慶喜

心意気
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「支那」&「中国」の言葉の歴史

2016年10月24日 | 国際情勢
「支那」と「中国」の言葉の由来

中国人は、「支那」の言葉を嫌います
中国人は「中国」「中華」の言葉を好みます(尊称に近い言葉です)
通称のCHINA、正式名称の「中華人民共和国」と呼ぶのも選択肢です
出典、ヤフー知恵袋(かえるさん)の記事参考&引用












中華人民共和国(ネットより画像引用)

「中国」との言葉は尊称です
周囲の国々を蔑視する中華意識を意味するのが中国という言葉です
自分の国を美称して中国と称するのは自由です
自国を尊称で呼べと要求するのは?

天下の中心部を指す『中国』
清朝の外交用語として、自国を『中国』と称したとされます
中国清朝がイギリスと結んだ南京条約で、漢文の「中国」が使われた事例が最初です
その時、清朝の外交使臣が自らの身分を称する時に、「中国」という用語を使いました

「支那」言語の由来
漢字圏以外からは、「秦」に由来するシーナという呼称が用いられてました
古代インドでは、仏教語より、「支那」「震旦」の漢字があてられていました
日本でも「秦」に由来して、江戸時代初期より「支那」の呼称も使用していました
日本では、中国人を「唐人」などと呼んでいましたが、江戸時代中期以降「支那人」と変わりました
 ☆清国人自身も、自らのことを「支那人」と称しました

「支那」日清戦争が、日本の勝利に終わる
「支那」という言葉は、日本では戦敗者に対する戦勝者の軽蔑的感情と心理を帯びたものになりました
中性的な言葉から、さげすむ意味合いの言葉に逐次変わっていきました

第二次世界大戦終結後
「中国」は、戦勝国として、日本では、「支那」という呼称を使ってはならないと命令しました
日本では、放送・出版物においては「中国」のことを「支那」とは呼ばないようにされました

「中国」との言葉の起源
首都、みやこを指すものでした
漢民族の居住地が中央部にあって、「中国」と称されていました
辛亥革命により、正式に「中国」が国名として定着しました
中央の国の地理的概念の意味で、「中国」の国名と中国は、主張しています
毛沢東の勝利により、「中華人民共和国」が新中国の正式の呼称となりました
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二重国籍疑惑を「バーシズム」で擁護するTBS?

2016年10月24日 | 日本国内問題
蓮舫氏の二重国籍疑惑

蓮舫氏の二重国籍疑惑は、大手新聞は、ほとんど無視?テキトーに流す?
TBS系の報道番組Nスタでは、寧ろ蓮舫氏擁護の報道
バーシズムとは、「バース」は「BIRTH」で、人を生まれかで差別することです
産経新聞(月刊正論11月号から転載)






二重国籍疑惑(ネットより画像引用)

TBS系の報道番組Nスタ
国会は、二重国籍問題の議論でなく「本質的な政策論議を」しろ!
「アメリカで出自を問うバーシズムは軽蔑される」との論旨で蓮舫氏擁護に走る
『TBS系Nスタ』ピント外れでは?
 ☆蓮舫氏の出自が問題なのではなく、蓮舫氏が説明しない事です
 ☆言っていることがコロコロ変わったり、再三「誤魔化す」説明をする 

バーシズムとは?
「バース」はバースデーの「BIRTH」で、人を生まれかで差別すること
左翼も、安倍首相が「A級戦犯の孫だ」と批判してる人がいるが、これがバーシズムです

二重国籍問題の疑惑に関して
外国人やハーフを差別してはいけませんとの意見もあります
しかし、野党第一党の党首は、即ち日本の首相になる可能性があります
首相になるのを、法律が厳密に禁じていない?
二重国籍の人物が、日本の首相になるのは、重大な問題ではないか?

二重国籍の政治家や官僚も他にもいる?
アメリカは出生地主義だから、現地で生まれたら米国籍がとれる
大人になって米国籍を捨てようという人は少ない
米国籍を持っていれば、世界一の大国・安全な国アメリカに逃げられる


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伊達政宗の名コーチ(片岡景綱)

2016年10月24日 | 歴史上の人物
片倉 景綱

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将
伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めた
小田原征伐では、豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、伊達政宗に小田原参陣を決意させた
 ☆参戦に関して、豊臣秀吉に政宗が、白装束で従順を示した対応は有名です
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
 ☆番組の画面引用
出典、番組、NHK1『知恵泉』、WIKIPEDIA参考&引用












片倉景綱(NHK1『知恵泉』番組画面引用)

片倉景綱(幼少期)
神職の次男として生まれるが、景綱の両親が相次いでなくなる
姉の喜多が、母のような存在で、景綱は喜多に養育した
姉の喜多は、文武両道に通じ、兵書を好み講じた
景綱も喜多の教化を強く受け育った

片倉景綱(伊達政宗に仕える)
主君の輝宗に嫡子の政宗が産まれ、景綱の姉、喜多は政宗の「乳母」を拝命する
伊達家の城下米沢で大火あり、景綱の活躍が認められ、輝宗の徒小姓として仕える
政宗の近侍となり、のち重臣として重用されるようになる

片倉景綱(伊達政宗の名コーチとして)
関ヶ原の戦いなど、政宗の主要な戦争に参加して、伊達氏の危難を救っている
小田原征伐に際しては、豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、伊達政宗に小田原参陣を決意させた
伊達氏の、対外交渉における取次を担当し、伊達政宗の外交文書には景綱の副状が添えられている
関ヶ原の後、一国一城令が敷かれる中、政宗仙台藩の城主となる
 ☆特例として景綱白石城の城主を賜る
大坂の陣では病床に臥していたため、嫡子の重綱(のち重長)を参陣させた
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