慶喜

心意気
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何故日本と?その由来、その命名時期

2016年05月23日 | 歴史
「倭」「ヤマト」「大和」日本(日本国)JAPAN

日の出「日本」、日本列島が中国大陸から見て東の果て「日の本(ひのもと)」に位置することが由来?
近代の二つの憲法の表題は「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」と記載
国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない
日本工業規格 では日本国、英語表記をJAPANと表記する
旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊を提示している
「にっぽん」「にほん」と読まれる、どちらの読みでも良い




日本(ネットより引用)

「日本」という国号は何時定められたのか?
『古事記』や『日本書紀』で日本と表示している
奈良時代の初めには「日本」という国号が成立していた
「日本」の国号が成立する以前、中国の王朝から「倭国(ワ)」「倭」と称されている
『日本書紀』の記載によると「ヤマト」の勢力が倭を統一したと記載されている
漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、「大和」へと変化していく
「倭」が後に「日本」へと変化したとされている
『古事記』では原則として国号を「倭」に統一し、『日本書紀』では「日本」に統一して記述している

国号につながる倭語のヤマト
奈良盆地内の三輪山の山麓付近の狭い範囲を表す地名だった
ヤマト王権は、周辺の豪族との抗争や婚姻を通じて、次第にその支配地を拡大していった
ヤマト王権が拡大し、王権が及ぶ全地域を表す国名になっていった
神武天皇が、王業を定めた地である大和をもって国号とした

日本の国号の成立時期がわからないのは何故?
我が国の古代王朝では、交替がなかった
中国大陸では、新しい王朝が生まれ、そして消えて行った
各王朝が国の内外にその存在を示すためには、国号を制定することが不可欠だった
自主的な国号を制定する必要もなかった

702年に「日本」という国号を唐に対して正式に名乗った
第7次遣唐使は、「日本国は、使者を遣わし、方物を貢ぐ、日本国は倭国の別名なり」と記されている
日本国は倭国の別種であり、日出ずる所に近いため「日本」を国号とした

日本という国号は何を意味するのか?
”日”が太陽を意味する
”本”は元来、木の根本、古代中国の世界観の中の東の果ての日出ずる地となる
「日本」という国号のルーツをたどれば、その始源は中国ということになる

中国の各王朝の日本の呼び名
日本列島にあった政治勢力やその住人を、紀元前から倭および倭人と呼んできた
紀元前後頃から7世紀末頃にかけて、対外的に倭または倭国と称する
遣隋使は「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす」と答えたという
7世紀初頭においても、我が国の国号は、中国では倭であった
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足利義政と銀閣寺

2016年05月23日 | 歴史
八代将軍「足利義政」が築いた絶景の歴史物語

華麗なる足利一族100年物語
守護大名が戦を繰り返した戦乱の時代
京都を焼き尽くした、応仁の乱によって焼け野原となった京都
焼土の中から誕生したのが「銀閣寺」東山文化でした
足利義政の造った建物(銀閣寺)そして生み出した美の革命とは?
『BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組参考&引用






























銀閣寺(『BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組画像他引用)

東山慈照寺(銀閣寺)
義満が築いた、東山慈照寺(銀閣寺)山号より、東山文化と呼びます
慈照寺観音殿(一層は住宅風の書院造、二層は禅宗様の仏殿)
慈照寺東求堂は、四畳半の部屋(同仁斎)は、義政の書斎で、茶室の起源、近代和風建築の原型ともなった

東山文化とは
八代将軍足利義政が築いた京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らの文化が融合して生まれました
慈照寺銀閣は、東山文化を代表する建築です
能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開きました
東山文化は、庶民にも浸透し、日本的な文化を数多く生み出しました
「幽玄、わび・さび」に通じる美意識に支えられている文化と評されています

室町幕府の足利幕府経緯
足利義満は明徳の乱、応永の乱などで有力守護大名を挑発しては討伐してその勢力を削減
中国の明王朝から「日本国王」として冊封を受けて天皇に迫る権威を確立するなどした
足利義満が死去すると次第に将軍権力の弱体化、守護大名の台頭が顕著になって行く。
第6代将軍・足利義教は父・義満の政治路線を受け継いで将軍権力の強化を行なった
強硬的なやり方は周囲の反発を招き、暗殺され、将軍権力の衰退と権威の失墜が露呈する結果となった
第8代将軍・足利義政の時代には後継ぎ問題などをめぐって応仁の乱が発生
第10代将軍・足利義稙は管領の細川政元によって将軍職を追われた
第13代将軍・足利義輝暗殺後の3年間、室町幕府では将軍空位の時代が続き幕府は消滅している
足利義輝の実弟・足利義昭は、織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍となった
将軍の義昭は信長と対立して京都を追放され室町幕府は終焉を迎えた
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