太陽日記

北海道移住10年を機に、日記をこちらに引っ越しました。気が向いた時にひっそりと更新します(笑)

昔の写真・その7

2016-05-21 17:48:15 | 日記
 初めての会津は会津線の乗り鉄が目的でしたが、翌1984年11月には只見線と磐越西線の撮り鉄にも行きました。今回は福島・会津磐梯ミニ周遊券を使い、文化の日をからめた11月1~4日の日程… と記憶していたけど、曜日を確認してみたら11月2日は金曜日。普通に学校(当時高校1年生)があるはずだけど、2日の日付けが入った会津宮下の入場券があるから、確かにこの日程で行っているはず。自慢じゃないけど高校は3年間皆勤賞だったので、ズル休みはしていないはず。何かの休みだったのかな?
 今回も上越夜行733Mで向かうのだが、確かその1本前の電車が185系の間合い運用で各停に入るので「せっかくなら特急用車両に乗りたいじゃん!」ということでそれに乗ったと思うんだけど、ネットで調べてみても確証は得られず。思い違いかな?
 日程の前半は同級生のペンちゃんも一緒だった。当時、撮り鉄のカメラバッグといえば「銀箱」。2人して銀箱を持って座席に座ったら、サラリーマン風のおっちゃんに「それ、現金でも入ってるのか?」と聞かれた。んなわけないだろ!(笑)


この撮影旅行の1カットめはEF65PF牽引のあけぼのだった。7番線にいるねぇ。ドコだろ? ネットで調べてみたら、どうやら上野駅の7番線。最初、臨時のあけぼの51号と書いたところ、友人から「あけぼの1号だよ」と指摘があった。てっきり1号は地上ホームからの発車だと思ってた。やっぱり昔の時刻表、取っておけばよかったなぁ(1984年11月1日)


これは高崎駅で撮った急行天の川。デビュー当時は「走るホテル」と言われ、東海道筋の寝台特急で光り輝いていた20系も、もはや急行として余生を過ごしているのみ。
この頃にはもうスユ16は連結されていなかったので、最後尾はカヤ21。20系特有の丸い屋根が見られた。(1984年11月2日)


乗ってみたかったな~(1984年11月2日)


最後尾にクモニ83を連結した733M ここ高崎で39分、次の新前橋で42分も停車する。(1984年11月2日)

 高崎、新前橋くらいまでは終電としての利用客も多いが、そこから先は完全に夜行列車なので車内もだいぶ空いてくる。座席に横になってしばしの睡眠。しかし油断はできない。4:04に小出で下車しなければならないからだ。なんとかペンちゃんと2人して小出で下車。待合室で1時間半ほど待ち、5:36発の只見線始発列車426D会津若松行きに乗車。寝不足なので発車後すぐに寝てしまい、気がついた時には紅葉真っ盛りの中を走っていた。天気はイマイチだったけど、紅葉の素晴らしさにビックリしたのを覚えている。


会津川口駅 左426D キハ58 294 右423D キハ40 560 (1984年11月2日)


そして会津宮下で下車。雑誌で見て「一度は行きたい」と思っていた第三只見川橋梁へ。ス、スバラシイ! 412D 急行奥只見(1984年11月2日)

 列車を待っている間、ペンちゃんと2人、寒さに震えていたら、クルマで来ていた男性が「寒いからクルマで温まりなさい」と招いてくれた。
車内で「ドコから来たの?」などと聞かれているうちに、その男性が名刺をくれた。「真島満秀写真事務所 猪井貴志」プロの鉄道カメラマンだった。
「今度、事務所に遊びにおいで」と言われ、後日、西新宿の事務所にペンちゃんと訪れた。真島さんもチラッとお見かけし、お土産にKRを2~3本もらった。
2009年に真島さんが亡くなり、猪井さんはマシマ・レイルウェイ・ピクチャーズの会長となっている。真島さんと言えば日本を代表する鉄道写真家で、鉄ちゃんなら誰でも知っているカメラマンだが、実は真島さんのクレジットでも実際は猪井さんが撮影した写真も結構ある。猪井さんは真島さんと二人三脚で鉄道写真界を牽引してきたが、常に陽があたるのは真島さんで、猪井さんは裏方に徹している感があった。そんな職人気質なところが好きだ。


会津宮下駅 そうそう、あの頃キオスクがあったよねぇ。三波春夫ショーの看板が泣かせる。磐光パラダイスという磐梯熱海にあるレジャー施設で10日間も行われていたようだ。(1984年11月2日)


会津宮下駅 仙コリ唯一のパノラミックウィンドーのキハ58 1526だ。432D(1984年11月2日)


翌日は磐越西線で撮り鉄。スユニ50が2両もつながっている。おそらく1226レ 豊実~徳沢(1984年11月3日)


クーラーついた車両が多いから、おそらく211D 急行あがの1号かな? 徳沢~豊実(1984年11月3日)


荻野~尾登 おそらく1229レ 牽引しているDD51 681は以前、北海道の追分機関区に所属していたが、1976年4月13日に起きた機関庫火災の際、なんとか搬出に成功し、辛くも焼失から逃れたという経歴を持っていた。(1984年11月3日)


塩川駅 223レ 前夜は塩川にあったYHに宿泊。この辺りは盆地なので、朝の霧は晴れる証。
実はこのDD51 757も、先日の記事にある1027とともに迂回石油輸送列車の牽引機として吹田から会津路に復帰したカマだったが、2012年に廃車・解体されてしまった。(1984年11月4日)


塩川から乗った1222レの牽引機は、奇しくも前日撮影したDD51 681だった。会津若松ではそのDD51 681からED77にバトンタッチ。うわっ!901号機じゃん!屋根上の高圧機器をカバーするドームが見える。(1984年11月4日)


翁島駅 こんなの撮ってたんだねぇ。貫通扉の横の影を見れば、前面窓が傾斜しているのがわかる。901の特徴だ。マイクロエースが製品化しているらしい。ムムムッ!欲しいぞ!(1984年11月4日)


翁島~磐梯町 1227レ こちらは量産型のED77が牽引する客車列車。軸重を軽減するための中間台車がよくわかる。
車番は、ルーペで見るとED77 9とオハフ46 2021に見える。(1984年11月4日)


磐梯町~翁島 3222D  1両目の車番はキハ58 217に見える。2両目はキハ28 36に見えるんだけど、30番台は仙コリに所属した事ないんだよね。361かなぁ…3ケタには見えないんだけどなぁ…(1984年11月4日)


翁島~磐梯町 快速ばんだい 3221M 数年前にNゲージを再開して最初の頃に揃えたのが50系客車と、この455系。(1984年11月4日)


磐梯町~翁島 特急あいづ 1036M すでに東北新幹線が開業していたが、当時は大宮までなので、1往復だけだが乗り換えなしで上野まで行ける「あいづ」は重宝されたに違いない。(1984年11月4日)

 というわけで、この後、会津には何度も撮影に行くのでした。
コメント (2)
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