出版するほどのパワーが漲っているわけだ。が、うがった見方をすれば、エリート官僚らしく老子をよく勉強している成果の賜物でもある。ただし、伊集院静のような苦悩の果てから産み出された言葉の迫力が感じられない。

  

 実在したかが不明の老子ではあるが、戦火の中で人間いかに生き抜くのかという究極に置かれた老子たちの苦悩にもっと迫ってほしい、と無理難題が疼いてしまう。しかしながら、特攻隊崩れの著者があえて老子を取り上げた著者の奮闘・感性・優しさは公務員の鑑であったのは伝わってくる。著者は昨年2024年6月、96歳で逝去している。

 小国の実現には、「個人の自治力が基盤」であるとの著者の視点はまさにその通りだが、その実現はかなり難しい。と同時に最近は、過疎地や地方をあえて移住する若者たちがいることや「ポツンと一軒家」の番組に出てくる高齢者の生き方にはまさに老子的生き方をかなり実現しているように思える。そこに時代を拓くひとつの可能性がある。 

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「二十億光年の孤独」を感じた青年は

2024-12-27 17:27:59 | 読書

 今年の11月に日本を代表する詩人・谷川俊太郎が老衰で亡くなった。詩集を読むのが好きだったオラにも俊太郎は生きる喜びを与え続けてくれた。というのも、ほかの作家の詩は解読が難しかったり、独りよがりだったりするなか、俊太郎の詩は構えずにしてその世界をふらりと入れてくれる。彼のデビュー作『二十億光年の孤独』(集英社文庫、2008.2)を再度取りよせて読んでみる。「二十億光年」とは当時言われていた宇宙の直径である。現在では900億光年を上回るという。

 

 「二十億光年の孤独」の詩は、たった16行しかない詩だ。「 万有引力とは ひき合う孤独の力である / 宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う / 宇宙はどんどん膨らんでいく それ故みんなは不安である / 二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした 」といったフレ-ズのリズムは終生変わらなかった気がする。17歳で詩作を初め、21歳で本詩集を刊行したこの青年はそのまんま変わらず老詩人となり、92歳で大往生を遂げる。海外でも人気がある俊太郎だが、本書には英訳付きの初文庫化と18歳の時の自筆ノートを収録している。

    (好学社)

 オラの子どもにもなんどともなく読み聞かせをしたのが、絵本の『スイミー』だったり、『もこもこ』だった。俊太郎は、哲学者の谷川徹三の一人息子として恵まれた環境に産まれ、不登校のときは模型飛行機づくりやラジオ組み立てに没頭するのが、本書の手記にも出てくる。だから、一人っ子の孤独を引きずりながらも、より広く宇宙の中での孤独や不安をも感じ取る。でも、最後はくしゃみしてしまう。そこに、俊太郎の真骨頂が仕組まれている。俊太郎青年はそんな孤独を感じつつもそれを越える「面白さ」や「好奇心」を発揮した青春にも踏み込んでいったのだった。

   (文研出版)

 その才能を見抜いた父は当時の大御所・三好達治に俊太郎の詩を見せたら、「穴ぼこだらけの東京に 若者らしく哀切に 悲哀に於いて快活に ーーーげに快活に思ひあまった嘆息に ときにくさめを放つのだこの若者は ああこの若者は 冬のさなかに永らく待たれたものとして 突忽とはるかな国からやってきた」と、絶賛した序詩を寄せている。

 都会のTシャツを愛する『世間シラズ』の甘ったれ坊ちゃんは、恵まれた環境を十分に生かして言葉の連続革命を引き起こした。詩壇のビートルズだと思う。存命中にノーベル賞を与えても良かった逸材だ。

 

 

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こころの傷をバネに辺境を渡る

2024-12-20 21:55:00 | 読書

 ひょんなことから、井上光晴『井上光晴詩集』(思潮社、1971.7)を読み始めた。前半は青年らしい正義感あふれる社会への異議申し立ての詩に溢れている。それが後半になると、言葉をこね回し難解になっていく。しかし、魅力は常に底辺に生きる人への共感だった。

  

 井上光晴の詩や小説は、絵描きの父が家にいなかったり、母が家出したりで祖母の手で育ったことがルーツのようだ。幼少期から「嘘つきみっちゃん」と呼ばれていたように、彼が言う生い立ちや経歴は虚構であることが多い。また瀬戸内寂聴と愛人関係にあったことは有名でもあった。寂聴が出家したのもその関係にケリをつけるためということだった。娘の直木賞作家・井上荒野(アレノ)は、父の虚構癖や寂聴と母との親戚のような関係を小説にしている。

  

 その娘の実話小説『あちらにいる鬼』(監督・廣木隆一)が映画化され、光晴が豊川悦司、寂聴が寺島しのぶ、母が広末涼子が演じている。原一男監督のドキュメンタリー映画「全身小説家」にもそうした証言や晩年の光晴のナマの姿を描いている。

 

 本詩集から、「金網の張ってある掲示板に 父の名前は見えなかった 父は何度も爪吉の頭をなでながら がっかりしたように笑っていた --ー爪吉、活動でもみろか ーーーうん、父ちゃん試験に落ちたのか

 たぶん冬だったろう ほこりをたてた風が二人の足もとで 悲しく巻いていた  ーーー心配せんでいいよ、爪吉  落っこちることはハンマー振った時 とうからわかっていた ーーー父ちゃん、力がないからなあ 

 眼に入った爪吉のごみを舌でとりながら 弱々しく父は言った  ーーーうん、父ちゃん、本当に力がないからなあ」 という詩は、ぐっときた。 これは詩というより散文ではないかとさえ思えてしまうが。

 

 本詩集は、やや厚めの紙からなり、約3cmほどの重厚な製本となっている。 表紙やそれをめくるとシュールな円形の造形が次々出てくる。その意味は分からなかったが、著者のやるせない空虚を表現しているように思えた。それは、1970年代の三里塚・沖縄闘争、赤軍派のハイジャック、ウーマンリブ運動、日米安保条約の自動延長、光化学スモッグ発生、三島由紀夫割腹事件、チッソ・イタイイタイ病事件など、高度成長経済の歪みとともに社会不安が増大していく時期と著者の心の表現でもあったのかもしれない。

 

 本書の作品は、現実と虚構にある辺境をあぶりだすものではあるものの、全体としては詩集のもつ情感とか余白とかリズムとかが熟成しないままの印象が残った。ここから、作者は虚構の小説の世界に入っていくところに居場所を見つけたようだ。

 

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