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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

売れる本しか刊行できない出版システムを打ち砕く

2025-07-18 01:19:23 | 読書

 わが先達の作家・高尾五郎さんが自費出版で刊行した『三百年かけて世界を転覆させる日記 1』(発行所・草の葉ライブラリー、印刷製本・amazon)を読む。

 アメリカの代表的な詩人・ホイットマンは、詩集も売れず、困苦の中の仕事に従事しながらも、既成の概念や現実にとらわれない発想と行動とで、「アメリカの一つの精神の核」を構築した。日本にも夏目漱石がホイットマンを紹介したり、有島武郎がその詩集を翻訳したりして、白樺派の文芸運動にも影響していく。

  ホイットマンの「言の葉」に刻まれた魂や行動力に惚れ込んだ高尾五郎さんは、そこに表現された雄渾な世界を「草の葉ライブライー」として自前で刊行して受け継ごうとしている。しかしながら、ホイットマンの詩が読まれなくなり、ホイットマンの詩が消えていっている現実がある。スマホの発展にもかかわらず、それは言葉の力がどんどん衰弱・劣化し、いまや言葉の受難の時代に陥ったのではないかと高尾五郎さんの「日記」は憂慮に満ちている。

  五郎さんが作家生活の拠点にもしていた信州のあちこちには、芸術家や社会運動家らが残した痕跡が残っている。雑誌『展望』の初代編集長の臼井吉見が『安曇野』という明治から昭和に活躍した当時の著名な文化人・政治家・社会運動家らが安曇野を舞台に登場する大河小説がある。全5巻を読むのに手間取ったが、これを読むだけで当時の閉塞の歴史とそれに抗する良心的生きざまが克明に描かれてえらく感動したものだった。そして、「臼井吉見文学館」も建設されたが、訪れる人はまばらだという。また、その近くには松下村塾に匹敵する「研成義塾」を起こした「井口喜源治記念館」がある。ここも安曇野に訪れる数十万人の観光客には知られていない。 最近では、小さな美術館さえも閉館されたという。

  同じように、理論社を設立して、灰谷健次郎ら創作児童文学の旗手を育てたのをはじめ、倉本聰の「北の国から」のシナリオを刊行をなした小宮山量平のミュージアムも閑古鳥が鳴いている。そうした文化的惨状に対して五郎さんは、「いくら斬新な洒落た文化施設があちこちにたっても村は少しも美しくなりはしない。村が美しいということは、そこに住む人々がどれだけ輝いているかなのである。文化というものは人間を輝かせることなのであり、文化を起こすということは、人間の輝きで村を美しくするということなのだ」と、担い手側への批判の矢も忘れない。

  「敗北だらけの人生だけど」とつぶやく五郎さんだが、変わらない日本の現状批判だけではなく、同時に、それはホイットマンや小宮山量平らの信念の人や、商店街の場末で喫茶店を出会いのコミュニティにしている平川克美さんや地域雑誌「谷根千」の山崎範子さんらの「地域に生きる人へのまなざし」の美しさをたびたび紹介している。そのひたむきな思いと行動とは地域と人間と社会とをゆるやかに振動させる希望があるという視点だ。これは意外に盲点だ。マスコミもそれを持続的にとりあげていくのが難しい。

 

 

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「梅シロップ」で灼熱地獄を乗り切る

2025-07-15 23:06:23 | 農作業・野菜

 先月中旬、急遽近隣から梅をいただくことになった。1本の梅の木から段ボール2箱分くらい収穫させてもらう。いつもだと「梅肉エキス」や「梅干」用にと多めに収穫するが、作業の大変さやこちらの高齢化のために、今年からは「梅シロップ」だけを作ることにする。

 

 さいわい、傷も病気もないきれいな梅であり、労力軽減のおかげで順調な「梅仕事」となった。まずは、水洗いしてよごれやごみを取り水気を拭う。へたを取るのや容器のアルコール消毒などと細かい作業が続く。氷砂糖と梅を交互に瓶に入れていき、まずはひと段落。

   和宮様は毎日様子を見ながら氷砂糖の解け具合によって瓶を傾けたりして楽しみなご様子だ。およそ、10日くらいすぎると氷砂糖も見えなくなっていく。長く放置してしまうと発酵が進みアルコール味が強くなってしまい、味が梅酒になってしまうので、やはり日々の観察が大切だ。

 

 梅がしわくちゃになるとそろそろ取り出す合図となる。梅を容器から取り出してシロップだけを鍋に移し入れ、弱火で沸騰しないよう加熱してアクを取り除き、 冷ましてからペットボトルなどに入れたら梅シロップの完成だ。残ったしわしわの梅は畑の隅に投下して栄養ある有機肥料にする。もちろん、梅ジャムにしてもいいがもうこの暑さは待ったなしだ。 

  

 ついにできあがり。大小合わせてペットボトル7本分はできたろうか。さっそく試飲してみるとごくごくと飲みほしてしまう。そこに、炭酸や氷を入れればさらに旨味と冷たさが充満する。これで、この灼熱列島と熱中症から身を守り、再び大地に向かっていく、というわけだ。

 マスコミはエアコンの使用法をたびたび喧伝するが、エアコンもない人にはエアコンを買えというわけか。それは「都市の論理」だ。エアコンがないわが家は昭和の扇風機とアイスノンで大脳と身体を回復し、冷えた梅ジュースの一杯で夏を乗りきる。

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プラントハンターの密命は

2025-07-12 10:17:51 | 読書

  幕末に日本にやってきた英国のプラントハンターのロバート・フォーチュンは、訪日前に中国で歴史的な密命をやり遂げた跡だった。当時、イギリスの綿をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへという「三角貿易」で、イギリス経済は巨万の富を帝国にもたらしていた。アヘン戦争(1840年)勝利でイギリスはさらに未踏の中国市場を飛躍的に拡大していくことになる。

  

 中国奥地に外国人が侵出するのは命がけだった。プラントハンターの若きフォーチュンは、「ロンドン園芸協会」から中国行きを命じられ、貴重な茶をはじめとする植物の苗と種を入手する密命を受けていた。彼は高級官僚服と辮髪をもって変装し、未知の国での採集を命がけでしていく。そんなドキュメンタリーを描いたのがサラ・ローズ(訳・築地誠子)『紅茶スパイ』(原書房、2011.12)だった。

 

  著者は、フォーチュンの果たした役割を次のようにまとめている。

 1 彼が東洋で発見した植物は、新種を含め数百種に達した

 2 緑茶と紅茶は同じ茶の木からできることを証明し、リンネ分類を訂正させた

 3 中国人が毒性の着色料で緑茶を染めて販売していたことを暴露し、英人の健康を回復させた

 4 当時、植物の苗や種の移送がことごとく失敗していたなか、彼の実験を経たやり方で成功させた

 5 彼が移送したインド産の茶は質量ともに中国を上回るようになり、大英帝国の利益を産み続けた 

 6 山間の茶畑からイギリスの家庭に到着するまでの生産・物流・販売システムのすべてを変え、贅沢品だった 茶を安価にし、大衆化させた

  

 本書を読むきっかけは、フォーチュンの『幕末日本探訪記』を読んだことで、植物だけでなく政治経済・文化・庶民などの分析の正確さに驚いたことだった。それは訪日の宣教師が逐次日本の情勢を自分の国に報告していた諜報活動と似ていた。彼らの中心人物は宗教の布教だけでなく相手の国を植民地化する尖兵でもあったという視点を忘れてはならない。キリシタン大名も敬虔な信者らも結果的には利用されていたわけだ。

 

 著者のサラ・ローズは、「フォーチュンが中国から茶の種や苗木を盗み出したとき、それは保護貿易上の秘密を盗み出した、史上最大の窃盗だった。彼の活動は現在なら<産業スパイ活動>とみなされ、センセーショナルに扱われたことだろう」と、終章で指摘している。

 フォーチュンは有能な植物研究者であるとともに、その経済的利益や効果をもふまえた視点を持っていたことで、結果的に大英帝国への莫大な利潤に貢献したのは間違いない。それをやり抜く胆力はまさに「ゾルゲ」並みの精神力であることを感じ入る。 

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「半白キュウリ」が主流だった

2025-07-09 11:22:18 | 農作業・野菜

 キュウリを毎日のように収穫する。ときどきカラス軍団が襲来する。近くのナスは収穫直前にすべて盗まれてしまった。今年初めて植え付けたのが農協で苗を購入した白っぽいグラデーションのある「半白」キュウリだった。それも、節ごとに実をつける多収穫のうえに病害虫に強いという「節成」キュウリだった。

 

 半白キュウリは、江戸時代以前に日本に伝わった華南系キュウリが元とされ、大正初めには東京府内馬込村で「馬込半白」が育成され、明治後半には「半白節成」を誕生させ、ぬか漬けやサラダに人気があった。関西でも「馬込半白」系キュウリが主流だった。

 

 昭和中期ぐらいまでは一般的に流通されていた半白キュウリは、現在では生産量が少なく、今ではスーパー店頭ではほとんど見かけない。しかし、わが家で収穫した半白節成キュウリの塩こうじ漬けは実にうまい。パリッとした食感と瑞々しさがたまらない。しかし、緑一色の画一的なキュウリイメージにいつの間にか全国が汚染されちゃった。その原因は日本の構造的な体質にあるように思えてならないが。

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せつない黄昏を超えたいものだ

2025-07-04 21:33:26 | アート・文化

 数日前、雷が鳴り出し突然雨が降りしきる。そんな不安定な天候が続くなか、ひさびさDVDの映画を観ることにした。ウィリアム・ワイラー監督の米映画「黄昏」だ。1952年公開の作品。原作は1900年に出版されたセオドア・ドライサーの小説である。したがって、当時のアメリカの失業の深刻さも背景にもなっている。主人公役のオリビエやヒロイン役のジョーンズもそれにより追い込まれていく。

  堀田写真事務所webから

 一流レストランの支配人をやっていた主人公は、妻子がありながらヒロインにおぼれていき、結果的に乞食同然の孤立暮らしに陥る。いっぽう、不遇だったヒロインは劇場の女優として仕事を得てから主役に抜擢されるなど脚光を浴びた優雅な暮らしとなっていく。

 劇的なストーリーの映画化は戦後復興をめざした日本にも反響を及ぼしたようで、1950年代の電車の中吊り広告はそんな味が沁みている。

 

 「ローマの休日」や「ベンハー」など、ハリウッドの黄金期を支えたリベラルなワイラー監督だが、主人公が自殺するような最終場面について、当時のアメリカの世相からパラマウント映画社の政治的判断でカットされたようだ。主人公はヒロインからもらった財布からお札ではなく一枚のコインだけもって楽屋を出ていく。その際、ガス栓をひねったが躊躇したところに主人公の絶望の哀しみが伝わってくる。思うようにいかない人生の行路は、とくに恋と失業との陥穽を考えさせる名作となった。

 

 

 

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変わらぬ宗次郎のオカリナの音色

2025-07-01 22:35:18 | アート・文化

 冷房がきかないマイカーで初めての会場・菊川市の会場に向かう。数十年ぶりとなる宗次郎のオカリナコンサートだ。しかし、ナビが関係ない所を案内してしまい、いろいろ試してなんとか時間前にたどり着く。

 

 会場の「菊川文化会館アエル」は、外側からは建物の概要は見えない仕組みだった。森から入り口に踏み込むとそこは中世のヨーロッパの城に迷い込んだような錯覚を催す。回廊の中央には野外劇場や物産のイベントができるような広場があり、そこから大ホールや各会場に向かうが、オラのような初めての異邦人にはどこへ行けばよいかためらうが、好奇心をたぶらかす装置が稼働する場所でもあった。

  

 日本の物かどうか迷う不思議な灯篭のようなものが庭にあった。彫り物は龍のようだった。もう少し探検したいが時間がない。魅力的な会場や細かい仕様が気になったが、ホールに参加者が並びだす。あわてて座席を探し、演奏を待つ。宗次郎は昔と変わらないスタイルと顔でいくつものオカリナを駆使していく。オカリナを日本中に広めた宗次郎は、中国・台湾公演が終わって間もないというタフガイだった。話術が上手になっていた。

 

 NHKで「大黄河」という番組のテーマ音楽に誘われ、オカリナの演奏をやってみた。10本くらいは保有していたほど熱中はしたものの、楽譜が読めないうえに指の関節の病もあり、しばらく楽器はお蔵入りとなってしまった。

 宗次郎の演奏は、音の確かさがさすが透明な空気感を誘う。オラが吹くと音が変調したり、ツバが溜まって音が出なくなる。宗次郎にはピアノとギターとの伴奏があったが、音響のせいか伴奏はオカリナの魅力を半減させている気がした。やはり、単独の音色の孤高さが森や高地を産み出していく気がしてならない。伴奏は前面に出てはならないのだ。黒子に徹する控えめさが必要に思う。これをきっかけに、わがオカリナ演奏は再開するといいが、あまりにも現状のスローライフは忙しい。

 

 

 

 

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「女形」と言えばやはり…

2025-06-27 00:12:39 | アート・文化

 1806年(文化3年)、中村座で上演された「京鹿子娘道成寺」の役者絵を見た。「道成寺」は、大宝元年(701)創建で和歌山最古の寺という。 寺には、「道成寺縁起」が残されており、清姫安珍の恋物語が有名だ。清姫は寺の鐘の中に隠れた裏切った安 珍を、大蛇となって巻きついて恨みの炎で焼き尽くす、という伝説がある。
 この「縁起」をもとに能や歌舞伎の公演につながり、清姫の霊の白拍子を主人公とした歌舞伎は、女形舞踊の魅力が最も発揮され、坂東玉三郎と尾上菊之助という当代最高の「女形」が競演した「二人道成寺」は、近年の名舞台と評価されてもいる。

  役者絵の着物の両脇あたりに、「大」の漢字を三点つなげた「大和屋」の家紋がさりげなく描かれている。それで、当時の庶民はこの「女形」は三代目坂東三津五郎であることを了承する。この頃から、坂東家は女形が十八番となっていく。

  この坂東三津五郎の着物の柄は、流水に流れ散っていく桜のデザインが凝っていると同時に艶やかだ。鹿の子模様もちらりと内輪に散らしている。さらには、黒い帯にはいろいろな家紋のようなロゴを6個も描いている。ひょっとすると判じ絵のような暗示的なデザインかといろいろ考えてみたが、結論は出ず。なぜこの模様なのか、意味があるはずだろうがわからない。

  なお、版元は、川口屋宇兵衛(福川堂)。検閲印の「極」は1個のみで、文化文政時代であることが判る。寛政の改革で蔦屋重三郎や山東京伝が逮捕されて間もなく、町人の経済力から町人文化が活発になることで、江戸歌舞伎も頂点に達する。そのことで、女流の演奏家・アーティストも多く登場していく。

 

 なお、役者絵の作者は、当時歌麿・写楽より人気のあった歌川国貞(三代豊国)。女形の衣装が踊りとともに変わっていくところが見ものだったという。江戸時代の女性の被り物に「揚げ帽子(あげぼうし)」があり、武家や富裕な町人の女性が外出時の塵よけとして用いたもの。 形が蝶に似ているところから揚羽帽子(あげはぼうし)とも呼ばれる。のちの、花嫁の「角隠し」になったという説もある。

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地元で発見されたアジサイの花が咲いた

2025-06-24 22:15:45 | 植物

 地元で発見されたというアジサイの新品種「三河千鳥」に花が咲いた。以前、友人から「<三河千鳥>というアジサイが旧家で発見されたが、地元の人は知らないみたいなので育ててみませんか。これを広めて町おこしができるといいんだけど。」という連絡があった。

 育てるのはもともと苦手だったので口を濁していたが、あるときその品種を育てている人がいるのをネットで知る。さっそく、取りよせて育ててみることにした。どんな花が咲くかわからなかったが、二年目にしてやっと見事に咲いてくれた。しかし、花全体が手毬状に咲くはずだけど、本種はガクアジサイのようになっているので、ミカワチドリではないのではないかと疑念が湧いてしまったが、どうなのだろうか。

 

 葉っぱの小ささから、「ヤマアジサイ系」であることはわかっていたが、たしかに派手ではなかったがほんのりしたピンク色の花が素朴だった。

 いわゆるホンアジサイは両性花(雄しべと雌しべある花)がなくて、装飾花だけの手毬咲きだけど、三河千鳥は逆で両性花だけで手毬咲きになるという珍しい品種だという。

 

 藤田多喜子さんが静岡県浜松市春野町の民家で発見し、藤井清さんが“三河千鳥”と命名したという。しかし、三河は愛知県なので、場所的には静岡の山間部なので「遠州千鳥」という命名のほうが自然な気がする。

 

 こういう手毬状が本当の姿らしいが、開花を失敗したのだろうか。来年を待つしかない。

 

 

 

 

 

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茶を世界に広めたプラントハンターの慧眼

2025-06-20 22:28:09 | 読書

 幕末には世界から日本の珍しい植物を獲得する外国の「プラントハンター」がやってきた。その中でも、ロバート・フォーチュンは中国の茶をイギリスに広めたことで有名だ。その彼が幕末日本とその植物を冷静に観察した三宅馨・訳『幕末日本探訪記』(講談社学術文庫、1997.12)を読む。

   初めて長崎に入港したフォーチュンは、「その全景は、言ってみれば、人間の勤労と、大自然の造化の力が渾然と解け合った、平和で魅力的な絵画そのものであった」と感激し、在住のシーボルト博士に会いに行く。

 

 さらに氏は、「日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。…もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優って見える。」と、大国の傲慢さではない謙虚さで未知の国を分析している。

 

  そのうえさらに、ソメイヨシノで有名な染井村では、「私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。」と驚きを隠さない。また、「ヨーロッパ人の趣味が、変わり色の観葉植物と呼ばれる、自然の珍しい斑入りの葉をもつ植物を賞賛し、興味を持つようになったのは、つい数年来のことである。これに反して、私の知る限りでは、日本では千年も前から、この趣味を育てて来たということだ」として、大量の植物を購入していく。

 

 駐日外交官のハリスが「日本の人びとが自国の進歩に有用なことが判ると、外国の方式を敏速に採り入れる」との言葉をとりあげて、「シナでは<古い慣習>が、あらゆる外国品輸入の防壁となるが、日本人は先進文明を示されると、機敏に採用する」と、フォーチュンは日本人の進取な国民性を評価する。それはまさに、古来から中國という大国からあらゆる文化を導入してきた「学ぶ心」が日本のエネルギーと言っていい。それはまた、日本の文化のほうが遅れていたということがバネになっているからとも言える。

   本書は、植物だけでなく日本のあらゆるモノやしくみや外交にも注視している。フォーチュンは中国のお茶をイギリス社会に広めていく立役者ともなっていくが、漫画やドキュメントでフォーチュンは密命を受けていたという本もある。シーボルトと同じだね。

 攘夷で外国人が殺された現場も見てきたフォーチュンは日本礼賛ばかりでなく、それ以降警戒を隠さない。後半の中国旅行記はおまけのようで無くても良いような構成でもあった。アヘン戦争で中国の一部を占領したイギリスへの遺憾の情がないのが気にかかった。

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飢饉を救ったジャガタライモ

2025-06-17 22:04:46 | 農作業・野菜

 ジャガイモをヒョイヒョイ収穫している。今月上旬にはまだ小粒だったジャガイモが最近は程よい大きさに成長しているのがわかった。小粒のジャガイモは蒸してから定番のマヨネーズで食べたり、煮っころがしで甘く沁みわたったレシピが定石となった。これだけ小さいのは商品にならない「わけあり」野菜だが、有効にわが体内に吸収されていった。

 

 毎年楽しみにしている品種は、赤い「アンデスレッド」と中身も紫色の「シャドークイーン」だ。味も見た目もさらにはポリフェノール含量も優れている。この品種はなかなか売っていないので種にするジャガを確保して、2月ごろ植え付けている。また、近隣にもお裾分けしていて手元には足りないくらいとなっている。

 

 また、果肉が黄色い「キタアカリ」も収穫量も多く、甘みがある優れものだ。キタアカリは北海道農業試験場が育成したもので1987年品種登録された。ちなみに、北海道の収穫量は全国の79%を占めている。

 わが国にジャガイモが伝わったのは関ケ原の戦いがあったころ、オランダ船がジャカルタのジャガイモを持ち込む。天明の大飢饉(1782年)があったとき、甲府の代官・中井清太夫が九州から取り寄せ広めることで多くの人命を救う。このことでジャガイモは「清太夫芋」とも言われた。こうした善政をした歴史上の人物をもっともっと評価すべきだとつくづく思う。

 

 さらに、洋学者の高野長英が天明から半世紀後の天保の凶作の中で、ジャガイモを救荒作物として普及に尽力したのも特筆したいところだ。そんなわけで、酷暑が続く列島だが、中井代官や高野長英らの奮闘に感謝してホクホクのカレーライスをいただくことにした。毎日、カレーでも飽きないぜよ。畑にはまだ「男爵」や「インカのめざめ」などが待っている。来年はどこに植えようか場所がないのが問題だ。連作障害が心配でならない。

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佐藤君が16年かけて産み出したサクランボ

2025-06-15 22:38:31 | できごと・事件

 昨年に引き続き、娘から父の日に贈り物が届いた。ふだん、なかなか果物に手が出ないわが家のエンゲル係数を知っているようで、山形の「サクランボ」が届いた。有名な「佐藤錦」だった。1922年(大正11年)、山形の佐藤栄助さんが16年かけて完成させた品種だ。おかげで、国産シェアの7割が山形で、その7割が「佐藤錦」というからその功績は偉大と言うしかない。全農山形が6月6日を「山型サクランボの日」に制定している。

 

 箱を開けてみたらサクランボのデザインがなかなかしゃれているのに感心する。しかも、黄色のカーネーションと手作りの葉っぱの折り紙が添えられていた。こんなところに生産者の心意気が反映されていてうれしくなった。さっそく、食べだしてみる。

 

 国産サクランボの代表格の「佐藤錦」らしく、その原点の味が伝わってくる味だった。最近ではどんどん糖度があがってきてアメリカンチェリーのような味が多くなってきているが、この「佐藤錦」は甘さと酸味がほどよく調和している。

 

 そのためか、手が動いたままで止まらない。あっという間にひと箱を食べてしまった。以前、サクランボの苗を二回ほど植え付けたがい ずれも失敗している。シカも好物なので新芽や枝はすぐ食べられてしまう。もちろん、他の害獣たちには絶好の好物でもあるのでその対策を配慮しないと道は遠い。その意味で、冬越しをはじめ山形の生産者の方の苦労は大変なものだと思う。そんなことを思いながらお替りに手が出そうな欲望をこらえている現在でもある。

 

 

 

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珍しく豊作になった

2025-06-10 23:28:48 | 農作業・野菜

 一時、ブロッコリーが500円前後の高騰でニュースになったことがあった。そこで、栄養価も高いブロッコリーを畑で育てようとあわてて栽培してみた。それからはいつものように放任栽培となり、先日様子を見てみたら結構立派な実がなっていたのでびっくり。合計すれば20個はできたと思われる。いつもであれば、半分できれば上々のはずであるのに。さっそく、いつものように近隣に次々おすそ分けとあいなる。これで食品ロスは解消され、わが体内にも消化され大満足となったわけだ。

  

 そうして、料理に興味を注いできた和宮様が「簡単なブロッコリーレシピがありましてよ」と、茹で卵和えを自ら調理してくださった。そこに、マヨネーズ・黒コショウ・粒マスタード・コンソメ・カレー粉・醤油が加わっている。さっそく、新鮮なブロッコリーをはじめそれぞれの調味料のオーケストラが口中に広がる。気がついてみると、完食してしまっていた。茎も食感がコリコリして快い。

  さらに、その隣に「春菊」の花が咲き乱れていた。春菊の苗が半額で売っていたのでそれを植えたところ、次々花が咲いてしまったというわけだ。柔らかい葉を食べるどころか見事な花の爛漫を楽しめたわけだ?? それを生け花として玄関やトイレに飾ってみたら、花の持ちもよく意外にイケると居直った次第である。オラのぐーたら栽培は要するに居直り栽培でもあると悟ることともなった。

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團十郎の敵は祖父の團十郎だった

2025-06-06 22:14:39 | アート・文化

 市川團十郎どおしのにらみ合いが見事に表現されている役者絵に出会った。

それは、曾我十郎・五郎の兄弟が、鎌倉時代の建久4年(1193)、源頼朝が催した富士山麓での御家人との巻狩り(今でいう軍事演習)で、父の仇である工藤祐経(スケツネ)を討った仇討ちの作品である。それ以降、歌舞伎や文学の世界で一大ブームを起こした「曾我物」。

 演目としては、「寿(コトブキ)曽我の対面」、通称「曽我の対面」と言われ、巻狩りの総指揮官に任命された工藤祐経の祝賀に曽我兄弟が対面するというシーンだ。江戸歌舞伎では、非業の死を遂げた曽我兄弟の登場する作品を鎮魂をかねて毎年正月に上演している。

 

 五代目團十郎(1741-1806)は、役者絵の円形の「駒絵」にある工藤祐経役。江戸歌舞伎の開花期の担い手として、荒事・実悪・女形など多様な演技ができそのおおらかな芸風に人気があった。また、俳諧・狂歌などにも造詣があり文化人とのつきあいもあった。

 七代目團十郎(1791~1859)は、曽我五郎役。江戸歌舞伎の絶頂期の中枢に位置し、庶民文化の爛熟期でもあった文化・文政期に活躍。四谷怪談の伊右衛門のような「色悪」役のような強烈な男気で話題をさらい、市川家を「荒事の本家」にまつり上げた。しかし、二人の妻と愛人3人との家庭内もめごとや豪邸での華麗な暮らしぶりに対して、天保の改革のあおりを受けて江戸追放となったことでも有名。人気絶頂から奈落に落ちた波乱万丈の生涯だった。

 

 1855年(安政2年)に出されたこの役者絵のバックには、地味な色合いの牡丹の花が五郎・七代目の華麗さを引き締めている。甲府盆地をのぞむ市川三郷町には、市川團十郎家発祥の地があり、歌舞伎文化公園がある。そこには團十郎家の紋(替紋)の牡丹にちなんで、ぼたん園があるだけにこの絵はじじつじょう團十郎宣伝のポスターともなっている。

 曽我十郎と五郎と特定できる着物の模様がある。それは、二人が富士山麓の巻狩に乗じて陣屋へ討入った際に着ていたのが、千鳥(十郎)と蝶(五郎)のデザインで、曽我兄弟といえば千鳥と蝶の模様を描くことが一般化している。したがって、五郎の七代目團十郎の衣装はやはり派手やかなアゲハ蝶模様である。

 

 また、五代目團十郎の衣装には、工藤祐経の「庵に木瓜(イオリモッコウ)」の家紋がしかと表現されている。それは藤原南家の流れを汲む由緒正しい武将の家紋である。祐経は、兄弟の敵であり悪を象徴する黒の着付けをしているものの、兄弟を思いやる「白塗り」の顔の心の広い人物にしている。

 いっぽう、五郎の七代目團十郎は白塗りの目元に「荒事」の赤の隈取りをしていることで、怒りで目元が血走る表情となっているところも対照的でもある。そしてその前衛的な「若衆髷」も見ものだ。

  

 豊国の充実した役者絵は一流の彫師「彫竹」の協力。版元は「イせ芳」だが、「伊勢芳」との違いはわからなかった。改め印も従来の印と微妙に違うのも面白いし、卯年七月(安政2年、1855年)の印から発行年が類推される。当時の無名の「イせ芳」は「蔦重」をしのぐ作品を発行していたのかもいれない。

 また、田中聡(太田記念美術館)氏によれば豊国の描く役者たちは時代の最先端の写実的でスタイリッシュであり、歌舞伎ファンたちが「こうあってほしい」姿を描くものだった。江戸庶民は、アバンギャルドで先鋭的な写楽よりも、豊国の方を支持した。歌川派は江戸の浮世絵界の主流へと成長し、ナゾの絵師として登場し、ナゾのまま消えていった写楽とは対照的な存在だった、という。

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防獣柵を初めて金網にする

2025-06-03 22:39:25 | 屋外作業

 いろいろ防獣柵を作ってきたけど、とくにシカの食害がひどいのでいよいよ金網でやることにした。さいわい、冬の防寒策で竹をかなり利用していて、大小あわせて百本以上は保有してあった。柵を横でつなぐアイテムとなる。支柱は130cmの長さで先端がとがった鉄棒である。これも買い足して30本近く確保する。シカ対策としてふつうなら2mくらいの高さが必要だ。隣家の耕作放棄地との境界は狭いうえにわが農園とガーデンの外縁には幅2mほどの伐根していない茶木が残してある。したがって、シカは助走出来ないので130cmくらいの長さの支柱は飛び越えにくいと判断したわけだ。

  

 茶の木の隙間からシカやイノシシが浸入するので、いろいろ隙間に障害物を置いてきたがなかなかそんなカモフラージュは一時的なものであるのは確かだった。ここに、軽い金網をセットすれば予定の敷地の半分は防御できることになる。まずはその周辺を草刈り機で雑草を駆除し、はみ出た茶の木を剪定する。これだけで二日はかかってしまった。何事も準備作業に半分の手間がかかるのが農作業だ。

 

 支柱と竹を結束してからいよいよ金網の設置となる。細い金網は外国製のようだった。網がナイロン製だと噛み切られることがあったので金網は安心だが、やや細いのが気になる。そんなことをブツブツ言いながら金網をアルミ伸縮針金で止めていく。これだけで二日間を要した。

 金網ひと巻きが20mだったが、あと5mくらいでこの片側の面が終了するはずだった。さっそく、次の金網を注文してひとまず終了とする。金網をセットする時間は多くはないが、茶の木の剪定とその処理にむしろ時間がかかった。これでしばらくシカの出足はやや遠くなりそうな予感がする。最近は隣の集落にシカが出没するようになったことで、防獣柵がどんどん増えていった。今までほとんど食害がなかったような国道に面したリスクの高い集落がターゲットにもなった。拠点だった山側のわが家から豊穣な畑へシカも開拓しはじめたことに、時代の変化を感じないわけにはいかない。

 

 

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[奇妙な果実]の衝撃

2025-05-30 21:40:34 | 読書

 2022年から始まったNHKの「映像の世紀バタフライエフェクト」をなるべく見るようにしている。普段のニュースでは掘り下げられていないような歴史的事象を取り上げている。この番組を見ていると、普段のニュースが当たり障りのない表面的なことにお茶を濁してしまうことが多いのがわかる。

 先日、1930年から1950年代に活躍したアメリカのジャズとブルースの黒人の歌姫・ビリーホリデイ(1915-1559)を特集していた。彼女の名前は知っていたがどういう人物かはオラはまるで無知そのものだった。そこで、ビリーが体験した人種差別やスラムの貧困・薬物中毒などの苦闘の人生を一部知ることで、とりあえずジョン・チルトン『ビリー・ホリデイ物語』(音楽之友社、1981.4)も読むことにした。

 

   大橋巨泉が共著で翻訳したビリーの自伝『奇妙な果実』にも興味があったが、記憶違いが散見されているようだったので、ビリーの詳細な事実を丹念に調べていたイギリスの著名なジャズ執筆家であり、トランペッターだったジョン・チルトンのドキュメントの本を安心して読んでみたというわけだ。

 しかし、音楽音痴であるオラには歌手や演奏者のカタカナの名前が次々出てくるのに閉口する。しかし、チルトンが演奏者だけに、ビリーのそのときの音声や感情、さらには共演者の演奏技術の精緻な分析をしているところには感心する。年譜がなかったのが惜しい。

 

 幼児期に虐待を受けたビリーはカトリックの養護施設に預けられ、その後母と娘は売春宿でも働くようになるが、14歳の時にビリーは放浪罪によって矯正施設に送られている。当時は、黒人と白人が一緒にいること自体が普通ではなく、ビリーもしばしば差別されていたことは言うまでもない。しかも、白人による黒人へのリンチ殺人も珍しいことでもなく、それを歌にしたのが「奇妙な果実」だった。

 作詞作曲はユダヤ人のルイス・アラン(本名はエイベル・ミーアボール)、それを、白人と黒人とが一緒にいられるジャズカフェを経営していたのがユダヤ人のバーニー・ジョセフソンだった。その店で、ジャズを歌っていたのがビリーだった。アランがジョセフソン経由でビリーに「奇妙な果実」を歌ってみないかと依頼したことで、歌ってみたら絶賛・反響があり、ビリーの代表曲となる。そして、それを大手のコロンビアがレコード化しようとしたが人種差別に逡巡し、結局零細な「コモドアレコード」店主のユダヤ人のミルト・ゲイブラーがレコード化することになる。つまり、三人のユダヤ人のネットワークで「奇妙な果実」は数十万枚のレコードを売り上げることとなる。

 その「奇妙な果実」の歌詞(訳=ビート・ウルフ)は次の通りだ。

南部の木は奇妙な実を結ぶ
葉に血が滴(したた)り、根は緋(あか)に染まる
南部の風に揺れる黒い躯(からだ)
ポプラの木に垂れ下がった奇妙な果実

気高く美しい南部の牧歌的風景
膨れ上がった眼と歪んだ口
甘く新鮮なモクレンの芳香
突然、鼻を衝く焼けた肉の異臭

果実は鴉に啄(ついば)まれ
雨に曝され、風に干上がり
陽に腐り、木から落ちる                                       この地に在る 奇妙で苦い作物

 1972年、『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』の映画が公開されると、サウンドトラック・アルバムは初登場から20週後に No.1に輝くロングセラーとなり、200万枚近くを売り上げる。『欲望という名の音楽』の著者・二階堂尚氏は「ビリーの声は一人ひとりが抱えるその悲しみを静かに震わせ、ビリーの言葉は人知れず忍ばれるその悲しみにそっと寄り添う。エンターテイメントは悲しみをいっとき忘れさせるが、アートは悲しみを美に変え、悲しみに向かい合う力を人々に与える。ビリー・ホリデイと「奇妙な果実」によって、ジャズはアートになった。狂気と騒乱の20世紀を代表するアートに」と見事に記した。

 ビリーが歌う「奇妙な果実」を聴いてみた。そこには、まさに「ブルー」な気分になるような哀しみが基調として流れていた。ある意味では演歌の哀しみと通じるものがあるが、その傷の深さを踏まえた歌い方だった。ブルースの吟遊詩人のように、感情移入に陥らず、殺された同胞を静かに鎮魂する歌い方だった。それは今ものさばるアメリカの白人至上主義者の本音を抉るプロテストソングであり、挽歌でもあった。そのころから、ロックやフオークソングが誕生していく。

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