鉄道趣味仲間の急な訃報を受け、2月25~27日に東京に行ってきました。その彼は鉄道の中でも特に蒸気機関車を愛し、写真を撮る「撮り鉄」でもあり、蒸気機関車の音を録音する「録り鉄」でもあり、SL列車に乗るのを楽しむ「乗り鉄」でもありました。そしてその大好きなSL列車の中で大好きなお酒を飲むことをこの上ない喜びと感じていて、自らを「呑み鐵」と名乗っていました。
そんな呑み鐵さんと初めて会ったのはいつだったかなぁ… 多分、「SLばんえつ物語号」が走り出した1999年頃、線路端か会津若松の機関庫などで撮影している時に会っているのかもしれないけど、今となってはハッキリとは思い出せません。ただ、強烈に覚えているのは、2001年に只見線に復活したSL列車「SL&DL会津只見号」の指定券が取れたから乗らないかと誘われ、一緒に乗り鉄した時の事です。
それまで自分は「撮り鉄」専門で、SL列車が走るなら「乗るより撮っていたい」と思っていました。しかし、せっかくのお誘いだし、「一度くらい乗ってみるのもいいかな」と思い、お言葉に甘えて乗車しました。車内にはネットや線路端で知り合いになった仲間も多く乗っていたし、何より27年ぶりに只見線で走ったSL列車の沿線での歓迎ぶりが尋常じゃなく盛大で、めちゃくちゃ興奮した乗り鉄となりました。それ以来、すっかり「乗り鉄」の楽しさに目覚め、何度も呑み鐵さんを中心とした仲間たちとの乗り鉄会を楽しみました。北海道に移住してからも3~4回は会津に参上しています。
また、逆に北海道でも自分が「国鉄型車両のみで行く 札幌発札幌着の2泊3日ツアー」なんてのを企画して乗り鉄会を開催。呑み鐵さんをはじめとして数名の仲間が参加してくれました。それから、呑み鐵さんが個人的にJR日高本線に乗りに来た事もありました。その時は終点の様似で一泊して日高本線全線を一往復するというので、自分も新冠の駅から合流、様似で一泊して翌日は苫小牧まで一緒に乗り鉄。その後も乗り鉄を続ける呑み鐵さんと別れ、一人で新冠まで戻って来た事もありました。地元の路線でありながら、こんな機会でもなければ乗る事は無かったと思います。
そんな訳で、「撮り鉄」だけじゃなく「乗り鉄」の楽しさ(本来、鉄道とは乗り物なのだから、乗って楽しむ事が王道なのかもしれない)を教えてくれたのが呑み鐵さん。実は「SL会津只見号」はチケット入手が非常に困難な列車。それを毎回いろんな駅に手配をしてなんとか席を確保してくれたり、仲間たちもそれぞれ奔走してチケットを確保してくれて自分は乗り鉄会に参加できていました。いつも当たり前のようにチケットが確保されていたけど、実はみんな相当頑張ってくれていたのです。思い返せば、その事に対して特にあらたまってお礼を言ってはいませんでした。だから、そのお礼と最後のお別れと思って告別式に行ってきました。享年56歳。早過ぎる旅立ちです。
そんな呑み鐵さんと初めて会ったのはいつだったかなぁ… 多分、「SLばんえつ物語号」が走り出した1999年頃、線路端か会津若松の機関庫などで撮影している時に会っているのかもしれないけど、今となってはハッキリとは思い出せません。ただ、強烈に覚えているのは、2001年に只見線に復活したSL列車「SL&DL会津只見号」の指定券が取れたから乗らないかと誘われ、一緒に乗り鉄した時の事です。
それまで自分は「撮り鉄」専門で、SL列車が走るなら「乗るより撮っていたい」と思っていました。しかし、せっかくのお誘いだし、「一度くらい乗ってみるのもいいかな」と思い、お言葉に甘えて乗車しました。車内にはネットや線路端で知り合いになった仲間も多く乗っていたし、何より27年ぶりに只見線で走ったSL列車の沿線での歓迎ぶりが尋常じゃなく盛大で、めちゃくちゃ興奮した乗り鉄となりました。それ以来、すっかり「乗り鉄」の楽しさに目覚め、何度も呑み鐵さんを中心とした仲間たちとの乗り鉄会を楽しみました。北海道に移住してからも3~4回は会津に参上しています。
また、逆に北海道でも自分が「国鉄型車両のみで行く 札幌発札幌着の2泊3日ツアー」なんてのを企画して乗り鉄会を開催。呑み鐵さんをはじめとして数名の仲間が参加してくれました。それから、呑み鐵さんが個人的にJR日高本線に乗りに来た事もありました。その時は終点の様似で一泊して日高本線全線を一往復するというので、自分も新冠の駅から合流、様似で一泊して翌日は苫小牧まで一緒に乗り鉄。その後も乗り鉄を続ける呑み鐵さんと別れ、一人で新冠まで戻って来た事もありました。地元の路線でありながら、こんな機会でもなければ乗る事は無かったと思います。
そんな訳で、「撮り鉄」だけじゃなく「乗り鉄」の楽しさ(本来、鉄道とは乗り物なのだから、乗って楽しむ事が王道なのかもしれない)を教えてくれたのが呑み鐵さん。実は「SL会津只見号」はチケット入手が非常に困難な列車。それを毎回いろんな駅に手配をしてなんとか席を確保してくれたり、仲間たちもそれぞれ奔走してチケットを確保してくれて自分は乗り鉄会に参加できていました。いつも当たり前のようにチケットが確保されていたけど、実はみんな相当頑張ってくれていたのです。思い返せば、その事に対して特にあらたまってお礼を言ってはいませんでした。だから、そのお礼と最後のお別れと思って告別式に行ってきました。享年56歳。早過ぎる旅立ちです。