「ものをあげること」
について、以前に少し書かせてもらいました。今日はその続きです。
ホンジュラスでは、ものやお金をもらうことに対して結構淡白なところがあります。
日本だと恐縮したり、お返しをと思ったりします。
しかし、ホンジュラス人は、
「ありがとう。」
と一言で終わりです。
受け取り上手といったところでしょうか。
Give and giveでやっていると、この国では丸裸にされてしまうでしょう。
持てる者と持たざる者の格差が激しく、貧困層の人々はその日生きていくので精一杯です。もらえるものは何でももらうというのが彼らの基本的な考え方です。
何日も食べるものがなく、そして依然として貧困から抜ける道がないとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。
あきらめ、やるせなさ、金持ちは寄付をして当然、豊かな国は分け前を与えるべき、という考えになってくるのではないでしょうか。
こういう背景があるので、与える方もさばさばしています。与えるのが当然と思っているのかもしれません。だから、何の見返りも期待せず、寄付や親切を施します。
日本だと、
「あんなに親切にしたのに…。」
などと考えるのが常ですね。
同じ市に住む日本人が勤務先にパソコンを数台寄付したことがありました。
日本の事務所の予算が余ったので、パソコンの寄贈は事務所から提案されたようです。
勤務先の学校校長のサイン入りのレターなどが必要です。彼は、そのことを連絡し、首を長くして待っていました。
レター一枚で数台のパソコンがもらえ、学校は潤います。
ぼくならその仕事を第一にやるでしょう。
ところが、いくら待ってもそのレターが出てこないのです。
彼は怒りました。確かに日本の事務所が提案したパソコン寄贈ですが、レター1枚書くことができないです。
彼は何回か催促しましたが、やはり受け取ることができません。
そしてついに彼は切れました。
校長と同僚にかなり強い口調で最終通告をつきつけました。
そうこうして、やっとレターができあがりました。
数分で書けるレターですが、なぜこんなにも手間がかかるのでしょうか。
他に優先する仕事があったからでしょうか。
この日本人ボランティアが邪険扱いされているからでしょうか。
あるいは、事務仕事が苦手なのでしょうか。
もらうということに対して何か抵抗があるかのような対応です。
それでもパソコンが届いたときには、開通式ならぬ開箱式のようなものが行われ、彼はとても感謝されたようです。当然、生徒、先生は喜んでいました。
これは学校レベルですが、政府レベルでも同じような話がころがっています。
もらうことに慣れてしまうと、レター1枚書くのがおっくうになってしまうのか、あるいは、豊かになることに対して、何らかの抵抗があるのか。
そして数日後、何人かの先生がぼくに質問してきます。
「あの学校はパソコンをもらったようよ。うちには、何をくれるの。」
ぼくは技術移転のコンセプトについて話ました。
「ものはいつか故障します。部品を変えても、修理をしてもいつかはなくなります。
でも、技術は違うのです。
先生は教育技術を身に着け、それは子どもたちの高度な理解、思考力育成に役立ちます。そして世代から世代へその知識、理解が受け継がれます。
また、技術は今の先生方から次の世代の先生方へ伝えることができます。つまり、技術移転は永遠なのです。
どっちがいいですか」
こう質問すると、
「もちろん技術よ。パソコンについてはちょっと聞いてみただけよ。」
とのかわいい返事が即座に返ります。
それでもやっぱり、もらえるものはもらいたいのが人情です。
ただ、あまりに本人の努力なしで与えられてばかりいると、努力しなくなります。
だから、そのバランスをみながら寄贈をしなければなりません。
ODAには、もっといろいろなものが絡んでいるので、こういう単純な考え方はできないのかもしれませんが。
について、以前に少し書かせてもらいました。今日はその続きです。
ホンジュラスでは、ものやお金をもらうことに対して結構淡白なところがあります。
日本だと恐縮したり、お返しをと思ったりします。
しかし、ホンジュラス人は、
「ありがとう。」
と一言で終わりです。
受け取り上手といったところでしょうか。
Give and giveでやっていると、この国では丸裸にされてしまうでしょう。
持てる者と持たざる者の格差が激しく、貧困層の人々はその日生きていくので精一杯です。もらえるものは何でももらうというのが彼らの基本的な考え方です。
何日も食べるものがなく、そして依然として貧困から抜ける道がないとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。
あきらめ、やるせなさ、金持ちは寄付をして当然、豊かな国は分け前を与えるべき、という考えになってくるのではないでしょうか。
こういう背景があるので、与える方もさばさばしています。与えるのが当然と思っているのかもしれません。だから、何の見返りも期待せず、寄付や親切を施します。
日本だと、
「あんなに親切にしたのに…。」
などと考えるのが常ですね。
同じ市に住む日本人が勤務先にパソコンを数台寄付したことがありました。
日本の事務所の予算が余ったので、パソコンの寄贈は事務所から提案されたようです。
勤務先の学校校長のサイン入りのレターなどが必要です。彼は、そのことを連絡し、首を長くして待っていました。
レター一枚で数台のパソコンがもらえ、学校は潤います。
ぼくならその仕事を第一にやるでしょう。
ところが、いくら待ってもそのレターが出てこないのです。
彼は怒りました。確かに日本の事務所が提案したパソコン寄贈ですが、レター1枚書くことができないです。
彼は何回か催促しましたが、やはり受け取ることができません。
そしてついに彼は切れました。
校長と同僚にかなり強い口調で最終通告をつきつけました。
そうこうして、やっとレターができあがりました。
数分で書けるレターですが、なぜこんなにも手間がかかるのでしょうか。
他に優先する仕事があったからでしょうか。
この日本人ボランティアが邪険扱いされているからでしょうか。
あるいは、事務仕事が苦手なのでしょうか。
もらうということに対して何か抵抗があるかのような対応です。
それでもパソコンが届いたときには、開通式ならぬ開箱式のようなものが行われ、彼はとても感謝されたようです。当然、生徒、先生は喜んでいました。
これは学校レベルですが、政府レベルでも同じような話がころがっています。
もらうことに慣れてしまうと、レター1枚書くのがおっくうになってしまうのか、あるいは、豊かになることに対して、何らかの抵抗があるのか。
そして数日後、何人かの先生がぼくに質問してきます。
「あの学校はパソコンをもらったようよ。うちには、何をくれるの。」
ぼくは技術移転のコンセプトについて話ました。
「ものはいつか故障します。部品を変えても、修理をしてもいつかはなくなります。
でも、技術は違うのです。
先生は教育技術を身に着け、それは子どもたちの高度な理解、思考力育成に役立ちます。そして世代から世代へその知識、理解が受け継がれます。
また、技術は今の先生方から次の世代の先生方へ伝えることができます。つまり、技術移転は永遠なのです。
どっちがいいですか」
こう質問すると、
「もちろん技術よ。パソコンについてはちょっと聞いてみただけよ。」
とのかわいい返事が即座に返ります。
それでもやっぱり、もらえるものはもらいたいのが人情です。
ただ、あまりに本人の努力なしで与えられてばかりいると、努力しなくなります。
だから、そのバランスをみながら寄贈をしなければなりません。
ODAには、もっといろいろなものが絡んでいるので、こういう単純な考え方はできないのかもしれませんが。