麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人 兜太
昭和60年発刊「詩経国風」より。
動物園で見かける麒麟である。
ほんとうに高い、我々が見上げる樹木より高く、
その上に頭を出してゆったりと流れゆく雲に
麒麟の目は遠くさすらっている風に見える。
背高の大きな体を支える麒麟の脚はいかにもしなやかである。
そんな麒麟であるが中国では
「 聖人の出る前に現れると称する想像上の動物。」であるらしい。
「ごとき恵みよ」とあるのだから、
麒麟は夏の人を指し聖人に繋げているのかもしれない。
しかし、私は、麒麟そのものの脚を連想する、
そうすると、はっきり夏の人のイメージが立ってくる。
兜太さんは男性なので、この夏の人は女性ではないか。
「恵み」という言葉が、相応しい、夏なのに暑苦しさのない、
爽やかな、そして、脚の長い人を想像する。
この句には、兜太さんの健康的な肉体感覚がある、
そしてまたそこに「光輝」をわたしは感じてしまう。
昭和60年発刊「詩経国風」より。
動物園で見かける麒麟である。
ほんとうに高い、我々が見上げる樹木より高く、
その上に頭を出してゆったりと流れゆく雲に
麒麟の目は遠くさすらっている風に見える。
背高の大きな体を支える麒麟の脚はいかにもしなやかである。
そんな麒麟であるが中国では
「 聖人の出る前に現れると称する想像上の動物。」であるらしい。
「ごとき恵みよ」とあるのだから、
麒麟は夏の人を指し聖人に繋げているのかもしれない。
しかし、私は、麒麟そのものの脚を連想する、
そうすると、はっきり夏の人のイメージが立ってくる。
兜太さんは男性なので、この夏の人は女性ではないか。
「恵み」という言葉が、相応しい、夏なのに暑苦しさのない、
爽やかな、そして、脚の長い人を想像する。
この句には、兜太さんの健康的な肉体感覚がある、
そしてまたそこに「光輝」をわたしは感じてしまう。
参照 http://www.shuu.org/newpage24.htm
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