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高木陽介「奔馳不息(ほんちふそく)」

衆議院議員 高木陽介のブログ

オート三輪の荷台

2007-07-11 07:40:29 | 永田町からのEメール
 「候補者をオート三輪の荷台に乗せて、運転をしたよ」。父が生前、語っていた。
 貧乏のどん底の中だったが、選挙の支援のため、ボランティアで選挙カーのドライバーを務めたという。今のようにデザインの彩やかなワンボックスカーではない。すべてが手作りの選挙だった。
 公明党が結成して43年。初めて国政に進出したのはさらにその前の昭和31年の参院選だった。
 私はまだ生まれていなかった。その前年の昭和30年。保守合同で自由民主党が結党。左右に分かれていた社会党も統一して、いわゆる55年体制がスタートした。
 時代は戦後10年目。「もはや戦後ではない」との経済白書の言葉が発表されたが、まだまだ国民の生活は豊かではなかった。
 大企業、財界優先の自民党。官公労や大手労組の社会党という2大政党の狭間で、多くの庶民の声は国政に反映されなかった。
 そのような中、私たちの父母の世代が立ち上がった。〝庶民の声〟を国政に届けようと、経済的にも苦しい中、手弁当で3人の参院議員を誕生させた。
 特に大阪選挙区では「まさかが実現」と新聞で報道されるように、厳しい戦を勝ち抜いた。
 それから51年。公明党は無名の庶民の血と汗と涙で築かれてきた。議員の私たちは、その歴史を絶対忘れてはならない。
いよいよ参院選の公示を迎える。今回の戦いに勝つことで、その歴史を受け継ぐことができる。何があっても、勝ち抜いていきたい。
                            

従軍慰安婦問題と「鈍感力」

2007-04-30 21:03:13 | 永田町からのEメール
安倍首相の訪米で従軍慰安婦問題がクローズアップされている。
3月1日、安倍首相の「(旧日本軍による)強制性については、それを裏付けるものがなかったのは事実」との発言が火をつけた。さらに、93年の河野談話を継承すると言いながら、軍の強制連行を意味する「狭義」の強制は否定したりした。
 しかし、「広義」と「狭義」に分けようが、従軍慰安婦という存在があったのは事実だ。軍が直接関与したのかどうかといった、いわゆる「狭義」の強制連行について、問われているのではない。
 戦争という時代をつくり、従軍慰安婦といわれる女性らが人権を傷つけられた。そこに多くの被害者を出しているという事実を直視しなければならない。政治家はその時代に対して責任をとらなければならないと思う。
 先日、教科書検定で、沖縄戦での県民の集団自決についても軍が直接関与したかどうかで揺れた。これも、自決した被害者がいるにもかかわらず、ここでも「狭義」の解釈にこだわっているようだ。
 最近、自分の主張を強く述べる一方、相手の立場や気持ちを考慮しない風潮が強くなっているのではないだろうか。特に被害を受けた人たちの心の傷について、「鈍感」になってはいないか。
 「鈍感力」という言葉が一時はやったが、特に政治の分野では「鈍感」であってはならない。

朝6時過ぎ。JR八王子駅頭

2007-04-04 19:04:44 | 永田町からのEメール
 朝6時過ぎ。JR八王子駅頭に立ち、あいさつしていた。
 通勤途中の壮年の支持者が歩み寄ってきて、私の手をギュッと握りしめた。「申し訳なかった」とつぶやいた。目には涙が浮んでいる。
 「ありがとうございました。次は必ず―」。私も声が詰まってしまった。
 定数1の小選挙区制が導入され初めての衆院選。11年前の秋だった。
 2期目に挑戦の私は東京・八王子市を選挙区とする東京24区から出馬した。新人の時は中選挙区制で、八王子市内で獲得した票は3万4962票だった。無名の新人を支持者の皆さんが押し上げていただいた。
 初めての小選挙区の戦いは激しかった。相手陣営はネガティブ・キャンペーンを張り、宣伝カーで「この街を創価市にしてはいけません」と連呼していた。
 それでも支持者の皆さんは、必死になって票を拡大。前回より倍近い6万4730票だったが、一歩及ばず落選した。
 開票結果が出て、自宅に戻ったのが午前2時。次の戦いはスタートしていると自らに言い聞かせ、早朝の駅に立った。
 落選―。自分にとっても辛い3年8ヶ月の浪人時代だった。だが、何よりも辛く、悲しかったのは、支持者の必死の戦いが、無になってしまったことだ。
統一選前半戦の真っただ中。私たち議員、そして候補者は、支持者に悔し涙を流させてはならない。そのためにも一瞬一瞬が勝負。どんなに逆境でも勝ち抜いていきたい。

 「右手をご覧下さい」

2007-01-04 23:07:05 | 永田町からのEメール
 「右手をご覧下さい」
 箱根・芦ノ湖の遊覧船のアナウンスが船内に響いた。景色の説明のアナウンスが続くが、小学3年生の次男は、自分の右手の平をじっと見つめながら、隣の祖母に尋ねた。
 「おばあちゃん、右手を見ているけど何もないよ。何があるの」
 一瞬の沈黙の後、家族は大爆笑となった。
 年末の家族旅行の出来事。あいにく私は仕事のため参加できなかったが、後でその話を聞いて、思わず吹き出してしまった。
 ところが、次男は「『右手をご覧下さい』って言えば、右手を見るよね。本当なら『右側をご覧下さい』だよね」と、反論する。
 なるほど次男の言う通りだ。もちろん観光案内などで「右手をご覧下さい」は慣用句だ。だが、素直な子どもにとって、そのまま自分の手を見るのは当然だろう。
 このことは、政治に関わる者として改めて考えさせられた。
 永田町の政治家や霞ヶ関の官僚が使っている言葉。自分たちだけで通じる〝業界用語〟を使ってはいないだろうか。
 新聞記者時代に原稿をチェックするデスク(これも記者用語か。次長・副部長などをデスクと呼んでいる)に言われた。「中学生が読んで分かる文章を書け」
 今年は、統一選、参院選があり、「政治決戦」の年といわれる。有権者にどれだけ公明党の実績と政策を理解してもらえるか。これから始まる通常国会でTV中継もある。一つの言葉を大切にしていきたい。

庶民の代表を国政へ

2006-10-05 23:08:02 | 永田町からのEメール
 「今日は党に対していっぱい文句を言ってやろうと思ってたけど…」
 握手をした壮年の手にギュッと力が込った。
 先日、東京・世田谷の支部会終了後のこと。雨の中、出席してくださった党員の皆さんを出口で見送っていた。
 壮年は笑顔になって話を続けた。
 「でも、最後に高木さんが言ってくれた。『周りの人から、“公明党はいいな”“公明党を応援したい”と言われるくらい、そんな党に必ずなってみせます』。あの言葉でこれまでの苦労が吹き飛んだよ。元気が出た」
長年、党員として公明党を支え、友人からの様々な批判を最前線で受け止めてくれた方だった。そして、私の手を強く握りながら、最後は目に涙を浮かべた。
 公明党が国政に進出したのは50年前。まだ私は生まれていなかった。私の両親も貧乏のどん底の中で、「庶民の代表を送るんだ」と走り回っていた。
 私が小学校2年の時、公明党は衆院に初進出。テレビの選挙速報を見ながら、公明新聞の候補一覧に花丸をつけていたのを覚えている。
 公明党は無名の庶民の方々が、いつも歯をくいしばり、手弁当で支えてくださっている。その一人一人に勇気と希望が持てるような党にするのが、議員の仕事だと思う。政策を分かりやすく、上手に語ることも重要だ。それ以上に、支援者の熱い思いをしっかり受けとめ、応えていく姿勢がもっと大切だと痛感した。