植えっぱなしの「ぐーたら栽培」のスイセン群落はいつのまにか倍以上に増えている。今が最盛期だ。その多くは「ラッパスイセン」が主流となっている。一番先に咲くのは、ミニスイセンの「テイタイト」という黄色オンリーのラッパスイセンだった。圧倒して多かったのは、白い花びらにラッパ状の黄色い副花冠のあるラッパスイセンだ。
高校の英語教科書にイギリスのワーズワスの詩「ラッパスイセン」が載っていたらしいが、オラの大脳には全く記録されていない。平井正穂さんの訳がいい。
谷を越え山を越えて空高く流れてゆく
白い一片の雲のように、私は独り悄然としてさまよっていた。
すると、全く突如として、眼の前に花の群れが、
黄金色に輝く夥(おびただ)しい水仙の花の群れが、現れた。
湖の岸辺に沿い、樹々の緑に映え、そよ風に
吹かれながら、ゆらゆらと揺れ動き、踊っていたのだ。
夜空にかかる天の川に浮かぶ
燦(きら)めく星の群れのように、水仙はきれめなく、
入江を縁どるかのように、はてしもなく、
蜿蜒(えんえん)と一本の線となって続いていた。
一目見ただけで、ゆうに一万本はあったと思う、
それが皆顔をあげ、嬉々として踊っていたのだ。
入江の小波(さざなみ)もそれに応じて踊ってはいたが、さすがの
燦めく小波でも、陽気さにかけては水仙には及ばなかった。
かくも歓喜に溢れた友だちに迎えられては、苟(いやしく)も
詩人たる者、陽気にならざるをえなかったのだ!
私は見た、眸(ひとみ)をこらして見た、だがこの情景がどれほど豊かな
恩恵を自分にもたらしたかは、その時には気づかなかった。
というのは、その後、空しい思い、寂しい思いに
襲われて、私が長椅子に愁然として身を横たえているとき、
孤独の祝福であるわが内なる眼には、しばしば、
突然この時の情景が鮮やかに蘇るからだ。
そして、私の心はただひたすら歓喜にうち慄(ふる)え、
水仙の群れと一緒になって踊り出すからだ。
昨年購入した大カップ咲きの「ピンクチャーム」という品種が気に入った。赤橙色のフリルが淡い、官能の電磁波を送ってくる。水面に映った自分の姿に恋してしまったというナルシストの気持ちは、この「ピンクチャーム」を眺めているとわかる気がする。わがパソコンの立ち上げ画像にもなっているのがこれである。
また、「オランジェリー」という品種も珍しい。蝶が羽を広げたような咲き方の「バタフライ咲き」が珍しい。スイセンはどこの家の庭でも見かけるほど人気があり、本場のイギリスではスイセン専門の種苗店が身近かにあるという。
さらには、八重咲の前衛的な白スイセンも魅力的だ。スイセンが多くなるとやはりいろいろな品種が欲しくなるのが人情だ。その意味では、この八重咲をはじめ多様なスタイルのスイセンもさらりと仲間に加えたいものだ。
大型連休や土日は関係ない暮らしをしばらく続けている。農的生活はなかなか予定が立たないことが多い。いつも、天気と相談しながら仕事の手順を組み立てる。畜産ほど縛られてはいないが、野菜や花木の成長過程によって作業が規定される。スイセンをじっくり鑑賞する心の余裕がとれないのが正直なところだ。しかしながら、そんな心の狭さを広げてくれるのが野菜の成長であり花木の美しさでもある。