わが先達の作家・高尾五郎さんが自費出版で刊行した『三百年かけて世界を転覆させる日記 1』(発行所・草の葉ライブラリー、印刷製本・amazon)を読む。
アメリカの代表的な詩人・ホイットマンは、詩集も売れず、困苦の中の仕事に従事しながらも、既成の概念や現実にとらわれない発想と行動とで、「アメリカの一つの精神の核」を構築した。日本にも夏目漱石がホイットマンを紹介したり、有島武郎がその詩集を翻訳したりして、白樺派の文芸運動にも影響していく。
ホイットマンの「言の葉」に刻まれた魂や行動力に惚れ込んだ高尾五郎さんは、そこに表現された雄渾な世界を「草の葉ライブライー」として自前で刊行して受け継ごうとしている。しかしながら、ホイットマンの詩が読まれなくなり、ホイットマンの詩が消えていっている現実がある。スマホの発展にもかかわらず、それは言葉の力がどんどん衰弱・劣化し、いまや言葉の受難の時代に陥ったのではないかと高尾五郎さんの「日記」は憂慮に満ちている。
五郎さんが作家生活の拠点にもしていた信州のあちこちには、芸術家や社会運動家らが残した痕跡が残っている。雑誌『展望』の初代編集長の臼井吉見が『安曇野』という明治から昭和に活躍した当時の著名な文化人・政治家・社会運動家らが安曇野を舞台に登場する大河小説がある。全5巻を読むのに手間取ったが、これを読むだけで当時の閉塞の歴史とそれに抗する良心的生きざまが克明に描かれてえらく感動したものだった。そして、「臼井吉見文学館」も建設されたが、訪れる人はまばらだという。また、その近くには松下村塾に匹敵する「研成義塾」を起こした「井口喜源治記念館」がある。ここも安曇野に訪れる数十万人の観光客には知られていない。 最近では、小さな美術館さえも閉館されたという。
同じように、理論社を設立して、灰谷健次郎ら創作児童文学の旗手を育てたのをはじめ、倉本聰の「北の国から」のシナリオを刊行をなした小宮山量平のミュージアムも閑古鳥が鳴いている。そうした文化的惨状に対して五郎さんは、「いくら斬新な洒落た文化施設があちこちにたっても村は少しも美しくなりはしない。村が美しいということは、そこに住む人々がどれだけ輝いているかなのである。文化というものは人間を輝かせることなのであり、文化を起こすということは、人間の輝きで村を美しくするということなのだ」と、担い手側への批判の矢も忘れない。
「敗北だらけの人生だけど」とつぶやく五郎さんだが、変わらない日本の現状批判だけではなく、同時に、それはホイットマンや小宮山量平らの信念の人や、商店街の場末で喫茶店を出会いのコミュニティにしている平川克美さんや地域雑誌「谷根千」の山崎範子さんらの「地域に生きる人へのまなざし」の美しさをたびたび紹介している。そのひたむきな思いと行動とは地域と人間と社会とをゆるやかに振動させる希望があるという視点だ。これは意外に盲点だ。マスコミもそれを持続的にとりあげていくのが難しい。