活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

仰木彬 パ・リーグ魂 ~命をかけてプロ野球を救った男(改版)

2008-10-04 04:00:36 | 活字の海(読了編)
著者:金村義明 世界文化社 2006年12月 初版発行


数年前に、日経新聞の「私の履歴書」に楽天の野村監督が載って以降、
昭和時代のプロ野球が面白くなり、古本屋等で目に付く度に往時の選手の
自叙伝や評論等を、ぽつりぽつりを買い集めては読んでいる。

元々パ・リーグは南海ホークスファンである僕にとって、贔屓のチームが
マスコミに露出する機会はあまり(というか滅多に)無く、こうした本を
読むと「ああ、あの事件や勝負の裏には、こんなエピソードがあったのか!?」
と合点することもよくあり、なかなかに面白い。

この本も、同じような流れで、行き付けの古本屋の書棚にあったものを
GET。



「川崎球場が大変なことになっております。」

ニュースステーションの冒頭、久米宏のこの言葉に象徴されている、あの日。
のっけから、パ・リーグファンの間では伝説と化している1988年10月19日
から始まるところが熱い。

あのリーグ優勝がかかった10.19のダブルヘッダーの最中、監督就任
1年目の仰木彬が率いる近鉄の選手達が何を考え、思っていたのか。
激闘の後、どんな思いで夜を明かしたのかが、インサイダーの視点で
赤裸々に描かれる。

ここでは詳述しないが、常勝西武に対して、最大8ゲーム差を縮めての
最終戦である。
#これが、対西武戦でなく、対ロッテ戦だったことはご愛嬌だが。
#既に試合の無い西武は、所沢球場で近鉄の試合の行方を見守っていた。


なんとか勝ちに終わった第1試合の後。
ファンも、選手も、次の試合に勝って、優勝をこの手に!の思いに燃えていた。

当時、金村は、負傷のため選手登録されておらず、したがってベンチ入りも
当然出来ていなかった。

とはいえ、観客席でじっともしていられず、第2試合が始まる前に陣中見舞いに
ベンチを訪れた金村を見かけた仰木監督は、試合開始とともに、一人客席へ
去ろうとする金村を叱責するようにして、ベンチに座らせる。

これも、今では考えられない光景だろう。

優勝が決まった試合なのである。大一番である。
そんな大事な試合で、登録外選手をベンチ入りさせていることが相手に
ばれたら、どのような負の波及影響を及ぼすのか。

だが、そんな常識的な発想を吹き飛ばすような、仰木の言葉。

シーズンを通じて共に闘った仲間が、この大一番でも共に勝利も敗北も
分かち合えなくてどうする?文句があるやつは、俺に言って来い!

型破りでは有るし、球団的な損得勘定からは当然問題が大有りなのだが、
選手の男心を鷲掴みにするには十分な言葉である。

事実、この後も、金村は仰木を師匠と仰ぎ、長い年月を過ごしていくこと
となる。

他の選手に取って見れば、協約違反となる金村の存在を迷惑と言う見方も
当然あっただろうが、親父が言うなら、文句は言わない。そうした空気が
ベンチにもあったのだろう。

そうでなければ、まずは近鉄ベンチ内で、問題になっていた筈だから。

それほどの思いで臨んだ試合も、結果としては1勝1引き分け。
僅かな勝率の差(その差は、僅か2厘だった)で、リーグ優勝の栄誉は
西武のものとなった。

#その年、西武は日本シリーズで中日を制して日本一に輝く。
 このときの清原の名台詞が、「これで近鉄に顔向けできる。」
 この言葉を聴いた仰木監督が清原を気に入ったのが、後年の清原の
 オリックス入りのきっかけとなったことを考えると、実に感慨深い。


その夜。
大の男達が、祝賀会を行うはずだったスナックで、人目も憚らず泣き叫び、
転げまわる。のた打ち回る。

それはそうだろう。シーズンを通じて、いや、プレシーズンから体を鍛え、
精神を研ぎ澄ませてきたのは、偏に優勝の二文字のためである。
一時はその思いも消し飛ぶような8月の時点で8ゲームというゲーム差。
それを、一つひとつ打ち消すように勝利を重ね、ようやく掌中に収めかけた
と思った8年振りのリーグ優勝が、するりと手を抜けて出て行ってしまったのだ。

あの試合で、俺が抑えきっていたら…。
あの試合で、俺が打ちさえしていたら…。
あの試合で、俺がエラーをしなければ…。
そして、あそこで故障さえしていなければ…。

様々な悔恨と煩悶に焼かれるように、身悶えしながら泣き続ける男たち。

そして…。
泣きながら仰木監督の下に行き、(怪我をして、最後までチームに貢献
出来ず)すみませんでした、と何度も頭を下げて謝る金村に対して、
仰木監督は静かに、

「カネ、打ち上げやぞ」

と言って、頭を撫ぜてくれた、という。

これで心酔しない奴がいたら、お目にかかりたいものである。


この後も、チームを変え、立場を変えながらも、仰木監督と金村との交流は
続いていく。

もちろんそれは、他の選手達についても同じである。
一度懐に飛び込んだ選手に対しては、仰木は絶対的な求心力を持つ存在と
なっていくのだ。

このことは、イチロー、野茂といったメジャーに渡った選手についても
同様である。

#イチロー渡米後のあるシーズン、シーズン前のキャンプにて。
 ステテコにパンチパーマ、サングラスの仰木にイチローが直立不動で
 応対している光景を見て、アメリカのメディアは「イチローがジャパニーズ
 マフィアに脅かされている」と勘違いした、という小話が紹介されている。
 事実なら、実に愉快なエピソードである。


”仰木マジック”。
一世を風靡した、この言葉。

しかし、その真髄は、采配ではなく、人タラシの妙だったのかも知れない。


そして、2005年。
病に冒された体を労う素振りも見せず、その難産とキマイラのような編成
からチームとしての形も作れなかった新生オリックス・バファローズを
纏め上げ、立ち上げた後の冬。

12月15日。その役目の行方を見定めたように永眠。
享年70歳。

またひとつ、昭和のプロ野球の灯火が、消えた。



(付記)
関西在住のホークスファンとして、京セラドームへ僕はよく足を運ぶ。
今のオリックスの爽やかな球団歌も、それはそれでいいのだが、
僕としては近鉄バファローズ時代の、大西ゆかりと新世界が歌っていた
RED de HUSTLE」が大好きである。

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