幕末に日本にやってきた英国のプラントハンターのロバート・フォーチュンは、訪日前に中国で歴史的な密命をやり遂げた跡だった。当時、イギリスの綿をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへという「三角貿易」で、イギリス経済は巨万の富を帝国にもたらしていた。アヘン戦争(1840年)勝利でイギリスはさらに未踏の中国市場を飛躍的に拡大していくことになる。
中国奥地に外国人が侵出するのは命がけだった。プラントハンターの若きフォーチュンは、「ロンドン園芸協会」から中国行きを命じられ、貴重な茶をはじめとする植物の苗と種を入手する密命を受けていた。彼は高級官僚服と辮髪をもって変装し、未知の国での採集を命がけでしていく。そんなドキュメンタリーを描いたのがサラ・ローズ(訳・築地誠子)『紅茶スパイ』(原書房、2011.12)だった。
著者は、フォーチュンの果たした役割を次のようにまとめている。
1 彼が東洋で発見した植物は、新種を含め数百種に達した
2 緑茶と紅茶は同じ茶の木からできることを証明し、リンネ分類を訂正させた
3 中国人が毒性の着色料で緑茶を染めて販売していたことを暴露し、英人の健康を回復させた
4 当時、植物の苗や種の移送がことごとく失敗していたなか、彼の実験を経たやり方で成功させた
5 彼が移送したインド産の茶は質量ともに中国を上回るようになり、大英帝国の利益を産み続けた
6 山間の茶畑からイギリスの家庭に到着するまでの生産・物流・販売システムのすべてを変え、贅沢品だった 茶を安価にし、大衆化させた
本書を読むきっかけは、フォーチュンの『幕末日本探訪記』を読んだことで、植物だけでなく政治経済・文化・庶民などの分析の正確さに驚いたことだった。それは訪日の宣教師が逐次日本の情勢を自分の国に報告していた諜報活動と似ていた。彼らの中心人物は宗教の布教だけでなく相手の国を植民地化する尖兵でもあったという視点を忘れてはならない。キリシタン大名も敬虔な信者らも結果的には利用されていたわけだ。
著者のサラ・ローズは、「フォーチュンが中国から茶の種や苗木を盗み出したとき、それは保護貿易上の秘密を盗み出した、史上最大の窃盗だった。彼の活動は現在なら<産業スパイ活動>とみなされ、センセーショナルに扱われたことだろう」と、終章で指摘している。
フォーチュンは有能な植物研究者であるとともに、その経済的利益や効果をもふまえた視点を持っていたことで、結果的に大英帝国への莫大な利潤に貢献したのは間違いない。それをやり抜く胆力はまさに「ゾルゲ」並みの精神力であることを感じ入る。