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高槻成紀のホームページ

「晴行雨筆」の日々から生まれるもの

調査と歌と・・・そして人 今榮

2015-03-07 20:23:46 | つながり
今榮 博司
 私が高槻先生と初めて言葉を交わした時のことは、今でもはっきりと覚えている。東北大農学部で開催された、宮城教育大学の伊沢先生による新世界サルに関する講演を聞きに行った時、私を見つけてくださって「こういうことに興味あるの?今度よかったらシカの調査に来ない?」と誘ってくださったのだ。私が大学3年の秋だったと思う。
 それをきっかけに岩手県五葉山でのシカの調査に何度も同行させてもらったし、研究室にも入れてもらい、金華山で卒論を書くことにもなった。私にとってはそれらが野生生物調査の原体験であり、今の国際協力コンサルタント(自然環境保全)としての仕事の原点ともなっている。それは、調査体験という意味だけではなく、現場で地元の人の話をきちんと聞くこと、現場調査に大学内外からいろんな人が参加することを当然のごとく受け入れること等の、研究以前に一人の人として現場と向き合う姿勢を教わった、という意味が多く含まれていると感じている。
 五葉山での調査には、研究室の人たちに加え、岩手大学クマ研関連の人たち、日本野生動物植物専門学校の学生さんたち、新潟にある米国の大学の分校に赴任していた米国人研究者ともご一緒させてもらった。公民館で同じ釜の飯を食い、調査で汗を流し、スーパーで食材を買い込んで皆で料理をした。夕食後は調査結果のとりまとめや翌日の打合せ、そして時々宴会になり、当時はやっていたWinkの「さびしい熱帯魚」を振り付きで歌うクマ研の人の物まねに大笑いした。調査で初めて会う人たちであってもすぐに打ち解け、人と人とが高槻先生を中心につながっていく、その感覚が不思議で且つ心地よかった。
 金華山での調査では、シカの生体捕獲による調査に多くの方々が参加した。シカの研究者のみならず、動物園の獣医師、日本獣医畜産大学の学生さんたち、日本野生動物植物専門学校の学生さんたちが多数いる中で、私を含む研究室の人間は決して主催者ではなかった。強いて挙げるなら高槻先生が主催者だったろうが、参加者全員をまとめるという感じではなく、高槻先生を中心にして参加者全員が緩やかにつながり且つ能動的に各自が動くので、まとめなくてもスムーズに事が進んだという感じがした。これもとても不思議な事であった。金華山のユースホステルの広間で卒論発表をさせてもらったのも、研究室で発表するのとは全然異なる異種格闘技のような緊張感があったが、一緒に現場調査をしている仲間と議論を共有するという、仲間に入る通過儀礼を全うしているような誇らしげな気持ちがどこかにあったのも覚えている。
 私は大学卒業後、青年海外協力隊→フリーター→英国での修士課程と変遷し、その後また日本で時間の余裕がかなりあった頃、高槻先生と一緒にスリランカに行かせて頂く機会を得た。2000年11月のことで、高槻先生のところで研究していたスリランカ人博士課程学生の現場調査に同行させてもらう、というものであった。私は完全な部外者であり、そんな私を受け入れてくれた高槻先生と当のスリランカ人学生に深く感謝するとともに、その懐の大きさに恐縮せざるを得ない。


2000年11月 スリランカ・キャンディ. 後列左から2番目今栄、その右パリタ、前列左から沖田、ローズ、高槻

 初めて訪れるスリランカでは、見るもの聞くもの食べるもの全てが新鮮であった。調査現場のシンハラージャ森林保護区のロッジでは、シンハラージャの生き字引と言われるマーティンさんとそのご家族、近くの農家の人とその娘さんたちと交流する機会もあった。ある夜は日・スリランカアカペラ大会となり、調査チームのガイド役を務めてくれたジャナカさんがスリランカ代表として美声を披露してくれ、日本代表は高槻先生が千昌夫の「北国の春」、そして私も松山千春の「恋」で続いた。熱帯雨林の奥深く、漆黒の闇の中で皆が集まるロッジのダイニングルームは、ポツンと光る蛍のようなものだっただろう。歌声も光も森の中でゆらゆらと揺れていただろうその間、そのダイニングルームには何とも言えない微笑みの空気がふんわりと満たされていたように思う。
 歌といえば、このエピソードも忘れることができない。東北大学理学部生物学科では、年度末に研究室対抗のかくし芸大会が開催されることになっており、私が4年の時には研究室の先輩や同輩とバンドを組むことになった。シカ調査の試料が山積みになっている実習室は研究棟から少し離れていたので、そのバンドの練習をするには好都合であった。日が暮れてから研究室仲間とギター等の楽器を抱えて、実習室で作業されていた高槻先生に「うるさくしてすみませ~ん」と断りつつ、「Daydream Believer」や「When the Saints go marchin’ in」の練習をした。その横で、高槻先生は黙々と作業されていた。翌日、実習室に行って同じように練習を始めようとすると、高槻先生が「昨日考えたんだけどさ~」と言い出したので、やっぱり実習室で練習するのはまずかったかなと身構えていると、
「あの部分はこういうコードにした方がいいと思うんだ」
 とギターを持ち出したので、皆ずっこけた。そんなわけで高槻先生にもバンドに入ってもらい、かくし芸大会当日は大いに受けたし、我々もとても楽しかった。普段まじめでとても堅そうな研究室の教授にもとても喜んでもらえた。
 その教授は、その後の飲み会で酒が入って思わず本音が出たのか、「生物学なんかどうでもいい。一番大事なのは自分の人生だ」と力強く語っていた。そんなことを言うような人とは全く思わなかったのでびっくりしたが、研究室という縁で集まった仲間が立場や年齢を超えて一緒に歌を楽しむのをその教授はご覧になって、我々が「よく学びよく遊ぶ」を実践していると感じてくれたのではないかと思う。意図していたわけではないだろうが、そのキーパーソンの一人は間違いなく高槻先生であったろう。高槻先生にとっては、研究も歌も人生を豊かにするものの一つであり、それを気負いなく心から楽しむ姿が様々な人を惹きつけ、それらの人々と緩やかにつながってきたのだろう。そしてその根底には、人を年齢や立場で区別することなく、一人一人に対して真摯に向き合うリスペクトがあると思う。いや、そのリスペクトは人に向けられているだけではなく、自然やその自然と地元の人たちのつながり、そして日常が根底から覆される自然の脅威までをも含んでいると思う。
 そういう学びを言葉ではなく行動を共にして得られたことは、私の大学時代の貴重な財産であり、そういう財産を得られたことを非常に幸運に思う。
(1992年 東北大学卒業)

演奏のときのようすは沖田さんの原稿にあります(高槻)。

いつでもどこでも高槻先生 沖田

2015-03-07 20:18:23 | つながり
沖田(仲尾)章子
 卒業して、20年…も月日がたちました。10年以上お会いできていません。
でも、高槻先生と電話でお話ししていると、それが1年振りでも「こんなことがあったよ。」「こんなものをみつけたよ。」調査から今さっき帰ったばかりの先生と、数日振りにお話ししている、そんな気持ちになります。
 先生と山を歩くと、「おっ」と先生がみつける木の実や花、昆虫、骨、フン…かわいい!?いとしいものにたくさん出会うことができます。急に地面に腹ばいになって写真を撮ったり、木の枝でほじほじしたりして、びっくりすることも多々ありました。先生と行動を共にすると、研究室で、調査で、そして、ご家族…素敵な人々に出会うことができます。出会った人々、動植物、景色、大切な大切な宝物です。


1991年3月 東北大学生物学科年度末パーティで演奏. 左手前今栄(ヴォーカル)、左後藤、中央沖田、右高槻

 植物生態研時代(そのころ、先生は今の私よりお若かった…)、卒業研究もご指導いただきました。「これ役に立つよ」英語の論文を数冊、笑顔でぽんっと渡していただき、セミナーでは質問ビシバシで、私は冷や汗たらたらでした。でも、青葉山のフィールドを何度も一緒に歩いていただき、教育実習で留守にしたときは、木の実の数を数えていただいたりしました。先生は、金華山の朝食で毎日出る納豆が苦手だったり、運転がハードで生物系の車はへこみが多かったり、宿泊所の畳に小さな赤いダニがぞろぞろ、それをたどると先生のフィールドコートだったり、いつでもどこでも誰にでも自然体のたかつき先生です。
 そして、先生からのお手紙やメモ、コメントなど、自然体の文字で、たくさんの温かい大切な言葉をいただきました。美しくも難解なたかつき文字、その読解能力(英語の論文の読解は苦手でしたが)は、歴代の研究室の学生の中で1、2の実力を争うと自負しています。
(1992年 東北大学卒業)



あの頃は楽しかったです! 黒沢

2015-03-07 20:09:05 | つながり
黒沢 高秀
 昔、テレビに『野生の王国』という番組がありました。白黒テレビの時代でしたが、毎回食い入るように見た記憶があります。身近にいる昆虫たちの飼育とこの番組が、私が生物学を志した原点となっています。その後植物に転向し、東北大の生物学科に入りましたが、大型動物も昆虫も研究室がないと言われており、迂闊にも、高槻さんが哺乳類に軸足のある研究者と理解したのは院生になってからでした。懐の深い高槻さんや高槻研の皆さんは、別講座の私を温かく迎え、金華山や五葉山でのシカの調査に何度も連れて行ってくださいました。シカの姿や痕跡を追って一日中歩き回ったり、炎天下でシカの糞を拾ったり数えたり…。あぁ、これが哺乳類の研究かと、ちょっと憧れの世界に足を踏み入れた気分になったものです。地元から調査に参加した人がとっておきの場所に案内してくれてのキノコ狩り、夜飲ながらの生き物談義など、朝から日が暮れるまで植物を採集して夜中まで酒を飲みながら標本を押している植物分類学の調査(私はこちらも好きですが)とは異なる、生態学の調査の雰囲気も少し味合わせて頂きました。もっとも、『北に生きるシカたち』に出てくるような、厳しい調査は一度もなかったので、初心者の私には配慮して、そういう楽で楽しい調査の時だけ声をかけてくださったのかもしれません。
 高槻さんといえば、周りに好青年ばかりというイメージがあります(私に近い世代だと、さとまさや伊藤君)。自分の価値観や倫理観をしっかりと確立していて、人としても、研究者としても真っ直ぐに生きる。そんな高槻さんの姿勢が、自然とそのような人ばかりを集めるのでしょうか。そして、なぜか慕う女の子は皆かわいかったような気が…。調査に行くと、神社が宿を提供してくれたり、港と宿の間を車で送迎してくれたり、自治体職員が一緒に調査や夜の飲みに参加したり、地元大学の研究会と同宿して一緒に酒を飲んだりと、毎回のように地元との関わりがあるのが印象的でした。当時の東北大の生物の先生方は、マクロ系の方も、それぞれの分野での第一人者という意識が強かったからか、地元との関わりがあまり上手ではなかったような気がします。地元とのコミュニケーションを自然体で行い、いつの間にか関係する人たちが集まり、調査支援の体制が整ってゆく。最近ようやく、大学の地域貢献が重要視されてきましたが、考えてみれば、20年も前に、高槻さんはそのようなことをスマートに実現していたのですね。地域の同じ問題について、地元の人や自治体職員と同志として取り組む。福島に来て、自分も目指しているところですが、なかなか高槻さんの域に達することはできません。
 高槻さんや高槻研の調査のファンでしたが、私は、文筆家としての高槻さんのファンでもありました。じっくり読んだ初めての本は『北に生きるシカたち シカ、ササそして雪をめぐる生態学』(どうぶつ社、1992年)。序章の冒頭の臨場感あふれるセンサスシーンは圧巻です。売れ行きが良かったのに再版されなかったそうで、入手困難でしたが、最近丸善から復刻されたようで良かったです。
 『動物と植物の利用しあう関係(シリーズ地球共生系5)』(鷲谷いずみ・大串隆之(編)、平凡社、1993年)の「有蹄類の食性と植物による対採食適応」の章は、専門書ですが、シカと植物の関係を様々な視点からわかりやすく説いています。高槻さんの研究を理解するきっかけになりました。この本の表紙カバーには、高槻さんのかわいらしいシカのイラストが出てきます。
 『野生動物と共存できるか―保全生態学入門』(岩波書店、2006年)は、生徒向けですが、大人にも読み応えがあります。生物保全に必要なものは「動物や植物をほんとうに好きになること」「かわいいから好きだというだけではなく、動物のことをよく知ったうえで理解すること」。学生達に説明しやすい言葉です。哺乳類の保全の現場で、愛護団体や個人との軋轢に様々なご苦労された中で編み出された言葉ではないかと推察しています。
 個人的には、『ウロボロス Ouroboros』(東京大学総合研究博物館ニュース)5巻2号の「ほこりをかぶった博物館―博物館と保全生物学の新しい動き―」という文章が気に入っています(単に私が標本好きだからかもしれませんが)。歯切れの良い文章、明快な論旨、後からの展開のため前半に仕込みながらの起承転結の文構成、そして先を見据えた大きな視点が見られます。高槻さんの文章の真骨頂と勝手に思っています。
 高槻さんが東大に移られてからは、野外調査に一緒に行くことはなくなりましたが、農学部の時も博物館の時も、私が東大の標本室に調査に行った際に、毎回のように研究室に顔を出させていただきました。私は地方に就職したので、調査にご一緒する機会がたくさんできると期待していたのですが、福島県内ではシカの生息している地域がほとんどなかったこともあり、ほとんどお声がかかりませんでした。やがて、高槻さんが麻布大学に移られてからは、なかなかお会いする機会がなくなってしまいました。
 今年度で退官とのことですが、きっとこれからもシカを追い、野山を駆け巡ることと思います。あのような楽しい調査を自分の学生たちにも味合わせたいです。ぜひまたお声をかけてください。
(東北大学大学院(大橋研) 1994年修了)


これからも 須田

2015-03-07 20:01:58 | つながり
須田 知樹
 余人の退職にあたっては、「お疲れ様でした。」とか、「第二の人生の始まりですね。」とかいった言葉がふさわしいのだろう。
 しかし、研究者、教育者、活動家、文化人、趣味人…、幾つもの側面をお持ちになり、そのいずれもが凡人の及ぶところではない先生のご退職に際しては、どのようにお声がけ申し上げたら良いのか分からない。ご退職後も、研究・教育にこれまでと変わらず熱心に取り組まれることは間違いないだろうし、本務の有無にかかわらず、私事・活動を精力的に行われることも、これまでと変わらないだろう。ご退職という先生の人生にとって大きな節目に、本来であれば、労いや祝福のお言葉を申し上げるべきだが、上述のように、適切な言葉が見つからない。ご退職後も、先生が私にとって師匠であることも、むろん変わらないわけだから、大変無礼ではあるが、「これからも不肖の弟子のご指導よしなに」と述べ、先生との思い出を振り返りたい。
 先生からは、研究、教育のご指導を賜ることしばしばで、このような先生の側面については、皆さんよくご存じのことと思う。しかし、ふとした折に垣間見える私人としての先生のパーソナリティーがチャーミングで、普段「弟子」として接している立場の私からは、意外とも思えることもある。
 いつのことだったのかは覚えていないが、先生がおじいちゃんになったという話題で盛り上がったことがある。目を細めてお孫さんのことを語り、満面の笑顔で数々のエピソードを披露される様は、先生というより好々爺という形容がふさわしいほどであった。やがて、お孫さんから見た叔母、母親ではない先生の娘さんの話になり、「自分の想像以上に孫をかわいがる」というお話をされた。そのしばらく後、急にまじめな顔になって、「何故、娘たちは母親でもないのに孫をかわいがるのか?」という命題を真剣に先生は考察し始めたのだ。しかも、生物学的に。暖かくご家族のことを話しつつ、ナチュラルボーンに研究者であること。こんな側面が、先生の人格に深みを与えているのだろう。
 きっとご退職後も、暖かい目で自然と人を観察し、鋭い眼差しでそれを考察する、そんな生活を送られるのでしょう。やはり、先生のご退職にあたって「お疲れ様でした」は相応しいとは思いません。いつまでも、先生から教わることを楽しみにしています。(1993年 東北大学卒業)



あの頃の高槻さん 内山

2015-03-07 19:55:37 | つながり
内山 隆
 私は昭和51年4月(1976年)東北大学理学部生物学科の飯泉研究室の学部研究生として、生物棟6階北側の部屋に入りました。同室の辻村さんが「北地」と命名された部屋には、男性ばかりのH(穂積さん)、O(大久保君)、K(菊田君)、U(内山)、T(辻村さん)が居て、南側の部屋に居た高槻さんとお会いしたのは、金華山に出かけられていたためか他の方たちより少し後だったと思います。当時の飯泉研は、たくさんの教員・学生を抱えており(21名)、高槻さんは院生の筆頭でした。
 翌年、私は大学院に入学し、昭和57年3月に修了するまでの6年間と大学院研究生の半年を、あの青葉山で過ごしました。その間、高槻さんには公私にわたり大変お世話になりました。卒業後、お会いする機会があまりなかったのですが昨年(2013年)は、山形大の辻村さんの最終講義と、飯泉先生の墓参でお会いできました。1月30日山形に向けて乗り込んだ新幹線の中で「内山さん」とソフトな声があり、そばに高槻さんが立っておられました。「偶然ですね!」といいますと「必然だよ」との返事、あの頃の高槻さんが出現しました。
 いろいろな話のなかで、2011.3.11に触れた時、フィールドとしていた太平洋岸の人々への思いや原発事故後の変わらない現実への戸惑いを共感できたように思います。私の投稿論文と編集者とのやりとりの話に対しては、高槻さんご自身は査読者の要求を相手にせず、さらに審査の厳しい別の雑誌に切り替えて、受理されたとのことでした。高槻さんの戦う姿勢と前向きに問題を解決する能力の高さに敬服しました。
 あの頃の研究室セミナーで発表された高槻さんの資料に、「金華山島における野外セミナーの調査報告」があります。1976. 6.4の数字の9がギリシア数字のロー(ρ)に似た洒落た字体で書かれています。また、シカの利用する植物の説明に集合のベン図を利用されていました。同年、10月28日のセミナーでは「ナガバヤブマオとハンゴンソウとの種間関係に及ぼすニホンジカの影響」とあり、春に食害を受けたヤブマオが、晩夏には再生芽によって優占種であったハンゴンソウを凌ぐようになることが、高槻さん自作のシカの押し印付きの資料に記されています。(このレジュメは添付しました)。流れるような字体と簡潔な記載、上から4行目の修正部分「ある場合には」には丁寧さも感じられます。



 飯泉研のセミナーは発表内容が多岐にわたっており、私にとって毎回、理解が及ばない経験が続いていたように思います。今、振り返ってみてもモーリッシュ*の肖像画が睨んでいる会議室でのセミナーは、緊張した雰囲気に包まれていました。その中、高槻さんの発表資料はセンスの良さと、ほんとうに好きな研究をしている者のしなやかさを感じたものです。
 岩手県の五葉山のシカの調査に参加した時、山小屋で地図を照らしていた私に、懐中電灯の位置を変えるよう「もっと光を」、「ゲーテ最後の言葉だよ」と言われました。また、コンサイスの英語辞書にある「pony tailのイラストが可愛い」とか、何気ない会話にも博識さと親しみやすさを感じたものです。
 山形大学の辻村さんの最終講義では、大教室の前列中央に高槻さんと座ってしまいました。辻村さんもやりにくかったと思います。講義の後で、高槻さんはしつこく?質問をされましたが、あの頃の「タカツキ」「ツジムラ」と呼び合う信頼関係が再燃していたのではないでしょうか。あくまでも前向きで、弱音とは無関係な姿勢は昔と変わらず、お会いしてもしなくても、高槻さんが醸し出す雰囲気は私の中で健在です。多方面に興味をもたれ、動植物以外にも音楽、イラスト、書道などの技能や博識ぶりは『唱歌「ふるさと」の生態学』に結晶しているようです。
(1981年 東北大学大学院博士課程修了)

*モーリッシュというのはハンス・モーリッシュで、東北大学の初期のオーストリアから来た「お雇い教授」です。彼が来日したとき、文部省の役人が「先生、仙台などに行ってもろくな文献もないので、東京大学におられたほうがいいですよ」と言ったとき、「私は文献を勉強するために来日したのではない。私は自然そのものから学びに来たのだ」と言って仙台に来たという話が伝説のように伝わっている。私はこの話がとても好きだ。生物学教室の会議室にはこのモーリッシュ先生の肖像ががあり、威厳のある顔で睨むように部屋を見おろしていた(高槻)。



高槻先生への感謝をこめて 岡田

2015-03-07 14:52:42 | つながり

岡田 あゆみ

 私が高槻先生に初めてお目にかかったのは、今から15年以上前、修士課程に在籍して金華山島に調査に行った時です。金華山島のシカの調査をしていることがきっかけになり、その後、北大の博士課程に在籍していた期間と学位取得後の数年間、東大で高槻先生に指導して頂きました。当時高槻先生の研究室には、私の他にも他大の学生や大学生ではない人などさまざまな人が出入りしていました。また博物館では他分野の研究室の学生、博物館の職員、留学生などが同じ部屋に席を持ち、自由な雰囲気のなかで研究することができました。博士課程の時期を東大博物館で過ごし、高槻研で先生の指導を受けられたことは、私にとって一生の財産です。
 今から考えると、高槻先生はよく私の指導を引き受けてくださったと思います。私は高槻先生と金華山島で研究をしているという点で接点はあったもの、東大の学生だった事は一度もなく、高槻先生にとっては指導する義務はない他大学の学生でした。また私の研究は金華山島のシカではありましたが、内容は主に遺伝分析に関するもので高槻先生にとっては専門ではなく、私の研究を指導することは先生にとって簡単ではなかったと思います。つまり私が東大に来るのを断る理由は、探そうとすればいくらでもあったはずなのです。しかし高槻先生はそんなことは一度もおっしゃいませんでしたし、先生から私の指導をいやがる雰囲気を感じた事も一度もありませんでした。私だけが特別だったのではなく、指導を求める全ての学生を当然のように指導してくださっていまた。どんな学生であっても先生の方から見捨てるという事はなかったと思います。当時は私も深く考えていなかったのですが、現在自分が学生を指導する立場になって、それがどれだけありがたい事だったか分かります。先生が当時私の指導を引き受けてくださったことについては感謝の気持ちしか浮かびませんし、今、私が不出来ながら研究を続けていられる立場にあるのは高槻先生のおかげだと思っています。
 さて、東大に出入りしていた時もその後も、高槻先生にはたびたび金華山島の調査でご一緒させていただきました。調査の常連には有名なことですので、他の卒業生もきっとこの文集に書かれると思いますが、調査地での先生は普段に増して楽しそうで、いつも上機嫌で鼻歌を(こっそりではなく、かなり堂と)歌ってらっしゃって、調査地では参加者の写真を隠し撮りするのが好きなちょっとお茶目な先生になります。先生が金華山島でうきうきと登山道を歩きながら先生が聞かせてくださる植物の話はいつも興味深く、植物や自然に対する愛情を感じる内容でした。私は先生のような植物の知識はありませんが、先生が楽しそうに山を歩く様子を拝見して、なんとなくフィールドワークは楽しいものだという刷り込みがされたように思います。また調査の夜には必ずミーティングが実施され、皆、調査の疲労でうとうとしながら議論に参加していたのも忘れられない思い出の一つです。そして最後の夜のミーティングでは先生が隠し撮りした写真をスライドショーで投影するのが慣例で、私が連れて行った若い学生達は“偉い先生”が示す意外な一面に目を丸くしておりました。
 金華山島の調査には金華山を調査地にしている研究者だけでなく、他大学や専門学校の学生、社会人などたくさんの人が参加していました。中でも高槻先生の講義がきっかけで調査に参加した学生の割合は高く、その中には何年にも渡って参加してくれた人もいました。彼らが調査に参加しつづけてくれたのは、もちろん金華山島が良い場所だから、という理由もあると思います。しかしそれだけではなく、金華山島の調査チームが作り上げた寛容さ、というか、誰にでも開かれた明るい雰囲気の効果も大きかったのではないでしょうか。そして、そうしたオープンな空気を作っていた一人は間違いなく高槻先生でした。大学でも調査地でも、高槻先生はいつも周囲の人たちを自分の身内のように扱い、わけへだてなく責任感と愛情を示してくださいました。先生が私たちにしてくださったことにはただただ、感謝しかありません。私は今のところ先生のように愛情深くも寛大でもありませんが、これから先生から教わったことや受けた恩を少しずつ後輩に返して行きたいと思います。
 この15年の間には、先生の娘さんがご結婚され、先生はいつの間に孫がいるお立場になられ、そして退官、と月日の経つ早さを実感します。先生のこれからの人生設計については伺っておりませんが、これまでアクティブに活動されてきた先生ですから、さぞたくさんのご計画をお持ちだろうと思います。簡単に研究を離れる事もできないでしょうし、これまで以上に自由なスケジュールで、さらに充実した毎日を送られるのではないかと予想しております。お忙しいとは思いますが、先生にはこれからも不出来な弟子である私たちのご指導をどうぞよろしくお願いいたします。
 最後に、先生がこれからもお元気でますます楽しい毎日を送られることをお祈りして、この文章を終わらせていただきます。高槻先生、本当にありがとうございました。
(2001年 北海道大学大学院博士課程修了)

退職記念文集「つながり」

2015-03-07 10:22:00 | つながり
 はじめに

 私の定年退職(2015年3月、麻布大学)に際して南正人さん、辻大和さん、立脇隆文さん、海老原寛さんが中心になって「つながり」という名の文集を作ってくださいました。最終講義の日にこれをいただき、翌日ゆっくりページを開いて驚きました。実に多くの人が文章を寄せてくださっており、その文章が私にとって、あるものはなつかしく、あるものは共感でき、あるものは意外でもあり、とさまざまで、実にありがたいものでした。あとで聞いたら、製本されたのは1冊だけで、それを私が頂戴したのですが、寄稿者にはCD版が送られるということでした。文集のなりたちから、私個人に宛てたというものもあるようでしたが、私としては「秘蔵」するのはもったいないと思い、執筆者に打診して了解を得たものをこのブログにアップさせていただくことにしました。私のわがままをご了解くださった著者の皆様には厚くお礼申し上げます。
 なお文集は写真つきでしたが、ここでは一部の写真を省略させていただいたことをお断りしておきます。

2014年4月
高槻成紀

もくじ
「つながり」を読んで(高槻)

『願えば叶う』をありがとう

2015-03-07 10:16:40 | つながり
大泰司 紀之
 私が高槻さんと知り合ったのは、彼が東北大理学部の大学院生の頃、私は北大獣医学部の解剖学教室の助手から、歯学部の解剖の講師になってまもなくの頃だったと思う。私は昭和39年(1964年)に学部を卒業してすぐ助手になるという、研究職就職難の現今のみなさまには申し訳ないような幸運に恵まれた。そして30才の時に系統学や比較歯学「も」やりたかったので歯学部の解剖に移った。
 高槻さんは植物生態が専門で理学部の所属;つまりピュア・サイエンスを志向する場にいる。私は形態(解剖学)が専門で、農学系;つまり応用学志向である。このズレは以後ずっと持ち越して現在に至っているように思う。つまり私は「シカを食べてシカと共存しよう」とか、「間引いた個体の毛皮をスキーに貼って、ゼニガタアザラシと共存しよう」などと提唱している。一方高槻さんは、環境変動を生態学的に解説などして、高邁な動物保護論などを展開している。
 高槻さんの金華山の調査を覗きに行った折、高槻さんによると、金華山のシカは縄張りを厳守して、隣の縄張りの草は茂っていても、自分のところの草がなくなれば餓死するという。それなら死亡個体の頭骨を収集して「情報源」にすべく、skullを集めて齢査定などするよう、持参していた牛刀と砥石を渡した。その後阿部真幸さんが、金華山シカの生命表を作った。ちょうど奈良シカと野生ジカの中間的な寿命を示し、「神鹿」でも春日大社と金華山黄金山神社では差があった。
 お宮に巫女さんはつきものである。奈良シカを調べた春日大社では「花嫁控室」に寝泊まりしていた。結婚式のある日にはお化粧をしに来た花嫁一行に午前6時に追い出される。近くに巫女さんの控え室もあり、即席ラーメンなぞで貧しい食事をしていると、お母さんが作ったと重箱入りのご馳走を差し入れてもらった。ルックスの良い共同研究者も一緒だったせいらしい。黄金山神社では巫女さん控室は二階にあり、一階の高槻さんたちとの交流はなさそうだった。
 高槻さんには大変感謝していることがある。増井光子さんの追悼記念誌『願えば叶う』を編集してくれたことである。実は私は増井さんと野外乗馬フレンドだった。チベット・新疆・大興安嶺などの調査で、車で行けないところはもっぱら騎馬で調査していた。帯広の近くで野外乗馬クラブを持っている獣医さんが、孫の誕生祝に素晴らしい野外乗馬用の馬(インディアンポニー×アラブ×ハフリンガー)を買ったというので、半分出資して、同じ年に生まれた私の娘との共用とした。3歳になれば馬はヒトを乗せられるし、子どもも乗馬が出来る。その馬も娘も、十勝の野外乗馬大会の折などに増井さんは可愛がってくれた。
 増井さんは獣医師志望の女の子のアイドルで、北大獣医で講義をお願いした折などは、講義の後の懇談会で女子学生たちは取り囲んで離さず、彼女はビールも飲めずつまみも食べられないほどだ。増井さんの記念誌がどこからもいつまで経っても出ないので、気を揉んで過ごしていた。私がリタイヤしてなかったら音頭を取りたいとさえ思っていた。すると高槻さんが麻布大の学内用のものを作ったという。早速送って頂いた。高槻さんが出すべきと万難を排して編集しただけあって、素晴らしい内容となっている。少し手を加えて出版社から出して、広く後世に残すべきと考えている。
 高槻さんは、シカの動態などについて植物生態学的なデータや理論に基づいて、学会などで発表され、説明が分かりやすくて大変勉強になった。それらの仕事をしては次々と論文を出して、謹呈してくれていた。私はいろいろ「障害」があってなかなか論文にならず、いつも彼に「いつかきっとまともに研究して、論文を書きまくる」と話していたものだ。昨年北大総合博物館の講習の一環として、哺乳類学に関する講義・実習を頼まれた。そこで前からやりたかった、「動物考古・古生物と狩猟管理学のための―シカの骨・歯・角の形態学」というのを実施した。すると本業、解剖屋の血が騒いで、同名の本を書くことや、シカの全身骨格のダンボールクラフトまで手掛けることになりそうだ。やはりケータイは、携帯も形態も重宝だ。そろそろ高槻さんへの広言を果たすべく、じっくり本格研究に取り組みたいと思っている。
頑張って生き生きと仕事を進めている知人は、歳をとっても励ましになるものだ。高槻成紀さん、ありがとう。
(北海道大学総合博物館)

高槻成紀さんとの絆:日本の「動物と植物の相互作用」研究事始め

2015-03-07 10:07:57 | つながり
湯本 貴和
 固着生活をおくる被子植物にとって、自分の遺伝子を空間的に広げる場面がふたつある。花を咲かせ花粉を受渡しする送粉と、果実をつけ種子を蒔く種子散布である。ふだんは地味な植物が華やいでみえるときであり、人々の注目をあつめるときである。なぜ、植物は、送粉と種子散布のときだけ目立つのか?多くの花や果実は、なぜ鮮やかな色やかぐわしい香りをもっているのか?
 これら問いに答えるには、植物の生活のなかでの動物の役割を考える必要がある。いったん定着すると、自分では動くことのできない植物は、さまざまな動物に食われる危険にさらされている一方で、動物を巧みに利用する術をもっている。植物のいくつかの性質は、関わりあいのある動物に対する適応、あるいは動物との共進化として理解できるものである。
 今でこそ、日本生態学会で「動物と植物の相互作用」は口頭発表もポスターも数多くある大きなひとつのセクションであるが、わたしが大学院で花と昆虫の研究を始めた頃は、日本でこの分野を志しているひとは指折り数えるくらいであった。当時でも欧米では多くの研究者がこのテーマに取り組み、おもに中南米熱帯に出かけて、興味深い論文を次々に発表していた。樹木の花はおもに樹冠に咲くので林冠生物学の一分野としても、花と送粉者の関係が新しいトピックであった。冒頭にも書いたように、少し考えてみれば「動物と植物の相互作用」にまつわる研究テーマはいくらでもある。この日本列島の自然を手始めに、東アジア、東南アジアとフィールドを拡げていけば、将来、とてつもなく魅力的な分野になるだろうということは容易に想像できた。しかし、30年前は動物学と植物学との間の壁がいまでは信じられないくらい厚く、それを跨いで研究を始めることは何か特別のことのようだったと記憶する。学際的な研究の重要性ということが最近よく語られるが、「動物と植物の相互作用」の研究は、それ自体がプチ学際だったのである。
 概して、植物系の研究者の動物に関する知識よりも、動物系の研究者の植物に関する知識のレベルが高かった。少なからずの陸上動物は植物を餌にしている、あるいは住処の重要な要素であるので、野外で動物を研究するためには、ある程度の植物の知識が必要だからだ。逆に植物の研究者は動物を知らなくてもまったく問題にならないと思われていた時代だった。当時、まだ入域が困難だった中国・雲南省にいった著名な植物分類学の先生がいて、その報告会で貴重なサルの写真を見せてくださった。「そのサルはなんですか?」という霊長類研究者の問いに、「サルはサルです。」と先生が屈託なくきわめて明快に答えられていたのを思い出す。
 そんななかで日本各地に何人かの先達がいた。大阪市立自然史博物館でイチジク-イチジクコバチ関係やドングリ-シギゾウムシ関係の研究の草分けであった岡本素治さん、東京大学小石川植物園でツレサギソウ属というラン科植物の送粉過程を研究されていた井上健さん、それに当時、東北大学でシカとシカに喰われる植物の研究をされていた高槻成紀さんだった。どんな具合に高槻さんと初めてお目にかかったかはよく覚えていない。しかし、生態学会でもっとこの分野に注目してもらおうということで、高槻さんと自由集会などを数回にわたって企画した。そのうちに上田恵介さんも加わって自由集会を続け、築地書館から『種子散布』の2冊本も出版した。日本植物学会や種生物学会でも、共同で企画を行なった。この頃のおつきあいは、一回り以上の年齢差があるにしても学問的同志ともいうべきものであり、いまでも高槻さんとは心の絆というものを感じている。
 それから日本における「動物と植物の相互作用」の研究は、飛躍的に進展した。対象も種子散布、送粉、被食防御から、種子食害やアリ植物に至るまで、専門化が進んだ。フィールドワークに加えて、分子系統解析や化学分析も標準装備となった。日本列島だけでなく、東南アジアやアフリカにも調査地域が広がり、長期に海外に滞在する大学院生も増えた。多くの大学院生が高槻さんとの自由集会などの企画に参加し、それぞれの研究を開花させていった。
 わたしはいまでも初めてのフィールドに行き、花や果実を観察して、どんな動物がやってくるかと待つ、あのワクワクする気持ちがたまらなく好きである。花の形態や色彩などから、予想どおりの昆虫や鳥がやってきたときの喜び、予想もしなかった動物がやってきたときの驚き、結局、それがいままで研究を続けてきた一番の原動力だったような気がする。いまはなかなか花や果実の前に座って一日中見ている時間はとれないが、定年後には、またゆっくりといろいろな場所でいろいろな花や果実を観察できればいいなと思っている。
 高槻さん、長い間お疲れさまでした。これからもお忙しいことでしょうが、また学問を楽しんでください。
(京都大学霊長類研究所)


高槻先生との出会い~自然科学の面白さを伝える~ 清水海渡

2015-03-07 10:00:44 | つながり
清水 海渡
 私が、初めて高槻先生を知ったのは高校生の頃である。岩波書店発行の「歯から読み取るシカの一生」と岩波ジュニア新書の「野生動物と共存できるか」を読んだことがきっかけであった。本には、フィールドでの発見やその時の感動したことなどが鮮明に描かれており、研究がどんなことであるか、まだ分からず、この世界の入口に立ったばかりの私には、とても刺激となった。その後、私が高槻先生と直接お会いすることが出来たのは、大学3年生の時である。高校生の頃、共に地学研究部で活動しており、野生動物の調査・研究を始めた奥津憲人が、麻布大学野生動物学研究室へ在籍するようになった。私自身は東京農業大学に進学し、やはり野生動物学研研究室に在籍していた。
 大学3年生(2010年)のある日、奥津から電話があり「今度、カヤネズミについてのセミナーあるけど外部の人も聴講OKだから来ない?」と誘われ、当時、小型哺乳類ばかり追いかけていた私は喜んで出席させてもらった。また、私、奥津と共に高校生時代に、動物の調査を行い、当時、首都大学東京の動物生態学研究室に在籍していた松山龍太も一緒に参加した。高校生時代の野生動物三バカトリオが揃って麻布大学野生動物学セミナーを訪れた瞬間であった。
 2010年10月18日に行われた野生動物学セミナー“川原で遊ぼう会”の辻淑子氏による「カヤネズミと市民活動による野生動物保全について」のお話を聞くために、その時、初めて麻布大学野生動物学研究室へ伺った。辻氏のお話は、カヤネズミの魅力に始まり、市民活動の面白さと難しさ、カヤネズミの生態にあう草刈りの方法、行政との関係性、そして地元住民との関係性についてだったことを今もよく覚えている。特に印象深かったのはカヤネズミとその生育活動を保全する中で、行政と調整してやっと保全したカヤ場を地元の方が御厚意で刈ってしまい、川原という公共の場所で保全していく難しさに直面した話であった。私は、自然環境を抱える都市公園の管理運営に携わっているため、まさに今、この話を身に染みて痛感している。
 セミナー終了後、研究室で懇親会があるので参加しないかと高槻先生ご本人から誘っていただき、遠慮のない私と松山は喜び勇んで参加させて頂いた。私が、研究室に行って、まず驚いたのは“アットホームな雰囲気”であった。学生手作りの料理が机にズラっと並べられており、そこに先生と学生、講師の方達に加えて、私たちのような一般聴講者も混ぜて頂き、仲良く並んで懇親会が始まった。他大学のどこの馬の骨とも分からない私たちに高槻先生はとても気さくに話しかけて下さった。「どんな研究をしているのか。」「今日の話を聞いてどうだったか。」「高校時代と大学で研究がどう変わったか。」などなど、様々な話をさせて頂いた。特に、「高校生から野生動物の調査をやっている学生なんて少ないのだからがんばって研究しなさい」というお言葉が心に深く残っている。また、衝撃的だったのは、先生と学生の意見交換がとても盛んに行われていたことだった。セミナーのテーマについて、聞いてどうだったか、先生と学生が対等な研究者として意見交流を盛んにやっている光景を見て、私自身も参加させて頂き、非常に有意義であったこと、また、感動したことを覚えている。
 それから、私は東京農業大学を卒業し、一年間は(財)進化生物学研究所で研究補助員をしながら、ふらふらとしていた。その後、ひょんな事から県立津久井湖城山公園で自然解説員として勤めることになった。その傍ら、学芸員実習でお世話になった相模原市立博物館で秋山さんに声を掛けていただき、博物館の動物冷凍遺体の標本処理を手伝うことになった。2014年3月の終わり頃、秋山さんに「今度、麻布でセミナーやるけど来る?」と言われ、大学3年生の頃を思い出しながら「喜んでいきます。」と答えた。そして2014年4月15日、秋山さんによる50回記念「地域の鳥の記録を読み解く」セミナーに出席した。
 ほぼ4年ぶりに参加させて頂いた野生動物学セミナーと研究室での懇親会は変わらず、とても楽しく有意義な場であった。懇親会で話していると、高槻先生から、ふと、「6月に君のセミナーを予定しているのだけど何日にする?」と言われた。突然の話に私は焦り、振り返ると、してやったり顔の秋山さんがいた。断れるはずもなく(断る理由もないのだが…)、私なんかでよいのかと戸惑いながらも、承諾させて頂いた。2ヶ月弱の猶予を貰い、テーマを考えたところ、今博物館で手伝っている「標本の話」をしようということになった。まだまだ経験の浅い私に出来ることは何かと考え、標本の話と共に、野生動物の世界に入るのにどんなことに影響されてどんな道を歩んできたかをテーマとした。私自身、振り返りというものをあまりしてこなかったので、そういった点でも非常に良い機会をいただいた。
 いよいよ、6月10日に、セミナー本番を迎え「標本と語り合う~死体から見えてくること~」というなんとも不気味なテーマで話をさせてもらった。現役の学生や大学教諭達を相手に不気味なテーマで、経験の浅い私に何が話せるか、あまり自信がなかったが、話し終えて学生たちが標本を見ながら、とても楽しそうにしている様子を見て、ほんの少し“自然科学を研究する楽しさ”を伝えられたかなと安心した。また、高槻先生に「彼の様な若い人がこういったことに熱心に取り組んでいることは素晴らしい。」と身に余る言葉をいただき、たいへん嬉しかった。懇親会では、また変わりなく、学生手作りの料理で、もてなしていただき、熱心な学生たちと標本や動物について色々なお話しをさせてもらった。その時、大学院修士1年生の一人でフクロウの研究をしている落合茉里奈が標本作りをやりたいと声をかけてくれた。その後、博物館で標本作りをする際には、落合をはじめとした学生数名が博物館で共に標本作りをするようになった。共に標本作りをしていると、フットワークが軽く、興味あることに打ち込んでいる麻布大学の学生たちは自然科学の楽しさを教えている高槻先生と南先生の学生指導の賜物であろうと感じる。
 高槻先生には、私が学生の頃、現場で仕事を担う人から自然科学の楽しさを伝えてもらう機会を頂いた。次いで、私のような若輩者が学生たちに伝える側になる機会を与えて下さった。高槻先生は野生動物学研究室ご退任の後、麻布大学に残られ大学博物館について御尽力されると聞いている。ぜひ今後もそういった学生と自然科学の楽しさを共有する機会を創っていただき、私も巻き込んでいただけたら嬉しいと思う。そして、また、ご指導いただく機会を頂戴出来たなら幸いである。
(神奈川県立津久井湖城山公園)


高槻成紀さんと乙女高原

2015-03-07 09:57:25 | つながり
植原 彰

■高槻さんとの出会い…の前に、乙女高原の紹介
新宿から中央線特急で1時間半。塩山駅に降り立つと空気感が違います。そこからさらに車で1時間走ると、そこはもう別世界。下界が40℃近い日も気温が30℃を超えません。涼しい風が頬を撫でます。

 私たちのフィールド乙女高原は山梨県の北部、秩父山塊の懐にあるプチ草原です。標高1700m草原部分の面積は10ha弱。古くから地域の採草地で、晩秋に地元民が草を刈り、運び出していましたが、1951年からはスキー場として整備するために、やはり晩秋に草刈りが行われてきました。草刈りによって遷移が阻まれ、亜高山性の多様な植物が花を咲かせる、美しい草原景観が保全されてきました。
 2000年にスキー場が閉鎖され、草刈りの継続が危ぶまれたとき、豊かな生物多様性が目の前で観察できる乙女高原の自然を次の世代にバトンタッチしていこうと、 ボランティアを募っての草刈りが始まりました。こうして行政と協働し地域の自然を守っていこうという乙女高原ファンクラブが誕生しました。現在会員数は660名です。

■高槻さんとの出会い…乙女高原フォーラムにて
 御多分に洩れず、乙女高原もシカの食害が顕著になってきました。乙女高原ファンクラブでは年に一度、「自然と付き合う達人」を招いて乙女高原フォーラムというイベントを開催していますが、現麻布大学の南 正人さん (2007) や東京農工大学の星野義延さん (2009) らを招いてシカにどう対処していったらいいかをみんなで勉強したり、小さなシカ柵を設置して (2010.5) その後の様子を見守ったりしていました。さらなる勉強が必要だと考え、高槻さんに講師をご依頼したところ、快く引き受けてくださいました。2011年2月6日、第10回乙女高原フォーラムで高槻さんが話の最初におっしゃったことがとても印象に残っています。「わたしにシカ問題解決の処方箋を期待しておられるとしたら、それはダメです。シカについて教科書的な勉強をしてノートにいっぱい取って帰ろうと思っても、それも期待に沿うことはできません。わたしのお話で、この問題はとても難しいということを理解し、どう難しいか、それを考えるきっかけにできればいいかなと思います」

※フォーラムでの高槻さんのお話、詳しくは…植原編著『乙女高原大百科』乙女高原ファンクラブ、2013、p316-

■高槻さん、乙女高原にハマる(?)
 高槻さんが「乙女高原を調査フィールドにしたい」と提案してくださいました。具体的に言うと、乙女高原のシカ柵内外の植生調査やシカの糞分析によって乙女高原のシカの生態を探り、乙女高原の保全に役立てよういうもので、研究室の学生さんが卒業研究として取り組む計画でした。今だから正直に言いますが、大学の先生ってご自分の研究や学生さんの指導が忙しくて、地域の自然保護団体と一緒のプロジェクトなんて二の次になるんじゃないかと思っていたのですが、違いました。高槻さんは言ったことはさっとやる先生でした。
 2012年5月14日、予備調査をすることになり、高槻さんが研究室の学生さん4人を連れて電車で塩山駅に到着。乙女高原ファンクラブの3人で出迎え、さっそく2台の車に分乗して出発しました。乙女高原へ初めて大学の先生をお連れするのですから、こっちも緊張しました。途中、サワラの学術参考林やら姥栃の清水やら、いわゆる見所で車を止めて案内するのですが、高槻さんはすぐにまわりをウロウロし始め、「お、このカエデは…」「ヤマエンゴサクが咲いているよ」…と、完全に自然観察モード。自然を観察するのが楽しくて仕方ない、休憩なんて時間がもったいないと、ほんとに生き生きしてました。
 びっくりしたのは「カラス・ダッシュ」。途中の森で、数羽のカラスが飛び立つのが見え、何やらやかましく騒いでいます。と、高槻さん、カラスが飛び立ったあたりを目指して猛ダッシュ。そこには大きなメス鹿の死体が横たわっていました。「いやー、金華山でよくあるんですよ」高槻さんは自然を「観る」だけでなく、「読む」ことができるんだと思いました。
 6月19日、初めて「大学の先生の調査研究最先端」を目の前で見られることになりました。まず、柵の中に入り、あらかじめ高槻さんがお決めになった10種類の植物について、1種類について10本ずつ番号札を付け、草高を測定しました。10本10種類ですから合計100本になります。次に、シカ柵の外でも同じ10種類の植物について10本ずつ番号札を付け、草高を測りました。その後、マークした200本の草高を定期的に測定するのは研究室の高橋和弘さんが行い、それを乙女高原ファンクラブのメンバーができるだけ応援することになりました。7月の調査では、草むらをかき分けて札付きの植物を探すのですが、なかなか見つからない札があり、踏みつけがやがて道のようになってしまい困惑しました。
 2012年の調査から加古菜甫子さんが加わり、自動撮影カメラの設置、方形柵(高槻さん考案)の設置など、より幅広い調査が行われるようになりました。
 2013年からは草刈り時期の違いが植生にどんな影響をもたらすかを調べるための刈り取り実験が始まりました。草原内に10 m四方のコドラートをいくつか設定し、それぞれ「6月のみ刈り取り」「9月のみ刈り取り」など草刈り時期を決めました。また、加古さんは花と昆虫のリンクという視点から、遊歩道を歩きながら出会った全訪花昆虫を記録するという調査も行いました。
 高橋さんと加古さんの研究成果は、それぞれ乙女高原フォーラムで発表してもらいました (2013、14)。「花の数がシカ柵の中と外で100倍も違う」というショッキングな事実も公表されました。研究が地域に還元されました。乙女高原の保全のための、貴重な裏付け資料になっています。

■高槻さんの魅力
 反応が早くて速いところです。メールにしても、レポートにしても、論文にしても。それは、使命感と誠実さに裏打ちされているんだと思います。
 研究だけではなく、その先にある教育や自然保護など「社会の課題」についても精力的に取り組まれているところです。東日本大震災への「がんばれナラの木」やスリランカ津波への「ゾウさん基金」、生きもの教育への取り組みもそうです。教科書会社が発行する雑誌などで生きもの教育についての論考を発表されています。2012年秋の「生きもの教育シンポジウム」にはニコルさんや大西さん、多田さんと一緒に私も出演させていただきました。2013年夏には、私が勤務する小学校で企画した「夏の自然観察クラブ」に幾人かの学生さんを誘って参画してくださり、雨の乙女高原で子どもたちに自然の魅力を伝えていただきました。
 乙女高原への取り組みもそうですが、大学を飛び出して活動しているところが高槻さんの大きな魅力です。
大学に職があるときからすでに大学を飛び出していたのですから、今後はますます(気兼ねなく?)外に飛び出ることができると思います。とはいえ、生物たるもの年齢には逆らえません。うまくバランスを取りながら、今後もますますご活躍ください。期待しています。乙女高原へも、いつでもおいでください。メンバーみんなでお待ちしています。
(乙女高原ファンクラブ代表世話人)


教育者と研究者の両立 秋山

2015-03-07 09:46:45 | つながり
秋山 幸也
 フィールドワークを生業とし、野生動物を長く扱ってきた者として、高槻先生のお名前はいつもどこかで目にしてきた気がします。メーリングリストや学会、シンポジウムなどでのご発言はシンプルかつ的確、時には厳しく直言される姿を見て、厳格な方と少々畏れを抱きつつ遠巻きにしていたことを白状します。
それが2007年、私の職場である博物館から最寄りの大学であり、さまざまな形で博物館とも交流のある麻布大学へ着任されたことで、突然、先生の存在は身近なものとなりました。いや、さらに白状すると、はじめは「怖そうな先生が近くに来られたな、でもいつかご挨拶に行かなくては…」とまだ畏れて(恐れて?)いたのです。
 意を決して初めて研究室を訪れたのは、2009年1月、野生動物学セミナーの時でした。テーマは北大の阿部豪さんによる北海道でのアライグマの外来種問題だったと記憶しています。聴講者としてお邪魔し、ご挨拶を申し上げたその数分後には、いつの間にかそのセミナーで私が話をするということになっていたのです。初対面で高槻マジックの洗礼を受けたことになります。
 そして2009年の3月末、私は野生動物学のセミナーなのに博物館で取り組むカワラノギクの保全活動や、植物インベントリー調査の重要性についてお話をさせていただきました。この時も、質疑応答の中で鋭いコメントをいただき、文字通り畏れ入ったのを憶えています。しかし終了後の懇親会では温かい食事とお酒をいただき、大学の最新鋭の建物の中にある研究室の、なんとなく昔ながらの懐かしい空気が漂う雰囲気に、とても良い印象を持ったのでした。
 それから何度か野生動物学セミナーを聴講し、だんだんと先生の気さくなお人柄を知るようになりました。また、時折見せる厳しさは、科学者として妥協しない姿勢であり、教育者として学生を導く覚悟のようなものだということもわかりました。さらに、先生のロマンチストとしての一面も、雑談の中のちょっとしたコメントやご著書などから垣間見ることになり、いっそう親近感をおぼえました。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震以降は、「がんばれナラの木」の活動に私も賛同し、私が被災一週間後の岩手県大船渡市へ行った時の写真展示を博物館で行った際、「ナラの木」もパネルにして展示しました(大船渡市が相模原市と「銀河連邦」という友好都市関係にあることで市職員の支援隊が組織されたのです)。またその後、日本自然保護協会の講習会で大船渡市を再訪して講演を行った時、地元の方に岩手県・ケセン語版を、同じく講師として青森県から来られていた方に津軽版を朗読していただきました。紙の上やコンピューターの画面上では決してわからなかったことばの持つ息遣いや力強さに、圧倒されました。この時は生物多様性をテーマの一つとした講演だったため、地域の多様性の実例を耳で実感できる素晴らしい教材となったのです。
 さて、その後も毎年のように卒論、修論発表会の聴講に伺い、研究室からも若い学生さんたちが博物館に顔を出しては標本づくりなどをしてくれて、私はすっかり高槻研のファンになりました。南正人先生を招聘され、日本の野生動物学研究の拠点の一つとして万全の体制を築かれたことも、私自身は部外者なのになぜか嬉しく、誇らしく感じました。徹底してフィールドワークにこだわり、行き届いた指導によって科学的な成果に仕上がった研究の数々と、嬉々としてそれに取り組む学生さんたちの姿には、大いに刺激を受けています。
 優れた研究者が必ずしも優れた教育者でないことは、研究畑の常識です。しかし、高槻先生はその両立をさも当たり前のようにこなされてきたことに、今改めて尊敬の念を抱いています。博物館に出入りしてくれている研究室の学生さんたちが時折、「ゼミで先生に徹底的に絞られた…」としょげていることがありました。ほかの大学の学生であれば、慰めついでに学生なりの反論など聴いたりもするのですが、高槻研に限っては「先生がきっと正しいし、そうして指導してくれることに感謝しなくちゃ」と突き放していました。しょげている学生当人も納得しているようすがありありと見えて、信頼関係があるのだなと、ちょっとうらやましく感じたりもしました。
 先生はきっとこれからもあちらこちらへフィールドワークに出られ、どこかでばったりお会いするような気がしますし、幸運にもご一緒させていただいている出版の仕事もあります。学会などでお会いすることも多いでしょう。しかし私の心残りは、宴の席での先生のギターの弾き語りをまだ聴いてないことです。近々聴くことができると信じつつ、そして先生がこれからもっと自由に存分に研究生活をエンジョイされることを祈りつつ、お礼の言葉で締めさせていただきます。
 ありがとうございました。これからもご指導よろしくお願いいたします。
(相模原市立博物館)

高槻先生との出会い 光明

2015-03-07 09:44:13 | つながり
光明 義文
 高槻成紀先生のことを初めて知ったのは、あの『北に生きるシカたち』(1992年, どうぶつ社)であった。北のフィールドで展開されるシカとササとヒトの物語をとてもわくわくしながら読んだ。その当時、高槻先生は東北大のご所属だったが、なんと東大に異動してこられるというではないか。それも鳥類の研究者としてよく知られる樋口広芳先生とともに、農学部に新しい野生生物の研究室をつくられるという。ようやく東大にも動物生態学の風が吹いてきた。そう感じたのを昨日のことのように覚えている。
 高槻先生との最初の仕事は『保全生物学』(樋口広芳編, 1996年)だった。おかげさまでこの本は、保全生物学の教科書として好評となり、いまでも売れ続けている。つぎは『哺乳類の生物学[全5巻]』(高槻成紀・粕谷俊雄編, 1998年)である。このシリーズは、哺乳類学の教科書シリーズとして高槻先生と企画したものである。哺乳類をテーマにするのであれば、どのようなテーマを選ぶにしても、各分野の基礎としてひととおりの知識を身につけてほしいというのが刊行の趣旨であった。実際は、たとえば生態や社会など、自分の興味のある巻だけを読むという若い読者が多いようで、その点は少し残念ではある。そして、大著『シカの生態誌』(Natural History Series, 2006年)。この本は当初、約240ページの本として執筆をお願いしたが、ようやくできあがった原稿は予定の約2倍の量があった。しかし、原稿を読んでみると、いわば「高槻シカ学」とでもいえるような密度の濃い内容だった。そこで高槻先生と相談し、原稿量を削減することなく、たとえ高定価となっても、あえてこのままで勝負しようということになった。幸いこの本もしだいに売れ行きが伸びて、第2刷となった。さらに『日本の哺乳類学②中大型哺乳類・霊長類』(高槻成紀・山極寿一編, 2008年)である。このシリーズは札幌で開催されたIMC9を記念して、日本の哺乳類学のひとつの到達点を示そうということで、当時の日本哺乳類学会の会長だった大泰司紀之先生と次期会長の三浦慎悟先生を監修者にお願いして、全3巻のシリーズとして刊行したものである。高槻先生には、第2巻の中大型哺乳類・霊長類の巻の編者をお願いした。このシリーズでは、そのほかに第1巻は小型哺乳類、第3巻は水生哺乳類をそれぞれテーマとしている。第1巻と第2巻がまったく同じ売れ行きを示しており、第3巻がその少し後を追っている。
 このように、高槻先生には出版という仕事をとおして、たいへんお世話になった。それぞれの仕事には、ここではとても書ききれないような想い出がたくさんある。いまは、あっという間に時間が過ぎてしまったように感じている。高槻先生が東大に在籍されていたころは、しばしば研究室におじゃまして、自然や動物たちのことについて、たくさんのお話を聞かせていただいた。麻布大に移られるとうかがったときにはとても寂しい思いをしたが、まもなく麻布大もご退官されるという。大学人としてはこれで「卒業」ということになるのかもしれないが、高槻先生と自然や動物たちとのすてきなつきあいがこれからもずっと続いていくことを期待したい。
(東京大学出版会)

ON THE RETIREMENT OF PROFESSOR TAKATSUKI, MY FRIEND TAKA

2015-03-07 09:38:41 | つながり

C. W. Nicol

Dear Taka,
We first met about thirty years ago, when I was doing a television documentary on deer. We met again in Iwate, and again the subject was deer. You and I have been telling society about the need to balance and respect Nature for many years now. I especially thank you and your students for all the great research and the advice that you have given to our Afan woods here in Kurohime. Now, you retire…really? Retire? Play golf? Soak in the hot waters of an onsen somewhere? Forgive me if I have a little chuckle, because I think that you will be even more busy than ever before! I personally look forward with pleasure to many more years of working and finding fun and meaning in Nature.
Intai dewa nakutte, sotsugyo dewa nai no ka na….?
‘Aka oni’

高槻教授-わが友タカ-の引退について
C.W.ニコル

タカ*へ
 初めて会ったのは30年ほど前、シカのテレビドキュメントの仕事をしている時だった。岩手でまた会って、そのときもシカの話題。私たちは社会にバランスと自然に対するレスペクトが必要なのだとずっと言い続けてきた。
 黒姫のアファンの森で君と学生がすばらしい調査をし、アドバイスしてくれたことをほんとうにありがたく思っているよ。
 いよいよ退職だって、本当?退職?ゴルフでもするの?どこかの温泉でお湯にでもつかるのかい?まちがってたらごめん、でも、これまでより忙しくなるよ!ぼく自身は、これまで以上に長い時間を、自然の中で働いて、その愉しみと自然の重要さを見つけるのを楽しみにしているんだ。
 インタイデハナクテ、ソツギョウデハナイノカナ?
 赤鬼

* 私(高槻)はことばが好きで、日本語にも興味がありますが、英語も好きです。ある論文の要約を英語にしてニコルさんに読んでもらったら、まったく直す所はないと言われました(エヘン!)。でも私は日本人ですから、自分が下の名前で呼ばれるのは気持ちがよくありません。言葉が違うことと、文化や習慣が違うことは別のことです。英米人が「ジョージ」と呼ぶのと、日本人が「正夫」と呼ぶのはまったく意味が違うでしょう。私はうまくもない英語を使う日本人が英米人と仲良くなって自分のことを下の名前で呼ばせて、自分が英米人になったような顔をしているのをみると気分が悪くなります。かといって英米人からすれば親しくなったのに「高槻さん」というのは違うと感じるでしょう(と想像する)。だから、「タカ」と呼んでもらっています。こうすれば、むこうからすればニックネームで呼んでいることになるし、こちらも下の名前を呼ばれる心地悪さを回避できるというわけです。同じ意味で私は彼を「ニック」と呼ぶのは照れるので、「赤鬼さん」と呼ばせてもらっています。
 retirementを「引退」、graduationを「卒業」と訳しましたが、マラソンで体調不良でリタイアするというようにリタイアは放棄することでもあります。graduationは「grade」つまり学年とか階層とかを改めて次に上がるという意味がありますから、「引退ではなく卒業」といってもそのニュアンスは伝えきれません。「やめてしまうのではなく、次の段階にうつる」という含みがあります(高槻)。


ヤセイはかぞく

2015-03-07 08:53:49 | つながり
笹尾 美友紀

「研究室のメンバーを家族にしたら、誰がどの役だと思う?」
「○○先輩がお母さんで、○○ちゃんはお姉ちゃん。○○はペットかな?」
 研究室に在籍していたとき、誰かがそんな話をした。
 大学を卒業して研究室から離れた今、野生動物学研究室(ヤセイ)のことを振り返ってみると、たしかにその関係は家族のようなものだった。頼れてかっこいい先輩たち、心配をよそにしっかりしている後輩、そして濃すぎるキャラクターでやりたい放題の同期たち。普通ならば関わり合うことがなさそうな人たちが「野生動植物を学びたい」という一つの目的のために集められ、無知を飛び越え、個性を認め合い、お互いに本音で語り合える不思議な間柄になることができた。どんなに研究について熱く議論しても、その後は楽しく一緒に昼食をとり、談笑をする。今思えばよく大きな喧嘩や対立もなく卒業できたものだ。相手の気心が知れているからこそ安心して本音を話すことができた。この関係をもう一度別の場所で築こうとしても、それはとても難しいだろう。このかけがいのないヤセイのみんなとの関係を一言で表現しようとするならば、友達という一般的な言葉ではなく、やはり家族という表現の方がしっくりくるように思う。では高槻先生はヤセイ一家とはどのような関係なのだろうか。これについて無礼を承知で私が考えさせて頂くと、先生はヤセイ一家の「おじいちゃん」であると思う。
 ありがたいことに私は、学生時代に高槻先生からたくさんの任務(これを心の中で“高槻ミッション”と呼んでいた)を頂いた。高槻ミッションは研究室での雑務をはじめ、他研究室との交流やイベントの企画など、自称控えめな私には経験したことがないような大役ばかりであった。力不足な部分もあり、ほかの室生たちに大きく助けられながらも精一杯務めさせて頂いた。そのため周りからはよく“笹尾は高槻先生と意思疎通ができている、よく話している”という勘違いがあるのだが、正直に言うと私は先生とあまりお話したことがない。これは私の極度な人見知りが効いているのと、先生に対して“恐い”という思いがあるからかもしれない。
 先生が学生を叱るときには真っ当な理由があるときで、なおかつそれは学生を思いやってのことだと私は感じていた。そのため怒られて“怖い”のではない。私の先生に対する“こわい”は恐れ多いの“恐い”である。先生の自然に対して真摯に考え、取り組むという研究に向かう姿にはもちろん、ありがとう・ごめんなさいを迷いなくおっしゃる点など人間としての姿にも私は純粋な尊敬の念を抱いている。そして学生時代には先生から研究に対しても、人としても多くのことを学ばせて頂いてきた。少し生意気だが、そうするうちに物事の考え方が少し先生のようになってきたかなと思うときも度々ある。もしかしたら先生とお話をするときに相槌以外の言葉が浮かんでこなくなるのは、尊敬しすぎて近づくことが恐れ多いと感じているからで、そうだとすれば仕方がないことなのかもしれない。
 これまで述べてきたことだけであれば、先生は「職場の上司」というような例えでもいいかもしれない。しかし先生のことを「おじいちゃん」と表現したのは、時折とても親近感を感じるからだろう。頭骨のスケッチの実習中に先生の口笛が響きわたったこと、朝食のトマトをすぐ学生にあげること、サンショウの実を学生にわざと食べさせていたこと、調査地であるアファンの森で「お~い!」と大声で呼びかけながら私たちを探して森中を歩いて下さっていたこと。私が見てきた先生は、私が以前に思い描いていた教授という概念とは少し違っており、しかしそのようなユーモアな言動が私に親近感を感じさせた。中でも一番驚いたのは私を呼ぶときに“ささごん”という私の愛称を使って下さったことだ。先生に近づけなかった私にとっては、笹尾さんと呼ばれ続けるよりは、愛称で呼ばれていたことで肩の力ももしかしたら少しは抜けていたのかもしれない。
 これらのことから「多くのことを学ばせてくれ、おもしろいけどちょっと恐いおじいちゃん」というのが高槻先生のヤセイ一家での立ち位置であると思う。なによりも意見をまっすぐに主張する高槻先生がいなければ、学生同士が本音で語り合うこともなかったのかもしれない。つまりヤセイ一家ができたのも高槻先生のお陰である。
 この文章を書いて、私はどうして先生とあまりお話できなかったのか考えるきっかけになったのと同時に、先生は私に対してとても歩み寄って下さっていたことに今更ながら気が付き、後悔と反省をしている。大変申し訳ありませんでした。また今度、高槻先生にお会いするときには、もっともっとたくさんお話ができるようにしておかなくてはいけない。
(2014年 麻布大学卒業)