高木陽介「奔馳不息(ほんちふそく)」

衆議院議員 高木陽介のブログ

贈るとすれば『感謝状』です

2009-04-14 20:16:22 | 活動徒然
 「贈るとすれば『感謝状』です」と天皇陛下が言われると、「心を込めて『感謝状』をお贈り申し上げます」と皇后陛下。
 結婚50年を迎えられた両陛下の記者会見をテレビで見た。
 「うちもこんな風になりたいね」
 結婚20年を迎えたわが家で、私が妻に言うと、横で聞いていた高2の娘が「(両陛下とは)スペック(仕様)が違うよ」
 まあ違うと言えば大いに違うが。「結婚もしてないのに偉そうに言うな」と心の中で娘に反発した。
 皇室との思い出は、昭和63年夏。毎日新聞静岡支局の記者だった。昭和天皇が静岡県下田の須崎御用邸にご静養に来られた時、取材で駆けつけた。
 下田駅に降り立つ昭和天皇。多くの市民が駅を取り囲み、日の丸の小旗を振りながら、万歳をしていた。中には涙を流している年配のご婦人も。
 それまで、テレビの画面でしか知らなかった皇室。しかし、「本当に国民から慕われているんだなあ」と、素直に納得をした。
 それから数ヵ月後の秋。昭和天皇が重体になられた。静岡から応援で本社社会部に。皇居や東宮御所などの門の前でマスコミ各社の記者が張り付いた。陛下に何かあれば、皇室の方々をはじめ関係者が動く。そこで各社とも記者を〝門番〟として、少しでも早く動きをキャッチしようというものだ。
 応援部隊の私も約2ヶ月、24時間体制で〝門番〟のローテーションに組み込まれた。壮大な無駄のようにみえるが、マスコミはそんなものと、自分に言い聞かせて〝門番〟を続けた。
 東宮御所の門の前の青山通りには各社のテントが並んだ。出前のピザを届けてもらい、各社の記者と一緒に食べたことも。
 そして時は昭和から平成へ。私も記者から議員に。そんな中、今の両陛下の忘れられないシーンがある。平成7年1月。阪神大震災のお見舞いだ。避難生活を送る人々の前で、膝をつき、同じ目線で励まされる両陛下。その前に視察に訪れた村山首相が後に手を組んで、立ったまま被災者に声をかけた映像と対照的だったのを覚えている。
 まさに、国民の痛みを自らの痛みととらえる両陛下だった。
 天皇陛下は結婚前に東宮参与の小泉信三氏に語っている。「自分は生まれからも、環境からも、世間の事情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうしても人情を通じて、そういう思いやりのある人に助けてもらわなければならぬ」(文芸春秋・昭和34年1月号)
 まさに両陛下の50年は国民に対する思いやりを全存在で示されたと思う。「日本一の公人ね」と、妻は私に言った。
 政治家も〝公人〟としてこの両陛下の行き方を学ばねばならない