高木陽介「奔馳不息(ほんちふそく)」

衆議院議員 高木陽介のブログ

持続可能な「福祉社会」と「活力ある社会」の両立

2010-01-25 00:35:02 | 日本の論点
持続可能な「福祉社会」と「活力ある社会」の両立。私たちの政策はさらに進化する

●原点に立ち返り本領の「福祉」を問い直す
 1999年に自民党政権の連立に参加してからちょうど10年目の09年、私たちは野党になった。その間、私たちは、庶民の目線から数々の福祉政策に取り組んできたが、残念ながら、小泉改革の揺り戻しや未曾有の景気後退の波に呑まれ、「福祉の党」のイメージを、混沌とする政治状況に埋没させてしまった。しかし逆に考えれば、野党になったからこそ、原点に立ち返り、私たちの本領である福祉政策のあり方をもう一度問い直すことが可能になった。
 いま私たちは、少子高齢化と人口減少の進行に対応した、持続可能な社会保障と経済成長を両立させねばならないという難問に直面している。社会保障の肥大化は財政を破綻させる。負担を平等に引き受けながら、活力ある社会をつくるにはどうすればよいか。少子化を食い止め、なお成長を続けるには女性の社会参加は必須の条件だ。
 06年、公明党は「少子社会トータルプラン」を提言した。結党以来、私たちは「児童手当」をはじめ、妊婦検診や出産一時金、育児休暇、待機児童の解消など「子ども優先社会」の実現を目指してきたが、これはその集大成である。民主党の目玉の少子化対策が「子育て手当て」なら、私たちは母親と働く女性に対して「子どもが産まれる前からの支援」をおこなってきたのである。
 こうした提案は現場の声に裏打ちされている。公明党には、北海道から沖縄まで、1800の基礎自治体で選ばれた3000人の地方議員がいる。彼らがこまめに地域を歩き、問題点を明らかにし、県および国会議員とともに解決に努力してきたのである。3割を超える女性議員は、その中心的な役割を担った。
 全国で始めて「児童手当」が制度化されたのは(1968年)、千葉県市川市だというのをご存知だろうか。公明党市議の提案によるものだった。福祉予算の厚い壁を破ったのを契機に、69年には都議会で、さらにその3年後には、国の制度として確立された。その後、児童手当は自公連立の10年間で4回にわたって改正され、3歳までだった対象年齢は、小学6年生に引き上げられた。

●福祉の財源は誰が負担するのか
 民主党の「子ども手当て」は中学3年生までの子のいる家庭に一律支給されることになっているが、財源は扶養控除や特定扶養控除の廃止だ。大学生のいる家庭では、負担増になる場合がある。
 私たちの児童手当とアイデアこそ似ているが、その考え方は大きく違う。子育ての社会化といいながらその本当に意味を国民に伝えていない。子育ては社会全体が責任を持ち、そのコストは国や地方、企業など社会全体が負担すべきものだ。
 子ども手当てばかりではない。民主党はさらに「高校授業料の実質無償化」「農家の所得保障」と公的扶助にかたよった政策を打ち出した。
 しかし、人口減少による超少子高齢社会で最も重要なのは、共助の活性化と公助の信頼性の回復である。自助を前提に、地縁・血縁に関わりなく互いに支えあう(共助)新たなしくみの構築が必要だ。その上で公的機関が力を貸す(公助)というのが、バランスのとれた社会のあり方である。「コンクリートから人へ」「企業への再配分から家計への再配分へ」―のスローガンの下、民主党は補正予算15兆円のうち3兆円を凍結した。公共投資を大幅に削減し、個人へ直接給付にすることによって消費が刺激され、景気が回復するという。それは、貯蓄を増やすだけにはならないか。
 1993年、私が初当選を果たしたとき、政治テーマは政治改革一色だった。私も熱に浮かされたようにそのスローガンを繰り返した。だが本当にやるべきだったのは景気対策と経済の改革だったのだ。そうすれば98年の金融危機は避けられた。あのときの無策がその後の「失われた10年」のつながってしまったのである。
 もし民主党が「自公政権の否定」と「政権の維持」を政治目標とするなら、これからの4年、けっして日本は明るくはならない。