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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

女性の自立と大英帝国との相克

2025-08-23 22:59:42 | アート・文化

 世界文学全集でよく目にした「ジェーンエア」だけど、読んだことも観たこともない。日中は炎暑のさなかだったので、扇風機を浴びながらそのDVDのお世話になる。小説家のシャーロット・ブロンテが『ジェーン・エア』を発表したのは、1847年。産業革命が進行し、イギリスが「世界の工場」とか「世界の銀行」と言われたヴィクトリア朝時代である。イタリア・フランスに遅れをとっていたイギリスが世界のNo.1となったころが舞台となる。

  イギリスの産業革命は資本主義の急速な進行を産み出し、街には労働者階級が集まり、貧富の格差が増大するとともに、貴族の従来の基盤が崩れていく時代背景が読み取れる。そんな中、孤児院で育ったヒロインは既成のルールを飛び出し、自分の意思や考え方を少女時代から固辞していく。そこに、当時の女性の自立を貫く困難さがよく出ている。したがって、著者の当初の小説のペンネームも男性名だった。

 

 いっぽう、精神障碍者の妻を持つロチェスター家の貴族の夫がもう一人の主人公だ。しかし、彼の複雑でミステリアスな性格に最後までハラハラする。それに翻弄されるヒロインだったが、その原因を踏まえた知性を持つ女性として心ひそかに彼に思いを寄せていく主人公の心の揺らぎを重厚に描いている。ロチェスター家の貴族は、オーソン・ウェルズが演じた。彼は監督として「市民ケーン」、俳優としては「第三の男」主演が有名。

  19世紀中葉の大英帝国の光と影をバックとしながら、作者が経験した学校の不衛生でいじめ・校則への告発は現代でも通用する普遍性がある。また、女性の自立を阻む社会や労働、さらには精神障碍者への偏見なども現代性がある。

 当時、イギリスを覆った霧の街は大英帝国の光と影の矛盾が随所に出てくる。繁栄の副産物として、「ドラキュラ」「ジキル博士とハイド氏」らの怪物たちの登場をはじめ、実際にあった「切り裂きジャック」事件などが社会の不安感を煽る。規律やモラルを重視する従来の社会・学校の体制との矛盾がいよいよ桎梏となっていく。ロチェスター家の主人の怪しさやヒロインの自立的な生き方の貫徹が、本映画の主軸となり、時代背景となってもいる。まさに、世界文学に成長していく中身を作品は用意していったというわけだ。

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実在の盗賊をモデルにした役者絵

2025-08-15 23:26:41 | アート・文化

 安政6年(1859年)に上演された、実在の盗賊・鬼薊(オニアザミ)清吉をモデルにした歌舞伎の役者絵。題目は「十六夜清心(イザヨイセイシン)」。遊女「十六夜」と盗賊となってしまう僧侶の「清心」(その後、清吉と名乗る)の心中物語。清吉は人を殺めて処刑され、雑司ヶ谷霊園にその墓地がある。辞世の句がいろいろ流布されてどれが本物かがわからないが、「武蔵野にはびこるほどの奥薊 きようの暑さにやがてしほるる」、がいいかな。

 派手な装いではなく黒を基調とする「三代目豊国」の大胆でシンプルな構図。絵によっては上部が赤で彩色されているのもある。なお、もともとは上方落語で好評だった噺を歌舞伎で取り上げられたもの。江戸城から4000両を盗んだ事件や寛永寺の僧と遊女の禁断の恋の心中事件など、実際にあった事件を絡めた河竹黙阿弥の作品。

  四代目市川小団次(1812~1866)が演じた鬼薊清吉が見上げた空に何かを持った野鳥が飛んでいる。「十六夜」の小袖の一部を野鳥が運び清吉を励ます場面かもしれない。象徴的な場面なのだろうが、その意味は実際に観劇していないのでわからない。

 親に反発して出ていった清吉が久しぶりに戻ってきたとき、置いてあった財布の中身を両親が見たら大金だったので、それをただすと、関東で盗賊の頭をやっていることを白状する。が、今では義賊としてそれを還元しているという。この噺は、同じ流れの歌舞伎「小袖曽我薊色縫(アザミイロヌイ)」の演目。 

 「豊国漫画図絵」は全部で29図あるらしい。白浪五人男や弁天小僧など有名な悪党らしい役者絵が多い。まもなく明治維新が近寄ってくる情勢の影響だろうか、安政の大獄で有能な知識人たちが投獄・殺戮するような世の中の不安感が清吉のような人物を期待したのかもしれない。

 

 四代目市川小団次は、名門出身でもなく背も低く風貌も今ひとつとだったが、本人の努力で早替わり・宙づり・舞踊などなんでもこなせるとともに、観客の艱難辛苦体験を表現できる一体感ある演技で涙を誘った。そこから、役者絵の豊国・作家の黙阿弥・役者の小団次と言われるほど、幕末江戸歌舞伎の御三家的存在ともなった。

   三代目豊国の画号はいっぱいあるが、この絵の「紀好豊国」というのは聞いたことがない。ひょっとすると、破天荒な「奇行国芳」を意識したのかもしれないと、勝手に想像している。また、彫刻師は「横川彫竹」と、個人名を明示しているのは珍しい。本名は「横川竹二郎」だが、当時の一流の彫師だった。とくに、髪の毛の生え際やほつれ毛は世界的にも評価が高い。今回の絵でももちろんだが、難しい刺青の表現は超絶技巧ではないかと思う。

 これを発行した版元の「下谷魚栄」は下谷の上野広小路で営業していた「魚屋(トトヤ)栄吉」で、広重の浮世絵も精力的に出版していた。なお、「検閲印」は発行月ごとに違うようだ。丸印の中の右側は十二支の「未(ヒツジ)」年の安政6年(1859年)を表し、中央の「十」はその十月に発行、左は改印の「改」の字と解釈してみた。検閲印も面白くしてしまう江戸っ子気質が伝わってくる。 

  

 

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役者絵にCM登場!?

2025-07-26 10:32:35 | アート・文化

  盆栽のプロ並みの腕前だった「三代目尾上菊五郎」の役者絵を見ていた。菊五郎は、市川團十郎(7代目)・岩井半四郎(5代目)・松本幸四郎(5代目)と並んで、江戸歌舞伎の黄金時代を担った逸材の役者だった。美男で万能の役者と言われた菊五郎は、同時に、「植木屋松五郎」と名乗るほどの植物・盆栽好きだったので、江戸の向島に「松の隠居」という植木屋を買取って植木屋もしていた。そんなことなのだろうか、今回の衣装は、菊五郎の菊の花と松五郎の松葉らしき模様ではないかと推定してみた。しかし、64歳だった弘化4年(1847)に突然役者の引退宣言をして「菊屋万平」を名乗り餅屋をはじめたり、再び舞台に戻ったりの自由闊達の人生だった。

  版元(保永堂)の竹内孫八は、広重の「東海道53次」を出版したことで大手版元となった。版元の所在地は、江戸霊岸島塩町だったので、「霊鹽」が印字されている。今回注目したのは、その役者絵の隅に、「仙女香」という粉白粉のCMがあることだった。京橋で販売された「仙女香」は、三世瀬川菊之丞の俳名「仙女」にちなんで命名され、浮世絵とタイアップして宣伝を行った最初の商品だった。

  (画像は「ドクターK」webから)

 「仙女香」を販売していた坂本商店は明治以降、洋傘や杖などの販売も手掛けたが、粉白粉の宣伝は江戸の刊行物の巻末にも次のような効能を載せていた。

 △常に用ひていろを白くし きめをこまやかにす △はたけそばかすによし △できものゝあとを はやく治す △いもがほに用ひてしぜんといもを治す △にきびかほのできものに妙なり △はだ をうるほす薬ゆゑ 常に用ゆれば歳たけても かほにしはのよる事なし △惣身一切のできものに よし △ひゞあかぎれあせもに妙なり 股(もゝ)のすれには すれる所へすり付てよし     

「仙女香」は美容というより薬の扱いだった。そのうえ、十包以上買えば 当時の役者の自筆の扇子を景品として、または、贔屓の役者のサインを提供するというような画期的な販売戦略だった。

  菊五郎の背景は「白髭神社」のようで、猿田彦命[サルタヒコノミコト]を祀り、白髭のとおり長寿や縁結びの神様として信仰を集め、大社のある近江の歴史は2000年以上と伝えられる。すると、場所は琵琶湖畔かとも思うが、江戸にも隅田川沿いに白髭神社があったので、こちらのほうが有力か。神社の神殿が右上に描かれている。

 この役者絵のテーマは、「千社詣」だ。それは江戸時代に幾たびも起きた飢饉によって、庶民は盛んに寺院も含めた「千社」をまわり、五穀豊穣を祈ったわけだ。千社札の版元は浮世絵の版元と同じであることも多かったので浮世絵並みの見事な千社札も登場。現在ではシールのようなものもあるが、景観や建物を損なってしまうので、貼るのを禁止している寺社が多くなっている。

 

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せつない黄昏を超えたいものだ

2025-07-04 21:33:26 | アート・文化

 数日前、雷が鳴り出し突然雨が降りしきる。そんな不安定な天候が続くなか、ひさびさDVDの映画を観ることにした。ウィリアム・ワイラー監督の米映画「黄昏」だ。1952年公開の作品。原作は1900年に出版されたセオドア・ドライサーの小説である。したがって、当時のアメリカの失業の深刻さも背景にもなっている。主人公役のオリビエやヒロイン役のジョーンズもそれにより追い込まれていく。

  堀田写真事務所webから

 一流レストランの支配人をやっていた主人公は、妻子がありながらヒロインにおぼれていき、結果的に乞食同然の孤立暮らしに陥る。いっぽう、不遇だったヒロインは劇場の女優として仕事を得てから主役に抜擢されるなど脚光を浴びた優雅な暮らしとなっていく。

 劇的なストーリーの映画化は戦後復興をめざした日本にも反響を及ぼしたようで、1950年代の電車の中吊り広告はそんな味が沁みている。

 

 「ローマの休日」や「ベンハー」など、ハリウッドの黄金期を支えたリベラルなワイラー監督だが、主人公が自殺するような最終場面について、当時のアメリカの世相からパラマウント映画社の政治的判断でカットされたようだ。主人公はヒロインからもらった財布からお札ではなく一枚のコインだけもって楽屋を出ていく。その際、ガス栓をひねったが躊躇したところに主人公の絶望の哀しみが伝わってくる。思うようにいかない人生の行路は、とくに恋と失業との陥穽を考えさせる名作となった。

 

 

 

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変わらぬ宗次郎のオカリナの音色

2025-07-01 22:35:18 | アート・文化

 冷房がきかないマイカーで初めての会場・菊川市の会場に向かう。数十年ぶりとなる宗次郎のオカリナコンサートだ。しかし、ナビが関係ない所を案内してしまい、いろいろ試してなんとか時間前にたどり着く。

 

 会場の「菊川文化会館アエル」は、外側からは建物の概要は見えない仕組みだった。森から入り口に踏み込むとそこは中世のヨーロッパの城に迷い込んだような錯覚を催す。回廊の中央には野外劇場や物産のイベントができるような広場があり、そこから大ホールや各会場に向かうが、オラのような初めての異邦人にはどこへ行けばよいかためらうが、好奇心をたぶらかす装置が稼働する場所でもあった。

  

 日本の物かどうか迷う不思議な灯篭のようなものが庭にあった。彫り物は龍のようだった。もう少し探検したいが時間がない。魅力的な会場や細かい仕様が気になったが、ホールに参加者が並びだす。あわてて座席を探し、演奏を待つ。宗次郎は昔と変わらないスタイルと顔でいくつものオカリナを駆使していく。オカリナを日本中に広めた宗次郎は、中国・台湾公演が終わって間もないというタフガイだった。話術が上手になっていた。

 

 NHKで「大黄河」という番組のテーマ音楽に誘われ、オカリナの演奏をやってみた。10本くらいは保有していたほど熱中はしたものの、楽譜が読めないうえに指の関節の病もあり、しばらく楽器はお蔵入りとなってしまった。

 宗次郎の演奏は、音の確かさがさすが透明な空気感を誘う。オラが吹くと音が変調したり、ツバが溜まって音が出なくなる。宗次郎にはピアノとギターとの伴奏があったが、音響のせいか伴奏はオカリナの魅力を半減させている気がした。やはり、単独の音色の孤高さが森や高地を産み出していく気がしてならない。伴奏は前面に出てはならないのだ。黒子に徹する控えめさが必要に思う。これをきっかけに、わがオカリナ演奏は再開するといいが、あまりにも現状のスローライフは忙しい。

 

 

 

 

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「女形」と言えばやはり…

2025-06-27 00:12:39 | アート・文化

 1806年(文化3年)、中村座で上演された「京鹿子娘道成寺」の役者絵を見た。「道成寺」は、大宝元年(701)創建で和歌山最古の寺という。 寺には、「道成寺縁起」が残されており、清姫安珍の恋物語が有名だ。清姫は寺の鐘の中に隠れた裏切った安 珍を、大蛇となって巻きついて恨みの炎で焼き尽くす、という伝説がある。
 この「縁起」をもとに能や歌舞伎の公演につながり、清姫の霊の白拍子を主人公とした歌舞伎は、女形舞踊の魅力が最も発揮され、坂東玉三郎と尾上菊之助という当代最高の「女形」が競演した「二人道成寺」は、近年の名舞台と評価されてもいる。

  役者絵の着物の両脇あたりに、「大」の漢字を三点つなげた「大和屋」の家紋がさりげなく描かれている。それで、当時の庶民はこの「女形」は三代目坂東三津五郎であることを了承する。この頃から、坂東家は女形が十八番となっていく。

  この坂東三津五郎の着物の柄は、流水に流れ散っていく桜のデザインが凝っていると同時に艶やかだ。鹿の子模様もちらりと内輪に散らしている。さらには、黒い帯にはいろいろな家紋のようなロゴを6個も描いている。ひょっとすると判じ絵のような暗示的なデザインかといろいろ考えてみたが、結論は出ず。なぜこの模様なのか、意味があるはずだろうがわからない。

  なお、版元は、川口屋宇兵衛(福川堂)。検閲印の「極」は1個のみで、文化文政時代であることが判る。寛政の改革で蔦屋重三郎や山東京伝が逮捕されて間もなく、町人の経済力から町人文化が活発になることで、江戸歌舞伎も頂点に達する。そのことで、女流の演奏家・アーティストも多く登場していく。

 

 なお、役者絵の作者は、当時歌麿・写楽より人気のあった歌川国貞(三代豊国)。女形の衣装が踊りとともに変わっていくところが見ものだったという。江戸時代の女性の被り物に「揚げ帽子(あげぼうし)」があり、武家や富裕な町人の女性が外出時の塵よけとして用いたもの。 形が蝶に似ているところから揚羽帽子(あげはぼうし)とも呼ばれる。のちの、花嫁の「角隠し」になったという説もある。

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團十郎の敵は祖父の團十郎だった

2025-06-06 22:14:39 | アート・文化

 市川團十郎どおしのにらみ合いが見事に表現されている役者絵に出会った。

それは、曾我十郎・五郎の兄弟が、鎌倉時代の建久4年(1193)、源頼朝が催した富士山麓での御家人との巻狩り(今でいう軍事演習)で、父の仇である工藤祐経(スケツネ)を討った仇討ちの作品である。それ以降、歌舞伎や文学の世界で一大ブームを起こした「曾我物」。

 演目としては、「寿(コトブキ)曽我の対面」、通称「曽我の対面」と言われ、巻狩りの総指揮官に任命された工藤祐経の祝賀に曽我兄弟が対面するというシーンだ。江戸歌舞伎では、非業の死を遂げた曽我兄弟の登場する作品を鎮魂をかねて毎年正月に上演している。

 

 五代目團十郎(1741-1806)は、役者絵の円形の「駒絵」にある工藤祐経役。江戸歌舞伎の開花期の担い手として、荒事・実悪・女形など多様な演技ができそのおおらかな芸風に人気があった。また、俳諧・狂歌などにも造詣があり文化人とのつきあいもあった。

 七代目團十郎(1791~1859)は、曽我五郎役。江戸歌舞伎の絶頂期の中枢に位置し、庶民文化の爛熟期でもあった文化・文政期に活躍。四谷怪談の伊右衛門のような「色悪」役のような強烈な男気で話題をさらい、市川家を「荒事の本家」にまつり上げた。しかし、二人の妻と愛人3人との家庭内もめごとや豪邸での華麗な暮らしぶりに対して、天保の改革のあおりを受けて江戸追放となったことでも有名。人気絶頂から奈落に落ちた波乱万丈の生涯だった。

 

 1855年(安政2年)に出されたこの役者絵のバックには、地味な色合いの牡丹の花が五郎・七代目の華麗さを引き締めている。甲府盆地をのぞむ市川三郷町には、市川團十郎家発祥の地があり、歌舞伎文化公園がある。そこには團十郎家の紋(替紋)の牡丹にちなんで、ぼたん園があるだけにこの絵はじじつじょう團十郎宣伝のポスターともなっている。

 曽我十郎と五郎と特定できる着物の模様がある。それは、二人が富士山麓の巻狩に乗じて陣屋へ討入った際に着ていたのが、千鳥(十郎)と蝶(五郎)のデザインで、曽我兄弟といえば千鳥と蝶の模様を描くことが一般化している。したがって、五郎の七代目團十郎の衣装はやはり派手やかなアゲハ蝶模様である。

 

 また、五代目團十郎の衣装には、工藤祐経の「庵に木瓜(イオリモッコウ)」の家紋がしかと表現されている。それは藤原南家の流れを汲む由緒正しい武将の家紋である。祐経は、兄弟の敵であり悪を象徴する黒の着付けをしているものの、兄弟を思いやる「白塗り」の顔の心の広い人物にしている。

 いっぽう、五郎の七代目團十郎は白塗りの目元に「荒事」の赤の隈取りをしていることで、怒りで目元が血走る表情となっているところも対照的でもある。そしてその前衛的な「若衆髷」も見ものだ。

  

 豊国の充実した役者絵は一流の彫師「彫竹」の協力。版元は「イせ芳」だが、「伊勢芳」との違いはわからなかった。改め印も従来の印と微妙に違うのも面白いし、卯年七月(安政2年、1855年)の印から発行年が類推される。当時の無名の「イせ芳」は「蔦重」をしのぐ作品を発行していたのかもいれない。

 また、田中聡(太田記念美術館)氏によれば豊国の描く役者たちは時代の最先端の写実的でスタイリッシュであり、歌舞伎ファンたちが「こうあってほしい」姿を描くものだった。江戸庶民は、アバンギャルドで先鋭的な写楽よりも、豊国の方を支持した。歌川派は江戸の浮世絵界の主流へと成長し、ナゾの絵師として登場し、ナゾのまま消えていった写楽とは対照的な存在だった、という。

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[素晴らしき日曜日]の行方

2025-05-24 23:07:06 | アート・文化

 初期の黒沢明監督のDVD映画「素晴らしき日曜日」を観る。戦後すぐの1957年公開の作品。したがって、焼け跡やドヤ街も背景に出てくる。「国鉄」ができる前の満員電車も出てくる。まばらに開店しているシンプルな商店や動物園・公園も戦後らしい。だから、本作品は往年の黒沢作品の目覚ましいテンポからすれば、きわめて地味である。脚本は植草圭之助。黒澤明とは小学校の同級生だった。音楽は服部正、聴きなれた曲が流れるが曲名がわからない。主演の沼崎勲は、有名俳優になったが、「東宝争議」に巻き込まれパージにも会い、その後独立プロで活躍していたが過労で37歳の若さで逝去。恋人役の中北千枝子は、名脇役として映画・テレビ・CMで活躍。

 

 久しぶりのデートをした二人だが、金がない。貧しくも夢や希望を捨てずに生きていこうとするが現実に直面する。挫けそうになるトラブルばっかりが続く。草野球をやっていた少年たちのだぶだぶの服装はオラの少年時代にそっくり。また、主人公のアパートは雨漏りするのもわが少年時代と符合する(実は今住んでいる古民家もいまだにそうなんだが)。そんななか、二人で行けなかった「未完成交響曲」演奏会を二人だけで野外音楽堂(日比谷だろう)でエアー演奏を楽しむこととなる。そんな一日の長ーい「日曜日」だけの映画だった。

 

  戦後のどさくさで希望を持つことは至難の業だったが、希望はないわけではない。そんなメッセージを黒沢監督は静かに誓ったような作品だった。起用している主演俳優はその後の映画には出てこないが、今後の黒沢映画の地歩を固める作品として位置づけられるに違いない。若き黒沢の感性がにじみ出た作品だった。それは今日の日本の現実を問う作品であることにも変わりはない。

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花吹雪のこの場所はどこかー !!

2025-05-15 20:42:47 | アート・文化

 それは団扇(ウチワ)仕様の役者絵だった。左のいなせな侍が三代目尾上菊五郎(1784-1849)。彼は、市川團十郎(7)・岩井半四郎(5)・松本幸四郎(5)ととも町人中心の「化政文化」の黄金時代を担った千両役者だった。とりわけ、幽霊や妖怪から突然美男美女に早変わりする仕掛けはおおいに観客を喜ばせた。しかしながら、その絶頂期に芝居をやめ餅屋を営業する。同時に植木栽培でもプロ並みの能力を発揮。その後、舞台に復帰するが、掛川で客死し今もその墓がある。

 右の女形が二代目岩井粂三郎(1799–1836)、のちの六代目岩井半四郎。彼は瀬川菊之丞とともに若手女形の双璧をなし、父の五代目半四郎の女形を見事に引き継いだ。しかし、人気が高揚しているさなか若くして39歳で病没。

 

 見にくいが、粂三郎(クメサブロウ)の頭の頭巾には岩井家・大和屋の家紋の留用具(三つ扇)を発見。またよく見ると、外側の着物の縞模様には、「井〇井」=井輪井、つまり「岩井」家を表象しているロゴと見た。こんなところにさらっと裏情報を忘れないのが役者絵でもある。この重厚な着物に派手な綸子(リンズ)らしき朱色の打掛を装った色遣いは、画面をあでやかに染めている。

 

 ところで、この花見の場所だ。江戸の人はすぐにわかった。表題の「不二都久葉阿以々傘」(富士・筑波相合傘)が見える場所ということでもわかるが、大きな石碑が右に見えることで、ここは「飛鳥山」であると江戸庶民は理解した。

 そこは将軍吉宗が鷹狩りの際にしばしば訪れ、1720年から翌年にかけて山桜の苗木の植栽を命じ1270本ともなり、この頃から江戸庶民にも開放され、通年で行楽客が賑わうようになった。この碑文は、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを喧伝したものだが、すべて漢文からなり異体字や古字などが駆使され、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、「わからない碑」としてよく知られている。

 

 画家は、「香蝶桜国貞(コウチョウロウ・クニサダ)」。「香蝶桜」の名は、香りがよくて花弁が蝶に似ている桜もある。ただし、国貞は絵の師匠だった「英一蝶(ハナブサイッチョウ)」の「蝶」の字を使っている。その後、「三代豊国」となり、幕末の浮世絵界最大の勢力を成した。

 なお、「相合傘」のもう一つの仕掛けは、背景があえて藍色を多用しているところだ。また、ワラビの家紋が見える花見の幕が見えるが、当時の人はそれが誰であるかはきっとわかったに違いないが、残念ながら解明できなかった。役者絵の解読はなかなかの曲者である。

 

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黒沢監督との初めての出会いが始まった

2025-05-02 21:27:40 | アート・文化

 以前、映画「七人の侍」を観てからそこに黒沢の哲学を観た。またその映像手法の見事さ・音楽の効果などすべてにほだされて、黒沢監督の古いDVDを観ることにした。その一つが、1948年公開の「酔いどれ天使」だった。冒頭のシーンは、主人公の医師(志村喬)の診療所前に広がる暗いヘドロ沼から始まる。それは、焦土と化した敗戦の日本の出発点を象徴する怪しさだった。

   (画像はgooブログwebから)

 それを肉体化したのが、チンピラヤクザ役の岡田こと三船敏郎だった。そのギラギラした生命力に黒沢は惚れ込んだのだろう。それが黒沢と三船コンビの誕生だった。それに、志村喬も初の主演であるのも、これからの黒沢マジックの出発点に違いない。それにしても、三船敏郎の若いイケメンぶりに驚愕する。

   (画像はナタリーwebから)

   粗削りな三船の魅力を心もとない予算・資材・スタッフで膨らませていく過程の映画がこの「酔いどれ天使」だった。デビューまもなくの三船敏郎のダンスを見られるのも意外性がある。戦後の復興期でみられる闇市のどさくさや雑踏は、軍国イデオロギーのたてまえに躍らせられていた日本の、本音からの「生きる」だった。その意味で、矛盾だらけに咆哮するヤクザ・岡田の姿と日本がダブる。

   (画像はポプラ社webから) 

 そこに、ギターの哀調がスラムやヘドロ沼に響き渡る。それでも、笠置シズコの「ジャングルブキ」という賑やかでパワフルな歌がその哀調を覆す。作詞・黒澤明、作曲・服部良一という破天荒なブギによって、敗戦の現実を吹き飛ばす。また、ワカモト製薬の胃腸薬「ワカフラビン」の広告看板が何回か大写しにされたが、それも当時の場末の生活臭を醸し出していた。

 

 こうして、黒沢映画は戦後日本の復興とともに次々傑作が生まれていく。その意味で、本作品はその出発点ともなる記念碑的な結節点となった。それで、本作品は第22回キネマ旬報ベストテン第1位に選ばれている。志村喬の頑迷な正義感は、若き黒澤明の現状に対する怒りでもあった。それは、戦争の加害者責任が吹っ飛び、欲望と金に走る人間の姿の告発でもあった。それはいまだに清算できていない日本の姿だった。だから、現在の殺人も詐欺も自殺も多発していく理由もそこにある。

 しかしながら、結核が完治し高校の卒業式を終えた女学生役の久我美子の初々しさが、これからの日本の「発展」を暗示させた終わり方をしている。そんな願いがこもったヒューマンな作品だった。

 

  

  

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