山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

二分された天皇家と出雲王朝の暗闘・隠蔽

2024-08-31 15:51:19 | 読書

 諸星大二郎の漫画「暗黒神話」にほだされて、古代の最大の謎・縄文人の行方や出雲王朝の消滅がやはり気になる。そこでまた、民間の異端の歴史家として数多くの書物を上梓している関裕二『縄文人国家=出雲王朝の謎』(徳間書店、1993.7)を読む。『聖徳太子は蘇我入鹿である』とか『なぜ<日本書紀>は古代史を偽装したのか』とか、のセンセーショナルな書物を一貫して提起している著者にはかねがね注目しているからでもある。

 

 というのも、著者がいつも指摘しているのは日本書紀の神話などをベースにしている学者たちの思考停止への批判がある。もちろん、著者の機械主義的な単純論法のめちゃぶりには異論もないわけでもないが、著者が言わんとする方向性は大いに共感するものがある。「九州王朝(現天皇家)=弥生人国家(渡来人)=アマテラス」と「出雲王朝(滅亡王朝)=縄文人国家(先住民族)=スサノオ」との暗闘の歴史が示したのは確かに明快でわかりやすい。

  

 「征夷大将軍」は江戸まで続いた称号だが、「征夷」とは言うまでもなく、東北にもう一つの異人の国家があったということだ。古代以来の歴史はこの異人に対する征圧の歴史でもある。だから、オラはそのもう一つの歴史、つまり制覇された敗者の歴史の掘り起こしが必要だとかねがね思っていたからだ。それを丹念に追究し孤塁を守ってきたのが、在野の関裕二氏だ。ときどき、蝦夷の指導者「アテルイ」が取りざたされてもいるが、大河ドラマでは1993年放映した「炎立つ」で奥州藤原氏を描いたのが精いっぱいで、蝦夷やアイヌを直接主題にするのはタブーなのではないか。

 

 モヤモヤした日本の曖昧さの中にタブーはしっかり存在する。その一つが出雲王朝の滅亡・掃討であり、「暗黒神話」のルーツでもあり、プロパガンダの成果でもあった。著者は、「弥生以降の稲作文化のみを日本文化だと錯覚すると、やがて大きなしっぺ返しを受けることになろう」と、佐治芳彦氏を引用して持論を補強している。文献重視の史学界にあって、神社や民間伝承に光を当てたのは哲学者・梅原猛でもあるが、関裕二氏は従来の「史学界の常識に、真向から反対」する立場をあえて堅持している。

 

 「ヤマトタケルは東国縄文人の英雄だった」「聖徳太子は縄文人だった」とのショッキングな著者の言い分の背景には、数十年にわたる推論の積み重ねがある。そして、「日本の歴史は、天皇家と、天皇家によって抹殺された縄文人との間の格闘史といっても過言ではない」と断定し、「縄文人の誇りを残そうと戦った者たちの鎮魂の意をこめて」、本書は捧げられた。

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台風10号対策間に合うかー!!

2024-08-28 21:53:40 | できごと・事件

 台風10号はのろのろしながら日本列島を縦断しそうな勢いだ。しかも、風力も30mを超える史上に残る大型台風だ。だもんで、今季初めて台所の窓ガラスにベニヤ2枚を補強する。雨風が強くなる前にうちつけておくのが肝要だといそいそインパクトドライバーを構える。

  

 風も今までにないほどの風力だというので、玄関と台所のガラス戸に透明テープを貼って破砕防止の対策をとる。相手が初めてなのでこちらも初めて処置をした。雨が激しいと作業がやりずらいので雨がぽつりぽつりを見計らってさっさと行う。ほんとは透明シートがいいが、手持ちのテープで対処する。

  

 また、山側の雨水も激しいと床下まで雨水が来てしまうので、常時ブルーシートをセットしてあるが、まずは雨水が流れやすいよう鶴嘴で溝を掘っておく。これがあるのとないのとでは大違い。

  

 雨水が流れる音が聞こえてくる。隣接する道路が川になった音だ。ひどいときは20cmを超えたときがあった。水の色が透明なのがうれしい。濁っているとどこかで土砂が崩れているということだ。

この雨水で野菜や農耕用具を洗ったりするのに重宝している。

  

この深さが20cmを超えると危険信号となる。15年以上ここで住んでいて20cmを超えたのは1回くらいしかない。夕方、雨が落ち着いたようでもう一度計ったら4cmくらいだった。近くに奔流の川があり、その流れる音が聞こえるが現在は聞こえない。本番はこれからだ。

 

 心配なのは、物置の屋根だ。継ぎ足した垂木が腐りはじめ隙間もできている。今回は間に合わないが台風が一段落したらまずここから手直しだ。前もって資材を確保しておかなくてはならない。隣に植わっている椿やキンモクセイの落ち葉や花がトタン屋根に積もっているのも錆びつく原因だ。ともかく、今は無事台風が通過することを願うしかない。人類に対する自然からの「祟り」は深い怒りと哀しみがある。

    

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久しぶりのキマダラセセリ

2024-08-26 23:18:04 | 生き物

 キュウリやブルーベリーなどの収穫が終わり、わが畑はこぼれ種から野生化した野菜が主流になってきた。その代表格の「冬瓜」の花にセセリチョウが蜜を吸っていた。食事時は人間も昆虫も夢中になるものだ。カメラを向けてもあまり気にしない。セセリチョウと言えば、チャバネセセリとかイチモンジセセリを圧倒的に見かける。

 

 ファインダー越しでその翅の斑紋を見ると明らかに違う。これはしばらく見ていなかった「マダラセセリ」に違いないと見当をつける。図鑑で確認したらやはりそうだった。セセリチョウの多くは白い斑点模様が特徴的だからだ。来月には、やはり野生化したニラの花にセセリチョウ群団がやって来るが、そのほとんどが白点模様で占められる。ダイミョウセセリや大きなアゲハも来るが群団に追い払われる。気性が激しいのがわかる。

 

 マダラと言えば、6月中旬、その近くに5mmくらいの「マダラホソアシナガバエ」(アシナガバエ科)がいたことがあった。体は小さいけど翅にまだら模様があり、体が金緑色の宝石のような美しいハエだった。ハエとはいえ、アブのなかまだ。だから、小さい虫の体液を吸汁するらしい。種類も多いようで素人にはその同定は至難の業、オラはこの宝石のような小さな昆虫に出会っただけでもラッキーという世界だ。

 雷雨が迫ってきた。台風が近づいている。被災だらけの過疎の道路事情でいつも工事中。寸断されて陸の孤島にならないよう願うのみだ。 

 

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諸家の理想はあれど未だ人類は成長できず

2024-08-24 12:21:59 | 読書

 ブラボーコレクションからの課題図書の二冊目、諸星大二郎『孔子暗黒伝』(集英社、1988.5)を読み終える。発刊された1980年代後半と言えば、東西冷戦が終わって、アメリカの一人勝ちと東欧革命が始まるとともに、新たなグローバル経済が世界を跋扈していく頃だ。日本はバブル経済がはじけ平成不況へと迷宮に突入する。

 1970年代後半、「週刊少年ジャンプ」に連載されていたのが本書である。前作の『暗黒神話』と同じように、古代史・文学・哲学・考古学・文化人類学・宗教・民俗学・オカルトなど広いジャンルをバックに孔子と陰陽二つの性格に翻弄される「ハリハラ」の苦悩と挫折とが表現されていく。

  (画像はletuce's roomから)

 冒頭の孔子とその弟子は、宋の刺客に追われていて、逃げ込んだ所は滅亡した「周王」の墓室だった。そこには饕餮(トウテツ)文様に飾られた部屋があった。この文様は、財産・食べ物を食い尽くす神・怪物・鬼などを表す魔獣であると言われている。その魔獣がときどき本書に登場する。

 そういえば、30年ほど前だろうか、中国の長江沿いに高い古代文明が形成されていた「三星堆(サンセイタイ)」や「仰韶(ギョウショウ)」遺跡の出土品を見に行ったことがある。その文様を見ると、中国のルーツと言われた「黄河文明」とは違うもので、むしろマヤ文明や古代エジプトの装飾に似ていた。

 

 本書を貫く著者のイデアは、「陰陽五行説」のように思える。つまり、宇宙・世界・社会を陰陽二元的にとらえ、自然や物事は「木・火・土・金・水」の元素から成り立つとしている考え方だ。それがときにバランスが崩れ人間も世界も自然も変容されていく。その混沌世界の残虐なリアルを著者はこれでもかと描いていく。少年漫画誌にはふさわしかったかどうかは疑問だが、人間の首切りが普通に描かれている。

 

 また、「易経」の語句が本書にたびたび引用されているが、オラの狭い感覚だと「占い」のイメージが強い。しかし、「易経」は儒教の基本書籍である五経易経書経詩経礼記春秋の筆頭に挙げられる経典で、東洋思想の根幹をなす哲学書。また、四書大学中庸論語孟子)は江戸時代後期には下級武士や庶民にまで普及し、読書能力や教養などの文化水準向上に果たした功績も大きい。なお、中国の漢代には、儒教が国教として採用され、四書五経は官吏登用試験の基礎ともなった。

   

 最終章で、混沌とした破天荒な世界に対して孔子は「それでも 四季はめぐり 草木は茂り 何事もなかったかのように過ぎてゆく 天は何もいわんのだ」「天が何もいわずとも すべては過ぎゆき 人びとは生きてゆくではないか」とつぶやく。

 それは、「迫害が起こって今日まで二十年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる」と遠藤周作『沈黙』のラストシーンとつながるものがある。

 

 全編を通して、中国・インド・東南アジア・日本・宇宙へと場面は変転し、そこに、孔子・周王・武王・老子・仏陀・ヤマトタケルらが配置されていく、という壮大な装置に読者を引きずり込む。本書への各種経典からの引用は難解この上ない哲学書もどきにすることで、現代にも進行しているリアルな残虐と混沌を予言するとともに、極端な刺激を抑制している。

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 要するに、科学技術や生活は向上しても、人類の残虐性や頽廃は簡単にはリセットできない渦中にあるということを正視しなければならないということか。杜甫の「国破れて山河在り,城春にして草木深し」とあるが、現代の戦争によれば草木さえ生えないほどの壊滅と人間のジェノサイドがある。

 こうしたなかで、どうすることが生きる希望とつながるのだろうか、というそこに呻吟する著者の姿がにじみ出てくる作品でもあった。それはきっと、ブラボーさんの叫び・無常観、いや「秘術」・悟りなのかもしれない。

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畑の「製薬工場」=カボチャがうまい!!

2024-08-21 23:17:07 | 農作業・野菜

 今年の夏はカボチャが豊作となった。というのも、北海道産のカボチャがおいしかったので和宮様のご命令で取っておいた種を3月に種を蒔き、5月にその苗を畑の端に定植をしたものだ。今までは、ほとんどがイノシシやシカや虫の餌食になってしまった失敗の黒歴史が続いていたので、今回は防獣柵の中に植え付けさらに防虫カバーをしたので20個以上の収穫となった。

 さっそく、近隣におすそ分けしたところ、けっこう好物にしている家も多くおおいに喜ばれた。たしかに、カボチャ栽培は広い場所を占領するし、動物の格好の餌ともなる。

 

 最近はカボチャをそのまま輪切りにしてレンジでチンをしてそのまま食べるようにしている。何もつけないで素朴な甘みを楽しもうというわけだ。言い換えれば、忙しい農作業の手間を少しでも省きたいという面もある。しかも、カボチャは栄養分の塊であるとともに糖尿病や抗酸化作用にも活躍する。

 

 カボチャの種は世界各地で食用にもされ、塩炒りがうまいという。ビタミンやリノレイン酸の宝庫でもある。だもんで、今までの放任栽培を反省しなければならない。ツルの育つ方向はいつも雑草の多い畑の脇に伸ばしているので、収穫はその雑草をかき分けてはじめて実の存在を発見するという体たらくだった。ほんとうは、活着した親ヅルを摘心しなければならないのに、放任のままだったので、ツルが伸びている割には実が少なくなってしまっている。

 なお、この品種は市場を席捲している西洋カボチャの「えびす」のようだ。スーパーでは外国産のものも多く出回っており、消費者は一年中確保できる環境にある。

 

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ハトムギを七輪で焙煎する

2024-08-19 23:25:58 | 野外活動

 毎日、ハトムギとハブ茶をブレンドした冷茶を飲む。この沸騰地獄の夏をエアコンなしで生き抜くには有効な飲み物だ。野生化したハトムギの実はかなりキープしてはいるが、焙煎したり粉状にするのが間に合わなくなった。まずはあわててハトムギの実を焙煎する。

 

  わが家のガスはプロパンだけど、ここ数年値上がり率がうなぎ上りで年金生活者を圧迫している。だから、最近はお湯をなるべく使わないで水だけで済ませることが多くなった。そこで、頼みの七輪の登場となった。焙煎には時間がかかるので、もう一台七輪を出して甘エビや餅餃子を焼く。

  

 昼食のおかずはこれでグー。もちろん、飲み物はハトムギ茶とハブ茶のブレンド冷茶。ハブ茶の原料はやはり野生化している「エビスグサ」の実を確保してある。漢方では決明子と言われ、便秘・肩こり緩和・眼精疲労に効果があるという。経験的には便秘解消は間違いない。ノンカフェインなので子供や妊婦にも優しい。冬には熱いお茶にして常用している。

 

 ハトムギの焙煎が終わってから少し冷まして「ミルサー」で実をそのまま粉砕する。ほんとうは実の中心だけ欲しいが技術的にむずかしいので、雑味には目をつぶって全粒粉とする。丁寧に粉砕すればいいが、そこは素人らしい粗さで先に行く。市販のハトムギ茶には実のままで粉砕しないものもある。

 

 さて、お茶パックに粉砕したハトムギを大匙二杯ほどを入れる。同じように、ハブ茶も焙煎したエビスグサの実を大匙二杯をお茶パックに入れておく。これらを沸騰したヤカンに入れ込む。これでミックス健康ティーのできあがり。

 

 これでなんとか夏の酷暑は乗り切れそうだ。野生化と言えば、「エゴマ」もわが荒れ地に猛威を振るっている。エゴマの葉も乾燥させて「エゴマ茶」を作れる。エゴマ・ハトムギ・エビスグサというご三家がわが荒れ地で闊歩している野生化の代表だ。これらと野草をブレンドすればいろいろな「野草茶」も作れそうだ。そうそう、「タンポポコーヒー」もなかなかうまい。根を掘り出すのは手間がかかるが。酷暑の里山でもなかなか可能性があるではないか。

  

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ヤマトタケルが転生した少年は…

2024-08-17 22:43:19 | 読書

 畏友のブラボーさんが「縄文」に興味を持つオイラに送ってくれた漫画・諸星大二郎『闇黒神話』(集英社、1988.6)を読む。ベトナム戦争が終結し、ロッキード事件が発覚するなど変動激しい内外情勢があった当時、若きブラボーさんは進展する企業戦士の中枢として日夜奮闘する日々の合間に読んだのが、「週刊少年ジャンプ」に連載されていた「闇黒神話」などだった。深夜に至る残業前、近くの喫茶店で夜食のナポリタンを食べながらコーヒー片手にむさぼり読んだらしい。オラはひとり住まいの母親の実家にもどり、なんとか新天地での就職に滑り込んだばかりのほろ苦い再出発だった。

 

 主人公の少年・山門武(ヤマトタケシ)は殺された父の真相を解明していくと、出雲と関係が深い諏訪地方の縄文土器と怪しい関係者に出会う。そこから、ヤマト王権に抵抗していたクマソ一族の末裔が登場し、「武」の究明を妨害する。同じような縄文のルーツを持つ両者がなぜ対立するのかはよくわからないところだったが。

  

 日本の古代遺跡、日本神話、仏教、呪術、宇宙などの関連話題が次々引きも切らず展開していく。その強引なスケールの広がりが本書の魅力でもあるが、登場人物の生硬な表情が気になるところでもある。内容がダークで伝奇的なものだからなのかもしれない。

 

 物語としては世紀末的な終わり方でもあったが、熱烈なファンはいるようで、装丁が凝っている価格の高い豪華本も発行されている。なお、闇黒神話と別に「徐福伝説」が収録されているが、残念ながら舌足らずで終わった短編のように思えた。ただし、徐福の山師的な姑息さを暴くところは見事だとともに、「混沌よ わしにはひらかぬのか!  永遠への扉を ひらかぬのか!?」と叫ぶ徐福の言葉は、本書のテーマと著者の人生や社会への箴言ではないか、とも思われた。

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こだわりの味は隠せない

2024-08-14 23:13:01 | 特産品・モノ

 先週に突然、和宮様のご令嬢・二女がひょっこりわが家にやってきた。なにしろこの暑さの中なので昼寝をたっぷりとりながら、夕方からブルーベリーの収穫を手伝っていただいた。

  

 わが家のブルーベリーは最近の甘く大粒の品種ではないので、食べながら慎重に収穫してもらった。大量の収穫とはいかないが、白い粉のあるブルームの果実を中心に収穫する。お盆のころの中旬になった現在では、甘みがぐっと増し、ブドウのように房ごと採れるほどに熟していく。昨日は収穫量は4kgにもなった。

  

 さて、二女が持参したお土産はクッキーの詰め合わせのお菓子だった。年金頼りのわが家は家庭菜園で採れた野菜を中心とした食生活なのは言うまでもない。だもんで、都会の高級なお菓子はめったにおめにかかれない。二女がお薦めの「ソルトカーマンベールクッキー」は、北海道産の牛乳・グラニュー糖にフランス産の塩にカマンベールチーズが濃縮されたクッキーだ。実物を見たら撮影も忘れてあっという間になくなるほどの旨さだ。

  

 これが都会のこだわりの味なのかと感心する。もう一方の「蜂蜜ゴルゴンゾーラクッキー」は、スペイン産の蜂蜜、北海道産のグラニュー糖、イタリア産の癖のある濃厚ゴルゴンゾーラチーズ・チョコがミックスされていて、これもうなるほどの美味だった。デザインの牛とホルンのように「懐かしい」心温まるをコンセプトにした「新しさ」に職人気質を感じる。

 「今日ひとり、熱狂的なファンを創る」という社員の合言葉が口の中でブレンドされる。都会批判ばかりで固まったオイラの前頭葉に「たまには都会の風も浴びるもんだ」とほざいてみた。二女はこのお菓子を持って「韓国の演劇人たちと交歓するのです」と言って、颯爽と飛行機に乗り込んでいった。

  

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カエルも飛翔体も訪問者

2024-08-12 22:58:44 | 生き物

 うだる暑さのさなかというのに、わが家にひょっこりやって来る夜の訪問者がいる。毎年のようにやって来るアオガエルだ。養命酒を飲みたいようだったが、カエルの酔っぱらいは見たことはない。目の前後を見ると黒い横線があるので「ニホンアマガエル」のようだ。

 

 その五日前にも「アマガエル」が来ていたが、似てはいるものの同じものかどうかはわからない。わが家にやってくる昆虫を食べに来るのだろうか。わが家には蜘蛛も少なくないので餌を確保するのはむずかしいはずだよ。

 

 そのうちに、「シュレーゲルアオガエル」がやってきた。以前には、「モリアオガエル」もやってきたが最近は確認できていない。なにしろ、見た目が似ているのでいつも苦労する。長く逗留していると死んでしまうので不法侵入者として逮捕して戸外に追い出していく。移民ではないけど。

 

 カエルの同定は、目の虹彩の色とか水かきのようすとか皮膚や大きさとかで判断するが、個体によって様子が違うのでいつも苦労する。

 

 シュレーゲルアオガエルは外来種ではなく、日本固有種である。名前はオランダのライデン王立自然史博物館館長だったヘルマン・シュレーゲルに由来している。彼はシーボルトの親友でもあり、日本の生き物を同定していた。

 

 ときどき音を立てて飛来してくるのが「ノコギリカミキリ」だ。ノコギリのような触角にびびってしまうが、大きく黒一色のシンプルな体からカブトムシが来たのかと思うほどの頑丈な肉体派だ。

 茶の新芽を食べてしまうといって茶農家から警戒されている「チャノウンモンエダシャク」がやってきた。とくにその幼虫が新茶を食害するというが見たことはないが、チャノキはわが家の周りに多いのは確かだ。触角が櫛歯状なのがオスで、糸状なのがメスというから、やってきた画像の蛾はオスということになる。シャクトリムシの可愛さに心を動かされることもあるが、本種はときどき、大発生するというから油断はできない。夜の訪問者はますます多様になってきたが、今のところテロリストはいない。

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最高の愛を込めて葬(オク)るこもごもの事情

2024-08-10 21:22:28 | アート・文化

 第40回日本アカデミー賞(2017年)を受賞した映画のDVD「湯を沸かすほどの熱い愛」(2016年公開)を見る。出演した宮沢りえが最優秀主演女優賞、杉咲花が最優秀助演女優賞・新人俳優賞、監督の中野量太が優秀作品賞・優秀監督賞・優秀脚本賞を獲得するなど、日本アカデミー賞を総なめにする。なるほどそれだけの展開がサスペンスではないのに家族の事情が次々剥がされていく。

 

 主演の母・双葉(宮沢りえ)は、余命二カ月を宣告される。そこで、銭湯を経営しながらも蒸発した夫(オダギリジョー)を連れ戻し、銭湯を再開させる。そして、学校でいじめの対象だった娘(杉咲花)を自立させ、とある人に会わせる行動に出る、というストーリーだ。

 

 無責任極まる夫を飄々と演じる夫・オダギリジョーの軽さの中に優しさを感じさせる演出も素晴らしい。その無責任さを追及せず自立を促す妻・宮沢りえの懐の深さ、病床での表情も見事だった。母の死をテーマにしながら明るく前向きに観る者の心を揺さぶる監督の手腕、ストーリーのあっと言わせる意外性が涙と笑いとを同居させる。

 

 劇中の中盤で、娘がなにげなく手話を通訳するがその意味が後半で大きな意味を持つことがわかってくる。また、夫を探してくれたわけありの子連れ探偵(駿河太郎)のかかわりとか、ヒッチハイクの青年(松坂桃李)などの登場は、見終わったときに碁石のようにその意味が主題を深めていく。

   

 登場人物の背景がことごとく剥がされていく。そこに様々な哀しみや生きざまがあり、そこに寄り添う母の目線が注がれる。そこに飄々とした笑いを加味した監督の豊かな余白がある。病院前の「ピラミッド」はその最たる表現だった。そこに、涙と笑いを増幅させて余りある。血のつながりが薄い家族が「熱い愛」によって自立と絆を獲得していく再生物語でもある。

 

 そうして、それらを包み込むベースが銭湯だった。母の葬式が終わってからみんなと一緒に湯に浸かったときの表情、煙突から母の好きな色・赤い煙が出ていくとか、ここでは書けないような業界驚愕のひねりが仕組まれている。総じて、母が遺した「熱い愛」をしっかり受け止めた家族の「熱い愛」が止揚される。生きていく辛さや失速のさなか、その現実を超える「熱い愛」をどこで、だれと醸成していくか、そんな視座をさわやかに用意した珠玉の作品だった。混迷するばかりの世界の中でこの「熱い愛」を身近なところから沸かしていかなければと思った次第だ。

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