山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

フェアトレードのルワンダコーヒー

2017-11-30 17:54:03 | 特産品・モノ

 車に乗る前、いつものように自販機で缶コーヒーを買う。どこのメーカーかはよく見なかったが、飲んでからラベルを見たら、牛丼チェーン「すき家」で有名な外食産業の「ゼンショウホールディング」のルワンダコーヒーだった。

 それは、「世界から飢餓・貧困を撲滅する」という企業理念の一環としてのフェアトレード取引の商品ということだ。自販機にフェアトレード缶コーヒーを設置するのはきわめて画期的なことだ。

 以前、映画「ホテル・ルワンダ」を観て、民族間の虐殺内乱の中で活路を見つけていくという刺激的な対策があったが、その後のルワンダの将来には関心がある。そこにゼンショウ社員が現地でフェアトレードをしているのは素晴らしい。

 味はオーソドックスで新鮮さに欠けるが、まずは広まることを期待したい。ちなみに、ハマ寿司・華屋与兵衛はゼンショウ傘下の子会社だ。

 

 

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渋柿を干し柿にしてみる

2017-11-29 19:47:26 | 食彩・山菜・きのこ

 以前、裏山に小さな渋柿があることを発見したが、今年は満載の実ができた。

 いつもはきっと藪の陰に隠れていてひっそりだったに違いないが、数年前、近くを伐採したため光が当たったためと思われる。

 

              

 日当りが悪いのは相変わらずで周りの柿はとっくに熟して落ちてしまうほどなのに、ここは最近やっと色づいてきている。

 それにしても、今まで渋柿があったことに気が付かなかったというのものんきなものだ。

 

    

 「われは試みに干し柿にしてみようぞ」と和宮様が自ら立ち上がった。

 わが家は日当たりがよくないので干し柿には条件が悪い。去年は雨が続いていて購入した渋柿づくりに苦労したことがあった。

 今回は作戦を変えて一時天日干ししてから掘り炬燵で乾燥させるつもりだ。これを契機に残りの柿も挑戦する予定だ。

 

                 

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「エゴマ」の種を初めて収穫

2017-11-28 21:50:35 | 農作業・野菜

 「エゴマ」を苗から初めて栽培したものの、強風にやられて倒れてしまった。

 しかも、収穫しようとしたがなかなか時間が作れず種の大部分はこぼれてしまった。

 あわてて残った種を集める。

 

                 

 順調に育っているときはエゴマ油を搾油しようとその装置のつくり方の図書を集めていたが、残念ながら今回は収穫量が少ないのでお預けとした。

 思い通りに行かないのが現実というものだと気を取り直して、まずはゴミと混じった実をしっかり確保すべしと篩にかける。

 

 老眼鏡でしこしこ実をザルで選別していたら、見かねた和宮様が「一つひとつ手で採り出すほうが近道ぞよ」と、率先してやりだすのだった。

 こちらは「ザルの目の大きさの違うのを買ってからやろうよ」と、「きょうできることはあすに延ばそう」というぐーたら精神でいたので、またもや発破をかけられてしまった。

 

               

 ゴマの形状より丸っこいのがエゴマの種だった。まるで砂粒のようだった。

 お椀一杯ほどを確保する。免疫力向上・動脈硬化防止をはじめとする優れた健康野菜なので、じっくり食べ方を楽しみたい。  

 

               

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柿の剪定枝で焚き火

2017-11-27 19:49:34 | 野外活動

 柿は剪定を終えたのでその枝で焚き火をする。

 いつものようにその火で「うどん」を煮る。寒いときはやはりうどんが似合う。

 畑で使い終わった竹の支柱はよく燃えるので生の枝もしっかり燃えていく。

 

                   

 七輪で赤魚を焼くのも定番になった。昼食はうどんと赤魚だけで満腹となる。

 七輪は土中に捨てられていたものを掘り出したボロボロのものだったが、充分機能を発揮してくれる。こんな便利なアイテムを捨てるなんて考えられない。

 

 

            

 魚を焼いてから収穫した落花生を煎る。しかし、今年の落花生は不良だったので粒も小さいし味も納得できない。このところ落花生の失敗が続いている。1年目が一番よくできたのにそこにいまだ到達していない。

 「ベニハルカ」を午後ダッチオーブンで焼く。太いサツマイモ三本にしたので時間をかけて焼いていく。夕飯に食べたが、ねっとりとしていてスイーツのようだ。スプーンでほじくりながら食べる方法がいちばん食べやすい。

 柿の剪定枝と畑の残骸を燃やすことで食事が多彩になる。そしてその灰は畑に漉き込まれる。それはまるで、焼き畑農業の延長のようなものだ。先人が続けてきた効能がいまや公害になってしまう。

 焚き火もいよいよ絶滅危惧種になりつつある。      

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小さな地域に小さな潤いを

2017-11-26 21:47:23 | 市民活動・まち育て

 昨日の「里山コンサート」にはなんと地元の方がスタッフに参入してきた。

 このコンサートの魅力は、地元産弁当(口)、庭の秋の借景(目)、生の演奏(耳)の三大要素が中心。お弁当には、数少ない地元産無農薬の米に、毎回好評の地元のヤマメの甘露煮、地元産の野菜がメインとなっている。

 

                 

 売店には地元の茶農家をメインにお茶・紅茶・シイタケなどが並べられている。

 参加者にはお茶農家からの「おみやげ」のミニプレミアムをもらえるのも楽しみだ。

 

           

 さらに、地元野菜には無農薬野菜とその加工品が用意されている。

 もちろん儲けは僅かなものだが、キクイモのような流通に乗っていない健康野菜があるのも特徴だ。

 

          

 しかも、端材で作った木工品や竹かごを楽しめたり、フェアトレードのコーヒー(前回)を飲めたり、手づくりパンなどが人気がある。

 こうして、地域の零細な経済に小さな潤いを与えているということである。そしてそれを支えているのが「長蔵寺応援団」のボランティア。あまり力まず背のびしないで尾上さんの思いを応援することに徹しているのがいい。

 

         

 地元では日当を払えばやってくれるが、共同作業は別として自前でボランティアをやる人は極めて少ない。たとえやっている人でもそのほとんどが「よそ者」から構成されているのが実態だ。

 その意味で、過疎地で開催されるこの里山コンサートの意味するものは深いとかねがね思っている。 

      

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参加者からスタッフへ

2017-11-25 20:16:07 | 市民活動・まち育て

 ハープの音色が山寺から聞こえてくる。音色だけ聞いているとピアノを演奏しているように聞こえる。外の畑の界隈からスタッフの幼児の歓声とハープの音色がマッチしていて里山コンサートらしい風景が絵になる。

 秋の「里山コンサート」がお寺の本堂で始まった。

 

       

 持ち込まれたハープはお寺にぴったりの黄金の輝きを見せている。 オーソドックスなクラシックからポピュラー・童謡など、聴衆におなじみの曲を奏でてうっとりさせている。

 ハープを産まれて初めて見る人もいる。その大きさにみんな驚嘆する。

 

          

 片付けもおとな3~4人が持たないとハープを運べない重さ・大きさだ。

 今までコンサートの参加者だった側からスタッフに参画する人が増えてきたのが最近の特徴であり、手応えだ。

 

 好評のお弁当もお米は無農薬の米、春野産の野菜がふんだんに詰め込まれている。

 わが家からは栗・赤大根・小梅を提供して使ってもらった。

 今回も地元の後期高齢者を招待した。スタッフの顔ぶれも若返りが目立ったが、オイラをはじめとする高齢者はだんだんときつくなってきている。尾上さんの健康も気がかりだ。 

 

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大根を出すことにした

2017-11-24 20:06:10 | 行事

 明日の「里山コンサート」に大根を中心に出店することに急遽決める。

 というのも、いつも二股だった大根が意外にも真直ぐな大根を収穫できたことだった。

 畑の石が少なくなり土壌改良が進んできたということでもある。

 

 ドイツ原産の「紫大根」も順調だ。これを甘酢漬けで食べるとじつに旨かった。

 皮は紫色だが肉は白く、酢を入れると全体が赤くなっていく。しかも、パリパリとした食感が小気味いい。

 

             

 さらに、蕪と間違えた「北京紅芯大根」は、逆に外の皮は白いが肉は見事に真っ赤なのだ。

 同じように、甘酢漬けで食べると三日目以降くらいが食べごろだ。薄くスライスすればサラダの色づけに貢献できる。

 

    

 午後から「里山コンサート」の会場となった「長命寺」に行き、スタッフが出店の準備をする。風が強いのでテントは骨組みだけにし、机のセッティングをする。

 みんな慣れた手つきでテキパキとやるので短時間で終了できた。しかも、明日は穏やかな晴れ日和のようだ。

       

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お寺でハープコンサート

2017-11-23 21:16:54 | 行事

 町内でまちおこしに奮迅する地元の尾上さんが主宰する「里山コンサート」が明後日に迫った。

 会場を近くの「長命寺」に変更して、二人のハーピスト=北村直子さん・斉藤充子さんをお呼びする。お寺とハープとのコラボが見ものだ。

 きょうはときどき突風もあり寒さもバカにできない環境だったので、その意味でも会場変更は妥当だ。

 

          

 地元産の食材で構成されるお弁当も毎回大好評だ。(画像は一昨年のもの)

 一年に春と秋二回のコンサートをこの過疎地で開催するが、いずれも100人を越す参加者・スタッフに恵まれている。担い手も参加者も残念ながら地元が少ないのが悩みだが、スタッフの結束も参加者のリピーターも高揚しているのが心強い。

 あす、準備のためにお寺に駆けつける。地域のためならと快く会場を提供してくれたお寺の心意気にはいつも励まされる。和宮様はお弁当の献立や食材の確保にいろいろ配慮していただいている。

 オイラも準備をはじめこのところ毎回出店することにしている。菊芋の味噌漬けは納得いく味にやっとたどり着いた。  

 

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食べ放題だった柿もそろそろ

2017-11-22 19:58:42 | 農作業・野菜

 庭の次郎柿はもう数えるほどの少なさとなった。

 昨日まではほぼ毎日、少なくとも5個は食べていたろうか。

 高枝鋏の部品が取れて壊れてしまったので、昔ながらの柿採り棒を竹で作ってから次郎柿を収穫してみる。

 

         

 竹の性能は高枝鋏とかわらないくらい活躍したので、高価な高枝鋏は購入しないことにする。それにしても、自然が作る柿の甘さは素晴らしい。しかし、残念ながら柿がいよいよ少なくなってきた。 

 

        

 近所からいただいてきた「百目柿」の大きさと重さに感嘆する。百匁は375gというが、重さがまさにそのくらいなのだ。この柿は甘いのも渋いのも混在するらしい。山梨でよく見るデカイ干し柿は「甲州百目」。

 近所にはこの百目柿をはじめ柿を採ったり食べたりする人間がいない。だからたわわとなった柿の風物詩が見られるが、それを喜んでいいのだろうか。それは息絶え絶えの山里の不整脈の象徴のように思えてならない。

 まずはこれらの柿で柿酢を作ったりしてムラ起こしができないだろうか、と考えてみる。   

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歌謡曲は時代を腹に入れて巨大化し妖怪化する

2017-11-21 20:43:04 | 読書

 歌謡界に君臨した阿久悠は時代を飲み込み言葉の血肉を歌にしたヒーローだった。その生きざまと作詞にこめられた情念を丹念に描いた労作、重松清『星をつくった男』(講談社、2009.9.)を読み終える。

 社会派作家「重松清」は小雪散る「津軽海峡・冬景色」を体感することから書き始める。その筆致は阿久悠の内面の世界に肉薄しようとする重松清のしっとりとした感性が見事だ。

 

      

 「阿久悠の作詞の出発点は、まず歌手ありきではない。聴き手である大衆を、そしてその大衆が生きている<いま>という時代を、どうとらえるか。マーケティングの手法がある」と重松が指摘する。

 阿久悠自身も時代性のない作詞はありえないとしている。それは以前に読んだ社説のような阿久悠の『清らかな厭世』にも滲み出ている。

 

           

 阿久悠の優れたところは、従来の「情」による歌謡曲ではなく、「理」による作詞法だった。しかしそれは、「阿久悠の<理>の芯にはとてつもなく熱いものがひそんでいる」と直木賞作家重松は喝破する。

 和田アキ子の歌う「あの鐘を鳴らすのはあなた」には「常識っていうやつと、オサラバしたときに自由という名の切符が手に入る」という歌詞。

 重松は「このフレーズは阿久悠の手がけたヒット曲すべてにあてはまる」とし、時代と真摯に対峙した阿久悠の警句・姿勢を描き出す。

 オイラは表面的なことでしか歌詞を見なかったので、阿久悠がいかに血肉をかけて生み出してきた歌詞だったかを見ていなかった。

 

           

 5000曲を生み出した彼の執念のルーツは、阿久悠が生きてきた時代への哀しさと怒りとロマンとの格闘だった。と同時に、その結果はバーチャルなメディア世界の時代を形成してしまった。

 そしていま、阿久悠の歌は過去のものとなりますます生活感を削除したエンターテイメントな歌の世界が肥大化している。この事態を忌々しく憤る阿久悠の叫びが聞こえて来そうだ。

 

 

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