慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

古地図と倉敷の街

2016年05月18日 | 歴史
白壁と運河の街として知られる「倉敷」の街

美観地区とよばれる江戸時代の風情を残した美しい街並みが印象的な場所です
倉敷の街はなぜ美しい姿なのか?
それには、3人のキーマンの存在があります
BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)の番組参考&引用






















BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)の番組画面引用

1人目のキーマン(宇喜田秀家)の貢献?
宇喜田家は、豊臣政権5大老迄出世しました
宇喜田秀家は、古地図でわかる様に、領地拡大策として干拓事業を行いました
干拓事業の結果より、倉敷の街ができました

2人目のキーマン(小堀遠州)の貢献?
街の中心を流れる運河を作り、貿易の中心地にしました
運河のお陰で、倉敷の発展しました
運河により、倉敷に「水夫」が育ちました

3人目のキーマン(街を愛した大倉氏他)
代表的な家並みや施設が、人々により作られ、街に点在しています
大倉美術館には、倉敷の街が美しく残されている理由が隠されています
美術館のお陰で、第二次大戦で空爆から逃れました?

倉敷市概略
総人口 48万人
岡山県の南部に位置する市で中国地方で三番目の総人口を擁する

倉敷歴史
倉敷地域は、吉備の穴海の内海に浮かぶ鶴形山と向山によって形成された鶴形島(円亀島、阿智島)を起源とします
平安時代始め頃、陸続きになり、周辺は阿智潟と呼ばれる干潟がありました
倉敷には、水夫(かこ)の港が現在の船倉町辺りありました
水夫達は、数々の戦いにかり出され、水軍として活躍しました
戦国時代には、政治軍事上の要地として豪族の争奪戦が行われるなど、戦乱の舞台にもなりました



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家康・家光による世紀の天下普請

2016年05月18日 | 歴史
世紀の天下普請はどのようにして行われたのか?

家康による江戸幕府を開く天下普請
三代将軍家光で完成された江戸城
歴史REAL「大江戸八百八町(竹内江戸東京博物館館長)」記事参考&引用




江戸城(歴史REALより引用)

家康による江戸幕府を開く天下普請
江戸城の普請と、平川河口~江戸城大手門近の道三堀とよばれる船大堀を掘り開いた
道三堀と並行して縦堀・横堀が掘られて低湿地の排水がはかられ、その際の土を盛り上げて市街地造成がすすめられた
西の丸の築城工事にともなって、掘割工事が行われ日比谷入江の一部が埋め立てられた
諸大名に石高千石にひとり当たりの人夫(千石夫)を動員する御手伝普請を命じた
神田山を切り崩し、その上で外島(豊島)の須崎を埋め立てた
日本橋以南から京橋・銀座・八丁堀つ一帯にかけて広大な町地が出現した
三河・駿河などの徳川氏の旧領や小田原・伊勢・近江、上方から多数の商人や職人が移住してきて町屋を建設した
普請を課せられた大名は、安芸広島城主の福島正則・肥後熊本城主の加藤清正ら七十家でした
将軍家に対する忠勤を示そうと、規定以上の人夫を出したところも多く、動員人数は4万人にのぼったという

三代将軍家光で完成された江戸城
総構は内郭と外郭からなる
内郭は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸と中郭の吹上・北の丸・西の丸下などからなり、規模は大坂城の外郭全体に相当する
外郭は、外濠と隅田川・江戸湾に囲まれた内側で、周囲は約17KMで、当時の武家屋敷・町屋の大半を含んでいた
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