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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

迂回路使ってはいるが

2025-08-12 23:33:36 | できごと・事件

 熊本での線状降水帯の大雨被害は人ごとではない。6月の大雨で近くの国道に土砂崩土があり、以来全面通行止めとなってしまった。迂回路が2コースあるので陸の孤島にはならなかったが、街への買い物や病院通いには山や悪路を越えていかねばならない。時間もずいぶん食うことになった。二か月前のことだが、大きなニュースにはならなかった。

 

 2012年の大雨では近くの川の濁流が何時もより数メートル高く増水し、民家への被害が心配された。もちろん、わが家の入り口前の道路は冠水し、突然の川となった。

 

 2022年の台風では、いつも買い物で利用する国道が陥没があり、片側交通となった。その後、復旧がすすみ現在は元通りとなったが、通るたびに安全を確認している。支流が合流する地点に軋轢があった場所のようだ。

  以前、土砂崩れで崩落した箇所での復旧がずいぶん時間がかかっていたが、2022年の台風でこの崖下と川とが接する補修箇所が水圧で新しいコンクリートブロックが再度流されたりして、やりなおしが続いた。

 こうした崩落現場の復旧作業は一年中見られるようになった。自然災害が多くなってきたことが感じ入る。その意味では、災害列島日本はやはり「防災省」のような専門機関が必要だ。

 

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実在の浪人が乱世の京を斬った!?

2025-08-08 22:46:34 | 読書

 前々から、日本人の生活文化を形成させたルーツは中世の室町・戦国時代だったというのが理解不能だった。戦乱あり、飢饉あり、権力機構頽廃という時代背景の中でありながら、能・生け花・書院造・茶道・作庭・連歌・水墨画・狂言・物語文学等など、日本文化の根幹となるような芸術が育まれていったことが不思議でならなかった。

 そんな時読んだのが、映画「羅生門」を思い出すようなどうしようもない歴史的空白があった時代を掘り起こした画期的な歴史小説でもある、垣根涼介『室町無頼 上・下巻』(新潮文庫、2019.2)を読んだ。その直木賞作家の作品が話題となり、映画化され、今年の2025年1月に公開されたばかりだった。が、残念ながらまだ見てはいない。

     (画像は小説丸webから)

 日本で初めて武士が一揆を起こしたという史実にもとづいた無頼たちの戦いが舞台だった。主人公の「蓮田兵衛」(映画では大泉洋)はほんの数行にしか史料に登場しない。それを当時の時代のまがまがしさを克明に漁った著者の苦闘が伝わってくる。作家の垣根さんの輻湊的な想像力とぐいぐい読ませる筆力はさすが直木賞作家。

 1461年、応仁の乱前夜の京。大飢饉と疫病が同時に発生し、川べりには死体が放置され、人身売買や奴隷労働が横行、たびたび土一揆も起きていた。

  そんな当世だからこそ、「この世のどこかに、氏素性や位階や富もない地下人や牢人たちが、堂々と顔を上げて闊歩していける一隅を創る。その魁となる。…それが、落ちぶれ果てた一族の末裔に生まれた道賢の意趣返しであり、ほのかな夢でもあり、暗い情念でもあった」。ということで、骨皮道賢(映画では堤真一)はならず者を掌握していたので、幕府の内側に食い込み、市中警護役に任命されていく。

 詳しい年表を見ると当時は、毎年のように農民や浪人との一揆が頻発している。8年間も国人や農民の自治が行われた有名な「山城国一揆」も起きている。兵衛らは、借金を棒引きしたり、安くするという「徳政一揆」だったが、暴利をむさぼる金貸しや米どころも民衆は集中的に襲った。

  いっぽう、各階層から人望のある自由人の蓮田兵衛は、密かに倒幕を画策し、一揆を立ち上がる時をねらっていた。そこに、著者は史実にはないスーパーヒーローとして棒術の天才・「才蔵」(映画では「にわ男子」の長尾謙杜)を創出し、戦乱を攻勢に切り開いていく。

 「主家をなくした牢人の末路など、どこにいても変わらぬ。居場所などない。わしも、おそらくは道賢も」と、兵衛は「自分の棲む場所、居場所」を求め続けた結果が虐げられた者とともに蜂起するという。このへんに、現代の格差社会や不条理な世界への著者の怒りが静かに高揚していくのがわかる。

  また、遊女(映画では松本若菜)の視点から、「彼ら共通に内在していたものは、独自な精神の格調だ」と言わせて、それは「その仕種や表情、言葉を見聞きした瞬間に、はっと胸を突かれるような…<甘み>のような」ものだと吐露させている。このへんの、掘り下げ方が大衆小説に堕しない作者の奥行きや「格調」が見え隠れする。

  この時代をきっかけに、武士どおしの従来の戦いから足軽が主要な戦力となっていく。さらに、戦士だった女性も戦場から撤退していく。その意味で、応仁の乱前後の歴史の空白から、新たな戦術が生みだされていく。

 そして著者は、和尚をさりげなく登場させて、人間の本質を「人は存外その不安に耐えられぬ。揺れ動く自分の半端な立場に我慢ができぬ。自分でじっくりと考え、事象をゆっくりと煮詰めて判断をせぬ。その孤独で苦痛な作業に音を上げ、たちまちしびれを切らす。是か非かの、安易な答えを示してくれる者に、群れを成して一斉に縋ろうとする」と、若い才蔵を諭す。ここにも、著者の冷徹な人間観がほの見える。それは今回の参議院選挙の結果や世相にもじつにマッチする。

  そんな中でも、日本文化の核心ともいうべき文化は醸成されていく。命がけで生きている武士らの心の置き所は、戦場とは違うホッとした空間に茶道や華道や能などを求めたのではないかと思われる。当時の混沌は和尚の語るなかからどういう救いが引き出されるのだろうか。道賢や兵衛や才蔵らが求めた行く末は自明の破滅ではあったが、揺るぎのない品格。格調でもあった。だから、かっこいいもう一つの生き方でもある。

 

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一瞬に見えた派手な模様だったが

2025-08-05 23:18:02 | 生き物

 毎日のように灼熱列島の熱線に当てられ、家で扇風機とアイスノンを抱えてごろごろしている。エアコンの利用をマスコミは喧伝するが、高齢者にはその冷気が体に合わないのだ。ときどき、電車や店舗の冷房にお世話になることがあるが、ずーっと浴びていると調子が悪くなる。古民家なので隙間だらけのためもともとエアコンはない。

 だもんで、夕方になって熱波が和らいだころ、重い腰を上げて農作業に取り掛かる。すると、滝のような汗の洗礼を受けて、シャワーを浴びて一日が終わる。そこへ、いつものように小さな昆虫がやってくる。きょうはいつもと違うぞ!!

   

 飛んでいるときに、黄色い模様が一瞬にして見えた。捕まえたが、なかなかその模様を見せてくれなかった。諦めて、解放してやろうとした瞬間、その見事な模様を見せてくれたので、あわててデジカメのシャッターを切る。調べてみると、「トビイロトラガ」(トラガ科)という蛾だった。トラガは畑でときどき遭遇する黄色と黒の虎模様が、翅や体に目立つ蛾でもある。しかしこのトビイロトラガは、見た目は怪しいいかつい黒男爵のようだが、危険を察知するとこの黄色い模様を見せるそうだ。ツタ科の葉を食べつくしてしまう大食漢のようだ。

 

 その近くに、25mmほどの「フトベニスジヒメシャク」(シャクガ科)もいた。V字型のベニスジが見事で先端がにじんでいるのが特徴だ。シャクトリムシの仲間。食草がイヌタデというから、かなりのシャクガがわが菜園を餌食にしているはずだ。

 

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天と地と水のように

2025-08-01 09:09:25 | 読書

 最近、英米文学者で老荘思想の詩人・加島祥造さんの訳詩を読み始めた。『老子道徳経』の原典を加島さんらしい超緩やかな口語詩で、わかりにくい老子の教えをかみ砕いてもらおうというわけだ。だもんで、『タオ・老子』(ちくま文庫、2006.10)を数十分くらいで読み終える。易しい口語詩だが、中身は哲学的なので何度か繰り返し読み返すのだけど。

 

 「Tao」という老子の生き方には、「無為自然」ということであり、まさに「水」のような変幻自在な柔らかさと強靭さと生命力与える存在だ。それを加島さんは次のように謳う。

  「水ってのは すべてのものを生かし、養う。

 それでいて争わず、威張りもしない。

 人のいやがる低いところへ、先に立っていく。」

 

 そうして、 「さらに君が 自分のなかにこのエナジーを たっぷり溜め込んだとする。 すると

 君の内なるパワーは 充実したものになる、 すなわち何にでも負けなくなるんだ。

 たとえば苦しみや悲しみなんかにね、そして どんな不測な事にも応じられるし

 どんな変化にも耐えられるようになる。 」と、人々を応援する。

 

  宇宙の根源や万物・自然の法則の流れに身をまかせ、あるがままに生きるとする「タオ(道)」は、不条理な現代にも問題提起できるものをもっている。紀元前から止まぬ中国の戦争と殺戮の戦乱の中で生まれてきた老子・荘子の思想は、今でも生きている生き方でもある。

 

 『老子道徳経』の81項目の切り口から解く加島さんの口語訳のおかげでずいぶん老子との距離が近づいた。実際、気功や太極拳には、この思想を体で受け止めようとする所作でもある。日本でも本場中国でもそれがいまだに伝わっているところが素晴らしい。とくに、呼吸法は生命維持装置の最終的基本でもあるからね。

 

 この老荘思想は、仏教や神道・儒教のなかにも生きている。だから、権力中枢にこうした人々が存在すればかなり紛争は少なくなるはずだ。しかし、現実はそうではない累々とした欲望と思惑に犯されている。ウルグアイの「世界で一番貧しい大統領」と言われたホセ・ムヒカ元大統領のような人がもっと多くなれば、世界は変わる。彼の言葉、「私たちは発展するために生まれてきたのではない」という言葉が刺さる。彼は老子の現代版の指導者だった気がしてならない。日本にこういう人物の政治家はいるのだろうか。

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ブルーベリーついに絶好調!!

2025-07-29 23:34:14 | 農作業・野菜

 十数年前にセニョールさんからいただいたブルーベリーの樹がずいぶん大きくなり、実の粒も大きくなってきた。最近は、粒が大きく甘いブルーベリーの実が市販されているが、お値段はけっこう高く感じる。わが家では年に数回は肥料をやったり、雑草を除去したりはしているものの、ほぼ野放図なグータラ栽培だったのは間違いない。品種も途中から忘れてしまって、ラビットアイ系かハイブッシュ系が混在してしまっている。当初は品種のラベルはあったが、今ではほとんどなくなってしまっているていたらくだ。 

  

 参議院選挙の歴史的な自民党の惨敗の影響だろうか(まさか)、急速に黒い実が目立つようになり、しかもブドウのように実がたわわになってきたし、従来のものより粒も大きくなってきたのがわかる。しかしながら、甘い味の実を見わけるのは意外に難しい。黒くなったからすぐ収穫できるわけではなく、あせって収穫すると酸味が強すぎてしまう。選挙前では、黒くて甘い実は確認できなかったのに。

 

 きょうの収穫だけでも1kgほどはあったが、人手があればこの倍は収穫できるはずだった。自家用だったのでつい大きいのはつまみ食いしてしまって画像には反映されていないのがうかつだった。そして、いつもの朝食の野菜ジュースにはブルーベリーのアントシアニンが投入されるようになった。

 

ブルーベリーたっぷりのジュースは、同時に投入されたゴーヤの苦みを乗り越え、甘いジュースとなっていた。いよいよ、この季節、ブルーベリーが野菜ジュースの主役奪取となった。凍ったブルーベリーを利用すれば、アントシアニンを効率よく吸収するという。亡くなったセニョールさんのプレゼントが今も生きているよ。

  

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役者絵にCM登場!?

2025-07-26 10:32:35 | アート・文化

  盆栽のプロ並みの腕前だった「三代目尾上菊五郎」の役者絵を見ていた。菊五郎は、市川團十郎(7代目)・岩井半四郎(5代目)・松本幸四郎(5代目)と並んで、江戸歌舞伎の黄金時代を担った逸材の役者だった。美男で万能の役者と言われた菊五郎は、同時に、「植木屋松五郎」と名乗るほどの植物・盆栽好きだったので、江戸の向島に「松の隠居」という植木屋を買取って植木屋もしていた。そんなことなのだろうか、今回の衣装は、菊五郎の菊の花と松五郎の松葉らしき模様ではないかと推定してみた。しかし、64歳だった弘化4年(1847)に突然役者の引退宣言をして「菊屋万平」を名乗り餅屋をはじめたり、再び舞台に戻ったりの自由闊達の人生だった。

  版元(保永堂)の竹内孫八は、広重の「東海道53次」を出版したことで大手版元となった。版元の所在地は、江戸霊岸島塩町だったので、「霊鹽」が印字されている。今回注目したのは、その役者絵の隅に、「仙女香」という粉白粉のCMがあることだった。京橋で販売された「仙女香」は、三世瀬川菊之丞の俳名「仙女」にちなんで命名され、浮世絵とタイアップして宣伝を行った最初の商品だった。

  (画像は「ドクターK」webから)

 「仙女香」を販売していた坂本商店は明治以降、洋傘や杖などの販売も手掛けたが、粉白粉の宣伝は江戸の刊行物の巻末にも次のような効能を載せていた。

 △常に用ひていろを白くし きめをこまやかにす △はたけそばかすによし △できものゝあとを はやく治す △いもがほに用ひてしぜんといもを治す △にきびかほのできものに妙なり △はだ をうるほす薬ゆゑ 常に用ゆれば歳たけても かほにしはのよる事なし △惣身一切のできものに よし △ひゞあかぎれあせもに妙なり 股(もゝ)のすれには すれる所へすり付てよし     

「仙女香」は美容というより薬の扱いだった。そのうえ、十包以上買えば 当時の役者の自筆の扇子を景品として、または、贔屓の役者のサインを提供するというような画期的な販売戦略だった。

  菊五郎の背景は「白髭神社」のようで、猿田彦命[サルタヒコノミコト]を祀り、白髭のとおり長寿や縁結びの神様として信仰を集め、大社のある近江の歴史は2000年以上と伝えられる。すると、場所は琵琶湖畔かとも思うが、江戸にも隅田川沿いに白髭神社があったので、こちらのほうが有力か。神社の神殿が右上に描かれている。

 この役者絵のテーマは、「千社詣」だ。それは江戸時代に幾たびも起きた飢饉によって、庶民は盛んに寺院も含めた「千社」をまわり、五穀豊穣を祈ったわけだ。千社札の版元は浮世絵の版元と同じであることも多かったので浮世絵並みの見事な千社札も登場。現在ではシールのようなものもあるが、景観や建物を損なってしまうので、貼るのを禁止している寺社が多くなっている。

 

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「狩りバチ」だった

2025-07-22 23:23:48 | 生き物

 炎天下の農作業は熱中症が襲い掛かる。高熱の光線を当たると急速に労働意欲がなくなる。そんなとき、日陰になったころ合いをみて、ポット鉢の整備作業をすることが最近の日課となった。ボケの鉢の中の雑草を抜いていたら2cmほどの蜂が見えてきた。逃げないのでカメラを向けたがそれでも逃げない。撮る側にとってはうれしい瞬間でもある。よくよく見ると、腹の一部が赤いうえに、胸と腹がかなり細い棒のような器官でつながっている。

 

そういえば、こういう蜂を以前観たことがある。さっそく、調べてみたら、狩り蜂の「ジガバチ」(ジガバチ科)だった。大きなイモムシを捕らえて自分の巣に引きずり込む様子を見たことがあった。

 ジガバチの名前の由来は、土に巣穴を掘るので「地下蜂」ではないかと思っていたが、これは大きな間違いだった。穴掘りのときに羽をこすり合わせて出す音が「ジガジガ」と聞こえたのが名前の由来だ。しかも、それは巣の子どもに「我に似よ」、つまり、「似我似我(ジガジガ)」と祈っているんだと昔の人は考えたという。この拡大解釈の妄想が素晴らしい。

 

 愛読している小学館の『昆虫の図鑑』には、親が餌の虫を麻痺させて生きたままの餌に卵を産み付けていく様子をわかりやすく図解している。餌は殺してしまうと腐敗するので、蜂の子どもは死なない部位から餌を食べていくそうだ。親は埋め終わったときもジガジガ音をさせるというが、うかつにも聞いたことはなかった。

 

 巣穴を閉じた親は任務を終了したとして戻ってはこない。だから、その子どもは自力で自分の命を守っていくしかない。なんとも厳しい子育てでもあるが、それが自然界に生きる親の愛情なのかもしれない。あらためて、ジガジガの意味するものの想像力に感心する。

 残念ながら、目の前のジガバチが巣を作っていたかどうかはわからなかった。しかし、すぐ近くにシャクトリムシがいたことだけは確かだった。ひょっとすると、ポット鉢の整理でそれを中断させてしまったのかもしれない。小さな小宇宙の出来事も深いものがある。それに比べ、毎日のように行われている中東の一般人の殺戮がいかに不条理なものか、それを阻止できない世界や人間のもどかしさを痛感してやまない。そんな実態でも、なぜ神は「沈黙」してしまっているのか、遠藤周作の提起が刺さる。

 

 

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売れる本しか刊行できない出版システムを打ち砕く

2025-07-18 01:19:23 | 読書

 わが先達の作家・高尾五郎さんが自費出版で刊行した『三百年かけて世界を転覆させる日記 1』(発行所・草の葉ライブラリー、印刷製本・amazon)を読む。

 アメリカの代表的な詩人・ホイットマンは、詩集も売れず、困苦の中の仕事に従事しながらも、既成の概念や現実にとらわれない発想と行動とで、「アメリカの一つの精神の核」を構築した。日本にも夏目漱石がホイットマンを紹介したり、有島武郎がその詩集を翻訳したりして、白樺派の文芸運動にも影響していく。

  ホイットマンの「言の葉」に刻まれた魂や行動力に惚れ込んだ高尾五郎さんは、そこに表現された雄渾な世界を「草の葉ライブライー」として自前で刊行して受け継ごうとしている。しかしながら、ホイットマンの詩が読まれなくなり、ホイットマンの詩が消えていっている現実がある。スマホの発展にもかかわらず、それは言葉の力がどんどん衰弱・劣化し、いまや言葉の受難の時代に陥ったのではないかと高尾五郎さんの「日記」は憂慮に満ちている。

  五郎さんが作家生活の拠点にもしていた信州のあちこちには、芸術家や社会運動家らが残した痕跡が残っている。雑誌『展望』の初代編集長の臼井吉見が『安曇野』という明治から昭和に活躍した当時の著名な文化人・政治家・社会運動家らが安曇野を舞台に登場する大河小説がある。全5巻を読むのに手間取ったが、これを読むだけで当時の閉塞の歴史とそれに抗する良心的生きざまが克明に描かれてえらく感動したものだった。そして、「臼井吉見文学館」も建設されたが、訪れる人はまばらだという。また、その近くには松下村塾に匹敵する「研成義塾」を起こした「井口喜源治記念館」がある。ここも安曇野に訪れる数十万人の観光客には知られていない。 最近では、小さな美術館さえも閉館されたという。

  同じように、理論社を設立して、灰谷健次郎ら創作児童文学の旗手を育てたのをはじめ、倉本聰の「北の国から」のシナリオを刊行をなした小宮山量平のミュージアムも閑古鳥が鳴いている。そうした文化的惨状に対して五郎さんは、「いくら斬新な洒落た文化施設があちこちにたっても村は少しも美しくなりはしない。村が美しいということは、そこに住む人々がどれだけ輝いているかなのである。文化というものは人間を輝かせることなのであり、文化を起こすということは、人間の輝きで村を美しくするということなのだ」と、担い手側への批判の矢も忘れない。

  「敗北だらけの人生だけど」とつぶやく五郎さんだが、変わらない日本の現状批判だけではなく、同時に、それはホイットマンや小宮山量平らの信念の人や、商店街の場末で喫茶店を出会いのコミュニティにしている平川克美さんや地域雑誌「谷根千」の山崎範子さんらの「地域に生きる人へのまなざし」の美しさをたびたび紹介している。そのひたむきな思いと行動とは地域と人間と社会とをゆるやかに振動させる希望があるという視点だ。これは意外に盲点だ。マスコミもそれを持続的にとりあげていくのが難しい。

 

   最終章で五郎さんは強調する。「本というものは、食料品でも、商品でも、製品でもなく、まったく別の価値をもって存在するものであり、たった五、六部しか売れなかった本が、数十万部を売った本よりもはるかに高い価値をもっているどころか、永遠の生命をたたえて世界を変革していくことがある」と。

 そこで、五郎さんは「草の葉ライブラリー」を自前でも刊行していこうというのだ。「荒廃していくばかりの読書社会に新たな生命の樹を打ち立てる本である。閉塞の世界を転覆させんとする力動をもった本である」と宣言する。表題の『三百年かけて世界を転覆させる日記』という挑発的なタイトルをあえて掲げているが、その意味で本人は本気なのである。そうした咆哮のシャワーをオイラにもときどき浴びせてくれるが、なかなか応えられていなくて、ついついよそを向いてごまかしてしまう。

 

 

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「梅シロップ」で灼熱地獄を乗り切る

2025-07-15 23:06:23 | 農作業・野菜

 先月中旬、急遽近隣から梅をいただくことになった。1本の梅の木から段ボール2箱分くらい収穫させてもらう。いつもだと「梅肉エキス」や「梅干」用にと多めに収穫するが、作業の大変さやこちらの高齢化のために、今年からは「梅シロップ」だけを作ることにする。

 

 さいわい、傷も病気もないきれいな梅であり、労力軽減のおかげで順調な「梅仕事」となった。まずは、水洗いしてよごれやごみを取り水気を拭う。へたを取るのや容器のアルコール消毒などと細かい作業が続く。氷砂糖と梅を交互に瓶に入れていき、まずはひと段落。

   和宮様は毎日様子を見ながら氷砂糖の解け具合によって瓶を傾けたりして楽しみなご様子だ。およそ、10日くらいすぎると氷砂糖も見えなくなっていく。長く放置してしまうと発酵が進みアルコール味が強くなってしまい、味が梅酒になってしまうので、やはり日々の観察が大切だ。

 

 梅がしわくちゃになるとそろそろ取り出す合図となる。梅を容器から取り出してシロップだけを鍋に移し入れ、弱火で沸騰しないよう加熱してアクを取り除き、 冷ましてからペットボトルなどに入れたら梅シロップの完成だ。残ったしわしわの梅は畑の隅に投下して栄養ある有機肥料にする。もちろん、梅ジャムにしてもいいがもうこの暑さは待ったなしだ。 

  

 ついにできあがり。大小合わせてペットボトル7本分はできたろうか。さっそく試飲してみるとごくごくと飲みほしてしまう。そこに、炭酸や氷を入れればさらに旨味と冷たさが充満する。これで、この灼熱列島と熱中症から身を守り、再び大地に向かっていく、というわけだ。

 マスコミはエアコンの使用法をたびたび喧伝するが、エアコンもない人にはエアコンを買えというわけか。それは「都市の論理」だ。エアコンがないわが家は昭和の扇風機とアイスノンで大脳と身体を回復し、冷えた梅ジュースの一杯で夏を乗りきる。

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プラントハンターの密命は

2025-07-12 10:17:51 | 読書

  幕末に日本にやってきた英国のプラントハンターのロバート・フォーチュンは、訪日前に中国で歴史的な密命をやり遂げた跡だった。当時、イギリスの綿をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへという「三角貿易」で、イギリス経済は巨万の富を帝国にもたらしていた。アヘン戦争(1840年)勝利でイギリスはさらに未踏の中国市場を飛躍的に拡大していくことになる。

  

 中国奥地に外国人が侵出するのは命がけだった。プラントハンターの若きフォーチュンは、「ロンドン園芸協会」から中国行きを命じられ、貴重な茶をはじめとする植物の苗と種を入手する密命を受けていた。彼は高級官僚服と辮髪をもって変装し、未知の国での採集を命がけでしていく。そんなドキュメンタリーを描いたのがサラ・ローズ(訳・築地誠子)『紅茶スパイ』(原書房、2011.12)だった。

 

  著者は、フォーチュンの果たした役割を次のようにまとめている。

 1 彼が東洋で発見した植物は、新種を含め数百種に達した

 2 緑茶と紅茶は同じ茶の木からできることを証明し、リンネ分類を訂正させた

 3 中国人が毒性の着色料で緑茶を染めて販売していたことを暴露し、英人の健康を回復させた

 4 当時、植物の苗や種の移送がことごとく失敗していたなか、彼の実験を経たやり方で成功させた

 5 彼が移送したインド産の茶は質量ともに中国を上回るようになり、大英帝国の利益を産み続けた 

 6 山間の茶畑からイギリスの家庭に到着するまでの生産・物流・販売システムのすべてを変え、贅沢品だった 茶を安価にし、大衆化させた

  

 本書を読むきっかけは、フォーチュンの『幕末日本探訪記』を読んだことで、植物だけでなく政治経済・文化・庶民などの分析の正確さに驚いたことだった。それは訪日の宣教師が逐次日本の情勢を自分の国に報告していた諜報活動と似ていた。彼らの中心人物は宗教の布教だけでなく相手の国を植民地化する尖兵でもあったという視点を忘れてはならない。キリシタン大名も敬虔な信者らも結果的には利用されていたわけだ。

 

 著者のサラ・ローズは、「フォーチュンが中国から茶の種や苗木を盗み出したとき、それは保護貿易上の秘密を盗み出した、史上最大の窃盗だった。彼の活動は現在なら<産業スパイ活動>とみなされ、センセーショナルに扱われたことだろう」と、終章で指摘している。

 フォーチュンは有能な植物研究者であるとともに、その経済的利益や効果をもふまえた視点を持っていたことで、結果的に大英帝国への莫大な利潤に貢献したのは間違いない。それをやり抜く胆力はまさに「ゾルゲ」並みの精神力であることを感じ入る。 

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「半白キュウリ」が主流だった

2025-07-09 11:22:18 | 農作業・野菜

 キュウリを毎日のように収穫する。ときどきカラス軍団が襲来する。近くのナスは収穫直前にすべて盗まれてしまった。今年初めて植え付けたのが農協で苗を購入した白っぽいグラデーションのある「半白」キュウリだった。それも、節ごとに実をつける多収穫のうえに病害虫に強いという「節成」キュウリだった。

 

 半白キュウリは、江戸時代以前に日本に伝わった華南系キュウリが元とされ、大正初めには東京府内馬込村で「馬込半白」が育成され、明治後半には「半白節成」を誕生させ、ぬか漬けやサラダに人気があった。関西でも「馬込半白」系キュウリが主流だった。

 

 昭和中期ぐらいまでは一般的に流通されていた半白キュウリは、現在では生産量が少なく、今ではスーパー店頭ではほとんど見かけない。しかし、わが家で収穫した半白節成キュウリの塩こうじ漬けは実にうまい。パリッとした食感と瑞々しさがたまらない。しかし、緑一色の画一的なキュウリイメージにいつの間にか全国が汚染されちゃった。その原因は日本の構造的な体質にあるように思えてならないが。

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せつない黄昏を超えたいものだ

2025-07-04 21:33:26 | アート・文化

 数日前、雷が鳴り出し突然雨が降りしきる。そんな不安定な天候が続くなか、ひさびさDVDの映画を観ることにした。ウィリアム・ワイラー監督の米映画「黄昏」だ。1952年公開の作品。原作は1900年に出版されたセオドア・ドライサーの小説である。したがって、当時のアメリカの失業の深刻さも背景にもなっている。主人公役のオリビエやヒロイン役のジョーンズもそれにより追い込まれていく。

  堀田写真事務所webから

 一流レストランの支配人をやっていた主人公は、妻子がありながらヒロインにおぼれていき、結果的に乞食同然の孤立暮らしに陥る。いっぽう、不遇だったヒロインは劇場の女優として仕事を得てから主役に抜擢されるなど脚光を浴びた優雅な暮らしとなっていく。

 劇的なストーリーの映画化は戦後復興をめざした日本にも反響を及ぼしたようで、1950年代の電車の中吊り広告はそんな味が沁みている。

 

 「ローマの休日」や「ベンハー」など、ハリウッドの黄金期を支えたリベラルなワイラー監督だが、主人公が自殺するような最終場面について、当時のアメリカの世相からパラマウント映画社の政治的判断でカットされたようだ。主人公はヒロインからもらった財布からお札ではなく一枚のコインだけもって楽屋を出ていく。その際、ガス栓をひねったが躊躇したところに主人公の絶望の哀しみが伝わってくる。思うようにいかない人生の行路は、とくに恋と失業との陥穽を考えさせる名作となった。

 

 

 

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変わらぬ宗次郎のオカリナの音色

2025-07-01 22:35:18 | アート・文化

 冷房がきかないマイカーで初めての会場・菊川市の会場に向かう。数十年ぶりとなる宗次郎のオカリナコンサートだ。しかし、ナビが関係ない所を案内してしまい、いろいろ試してなんとか時間前にたどり着く。

 

 会場の「菊川文化会館アエル」は、外側からは建物の概要は見えない仕組みだった。森から入り口に踏み込むとそこは中世のヨーロッパの城に迷い込んだような錯覚を催す。回廊の中央には野外劇場や物産のイベントができるような広場があり、そこから大ホールや各会場に向かうが、オラのような初めての異邦人にはどこへ行けばよいかためらうが、好奇心をたぶらかす装置が稼働する場所でもあった。

  

 日本の物かどうか迷う不思議な灯篭のようなものが庭にあった。彫り物は龍のようだった。もう少し探検したいが時間がない。魅力的な会場や細かい仕様が気になったが、ホールに参加者が並びだす。あわてて座席を探し、演奏を待つ。宗次郎は昔と変わらないスタイルと顔でいくつものオカリナを駆使していく。オカリナを日本中に広めた宗次郎は、中国・台湾公演が終わって間もないというタフガイだった。話術が上手になっていた。

 

 NHKで「大黄河」という番組のテーマ音楽に誘われ、オカリナの演奏をやってみた。10本くらいは保有していたほど熱中はしたものの、楽譜が読めないうえに指の関節の病もあり、しばらく楽器はお蔵入りとなってしまった。

 宗次郎の演奏は、音の確かさがさすが透明な空気感を誘う。オラが吹くと音が変調したり、ツバが溜まって音が出なくなる。宗次郎にはピアノとギターとの伴奏があったが、音響のせいか伴奏はオカリナの魅力を半減させている気がした。やはり、単独の音色の孤高さが森や高地を産み出していく気がしてならない。伴奏は前面に出てはならないのだ。黒子に徹する控えめさが必要に思う。これをきっかけに、わがオカリナ演奏は再開するといいが、あまりにも現状のスローライフは忙しい。

 

 

 

 

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「女形」と言えばやはり…

2025-06-27 00:12:39 | アート・文化

 1806年(文化3年)、中村座で上演された「京鹿子娘道成寺」の役者絵を見た。「道成寺」は、大宝元年(701)創建で和歌山最古の寺という。 寺には、「道成寺縁起」が残されており、清姫安珍の恋物語が有名だ。清姫は寺の鐘の中に隠れた裏切った安 珍を、大蛇となって巻きついて恨みの炎で焼き尽くす、という伝説がある。
 この「縁起」をもとに能や歌舞伎の公演につながり、清姫の霊の白拍子を主人公とした歌舞伎は、女形舞踊の魅力が最も発揮され、坂東玉三郎と尾上菊之助という当代最高の「女形」が競演した「二人道成寺」は、近年の名舞台と評価されてもいる。

  役者絵の着物の両脇あたりに、「大」の漢字を三点つなげた「大和屋」の家紋がさりげなく描かれている。それで、当時の庶民はこの「女形」は三代目坂東三津五郎であることを了承する。この頃から、坂東家は女形が十八番となっていく。

  この坂東三津五郎の着物の柄は、流水に流れ散っていく桜のデザインが凝っていると同時に艶やかだ。鹿の子模様もちらりと内輪に散らしている。さらには、黒い帯にはいろいろな家紋のようなロゴを6個も描いている。ひょっとすると判じ絵のような暗示的なデザインかといろいろ考えてみたが、結論は出ず。なぜこの模様なのか、意味があるはずだろうがわからない。

  なお、版元は、川口屋宇兵衛(福川堂)。検閲印の「極」は1個のみで、文化文政時代であることが判る。寛政の改革で蔦屋重三郎や山東京伝が逮捕されて間もなく、町人の経済力から町人文化が活発になることで、江戸歌舞伎も頂点に達する。そのことで、女流の演奏家・アーティストも多く登場していく。

 

 なお、役者絵の作者は、当時歌麿・写楽より人気のあった歌川国貞(三代豊国)。女形の衣装が踊りとともに変わっていくところが見ものだったという。江戸時代の女性の被り物に「揚げ帽子(あげぼうし)」があり、武家や富裕な町人の女性が外出時の塵よけとして用いたもの。 形が蝶に似ているところから揚羽帽子(あげはぼうし)とも呼ばれる。のちの、花嫁の「角隠し」になったという説もある。

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地元で発見されたアジサイの花が咲いた

2025-06-24 22:15:45 | 植物

 地元で発見されたというアジサイの新品種「三河千鳥」に花が咲いた。以前、友人から「<三河千鳥>というアジサイが旧家で発見されたが、地元の人は知らないみたいなので育ててみませんか。これを広めて町おこしができるといいんだけど。」という連絡があった。

 育てるのはもともと苦手だったので口を濁していたが、あるときその品種を育てている人がいるのをネットで知る。さっそく、取りよせて育ててみることにした。どんな花が咲くかわからなかったが、二年目にしてやっと見事に咲いてくれた。しかし、花全体が手毬状に咲くはずだけど、本種はガクアジサイのようになっているので、ミカワチドリではないのではないかと疑念が湧いてしまったが、どうなのだろうか。

 

 葉っぱの小ささから、「ヤマアジサイ系」であることはわかっていたが、たしかに派手ではなかったがほんのりしたピンク色の花が素朴だった。

 いわゆるホンアジサイは両性花(雄しべと雌しべある花)がなくて、装飾花だけの手毬咲きだけど、三河千鳥は逆で両性花だけで手毬咲きになるという珍しい品種だという。

 

 藤田多喜子さんが静岡県浜松市春野町の民家で発見し、藤井清さんが“三河千鳥”と命名したという。しかし、三河は愛知県なので、場所的には静岡の山間部なので「遠州千鳥」という命名のほうが自然な気がする。

 

 こういう手毬状が本当の姿らしいが、開花を失敗したのだろうか。来年を待つしかない。

 

 

 

 

 

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