活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

【改稿】過去へと遡及する旅   羆嵐(くまあらし) (上)

2009-09-23 00:00:05 | 活字の海(読了編)
著者:吉村昭 新潮文庫刊 定価:400円(税別)
初版刊行:昭和57年11月25日
入手版 :平成14年08月20日(29刷)


先日。
羆(ひぐま)の恐怖を描いた「シャトゥーン ヒグマの森」を読了

その書評を書く中で、少しネットでの評判等を検索している際に、
遭遇したのが本書。

大方の書評子は、「シャトゥーン ヒグマの森」よりも「羆嵐」の
方を薦めていたことや、何より「高熱隧道」以来の僕のお気に入り
である吉村昭氏の作品でもあることから、早速入手した。

今は、同じ吉村氏の「闇を裂く道」を黒部からのトンネル繋がりで
読んでいたこともあり、本書は暫くは積読リストに入る予定だったが…。


先日。
大阪府警訪問記を書き終えた後、ふと手に取ったのが運の尽き。

気がつけば、200ページ程のボリュームであることもあって。
一気に読了してしまった。



吉村氏の作風は、ドキュメンタリーでは無い。
かといって、吉村氏の思考から物語が紡ぎ出されるのではなく、
あくまで骨格となる事実を元にして、物語が語られていく。

ただ。
その創作過程においては、徹底した史実の検証が為されるという。

Wikiによれば、ある作品を仕上げるに当たり、「江戸時代の
ある土地の特定年月日における天気までも旅商人の日記から調査
して小説に盛り込むということまで行っている
」とのことである。

そうして調べ上げた膨大な事実を元にして。
氏は、その独特の感情表現を極力抑えた恬淡とした口調で物語を進めて
行く。

この小説も、おそらくそこに記されている出来事は、殆どが史実に沿った
ものであろう。

そのことは、巻末の氏の謝辞において、この小説の題材となった
「三毛別(さんけべつ)羆事件」の生存者二名に対する取材を行った
と記されていることからも、窺い知ることが出来る。

事件が発生したのが、大正4年(1915年)。
本書が出版されたのが、昭和52年(1977年)。

事件後は新たな被害こそ無かったものの、羆影が散見されたこともあって。
翌年には事件の起こった集落である六線沢は放棄され、住民は道内や青森、
その他へ散っていった。

本書によれば。
現在は、戦後新たに入植した6世帯中、一軒のみがまだ当地で生活を営んで
いるという。

ただ、Wikiによれば。
今日当地には事件当時の開拓小屋が復元され、その小屋を襲った「袈裟懸け」
という名前で呼ばれる羆の立像、小屋内には恐怖に震える人々の像もある
とのことである。


復元された開拓小屋。


※ 画像は、北海道デジタル図鑑(画像提供:フイルムコミッション/
  北海道庁)より



上記の画像のUP(小屋を襲う「袈裟懸け」)


※ 画像は、Wikiより






そして。
それから62年の歳月が流れていることを想起すると。

事件当時の生存者を探すことの大変さは、推して知るべしである。

まして、その生存者に。
過去の忌まわしい思い出を語ってもらうのであるから。

生半な姿勢では、口を開いてもらうことは困難だったろう。

事件が風化していったということは、人々の言の葉に上らなくなった
ということであり、当事者にとっても当時の感情を記憶の底に沈殿させて
表面に澱の皮膜が形成されていったことも考えられる。

辛い記憶には正面から向き合って克服すべき、等と第三者が言うのは
容易いが、例えば当時臨月の子供を宿していた母親と、弟二人を失い、
自分も文字通り羽毛が風に流されるような偶然により生きながらえる
こととなった武田ハマさんに対して。

当時の同じ生き残りの人以外に、面と向かってそう言いきれる人が
いるとすれば。

余程傲慢、かつ想像力が欠如しているとしか思えない。


生き残った方々への聞き取り調査の困難さについては、吉村氏の著作に
先立って本件のドキュメントを記した木村盛武氏も述懐している。



古丹別営林署員だった氏が、熊害史上類を見ない凄惨さでありながら
歴史の中に埋もれようとしていたこの事件に関心を持ち、記録を
残そうとして生存者の方へインタビューを行ったのが、昭和36年
(1961年)。

※ 名前が明かされているのは、上述の武田さんのみ。
  吉村氏は、別の2名の方のお名前を謝辞にて挙げている。


上述の武田氏へのインタビューは、忘れ去りたい過去を蘇らせるもの
として当然のように忌諱され、三度目の訪問にしてようやく口を開いて
もらうことが出来た、とのことである。
(出典:北海道新聞社HP 道内の被害史による)

そうした苦心の末に、木村氏が上梓した書物がきっかけとなって。
昭和40年(1965年)に戸川幸夫氏が「羆風(くまかぜ)」を。
そして。
昭和52年(1977年)には、吉村昭氏が本書「羆嵐(くまあらし)」を。
それぞれ、世に生み出すこととなった次第である。



こうした、過去の事件を発掘し、調べ上げ、作品としていくことの困難さに
ついては、大きく二つの障壁が存在すると考える。

ひとつは、上述したような関係者へのヒアリングの困難さ。

そして、もうひとつは一次資料の散逸による事実確認の困難さ。

最近でこそ、ネットで過去の天候やその他の様々な事物が検索出来る
ようになったけれど。
それらとて、参考にはなりこそすれ、一次資料で無い以上は事実確認を
取ることは必須となる。

これは別にネット資料に限らないが、凡そ検索出来るあらゆるものは
誰がどのような意図を持って書いているかによって、全くその持つ
意味性が異なってくることは自明だからである。

知人が、とある大手出版社の現代用語辞典の執筆をしているが、
その際に出版社から、記載内容は全て一次資料に基づくものという
付帯条件を示されていたという話しを伺ったことがある。

現代用語辞典という特性を考慮すれば、そこに恣意的な要素が混入する
ことの是非は当然有ろう、

だが、小説の場合には。
俺はこのように感じ、考えたんだと言い張ることも又、可能である。
その結果、その小説はドキュメンタリーの色を無くしてしまうだろう
けれど。
その小説を書く発想の種火として、その事象があったのだと考えれば
それほど可笑しな話でも無いと思う。

ところが…。
吉村氏の場合は、そこを真っ向から否定する。
上述したような、徹底した史実の検証に基づく執筆のスタイルは、
ある意味小説としての自由度を著しく狭めることとなるだろう。

それでも。
吉村氏は、自身の作風として。
そこを蔑(ないがし)ろにはしないという芯を通していたようだ。

それでは、なぜ氏は作品をドキュメンタリーではなく、小説として
発表したのか?

結構僕としては疑問が残るところであるが。
これについては長くなるので、本稿の別章で述べることとしたい。



(この稿、続く)





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吉村 昭
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慟哭の谷―The devil’s valley
木村 盛武
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