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著者:金村義明 世界文化社 2006年12月 初版発行
数年前に、日経新聞の「私の履歴書」に楽天の野村監督が載って以降、
昭和時代のプロ野球が面白くなり、古本屋等で目に付く度に往時の選手の
自叙伝や評論等を、ぽつりぽつりを買い集めては読んでいる。
元々パ・リーグは南海ホークスファンである僕にとって、贔屓のチームが
マスコミに露出する機会はあまり(というか滅多に)無く、こうした本を
読むと「ああ、あの事件や勝負の裏には、こんなエピソードがあったのか!?」
と合点することもよくあり、なかなかに面白い。
この本も、同じような流れで、行き付けの古本屋の書棚にあったものを
GET。
「川崎球場が大変なことになっております。」
ニュースステーションの冒頭、久米宏のこの言葉に象徴されている、あの日。
のっけから、パ・リーグファンの間では伝説と化している1988年10月19日
から始まるところが熱い。
あのリーグ優勝がかかった10.19のダブルヘッダーの最中、監督就任
1年目の仰木彬が率いる近鉄の選手達が何を考え、思っていたのか。
激闘の後、どんな思いで夜を明かしたのかが、インサイダーの視点で
赤裸々に描かれる。
ここでは詳述しないが、常勝西武に対して、最大8ゲーム差を縮めての
最終戦である。
#これが、対西武戦でなく、対ロッテ戦だったことはご愛嬌だが。
#既に試合の無い西武は、所沢球場で近鉄の試合の行方を見守っていた。
なんとか勝ちに終わった第1試合の後。
ファンも、選手も、次の試合に勝って、優勝をこの手に!の思いに燃えていた。
当時、金村は、負傷のため選手登録されておらず、したがってベンチ入りも
当然出来ていなかった。
とはいえ、観客席でじっともしていられず、第2試合が始まる前に陣中見舞いに
ベンチを訪れた金村を見かけた仰木監督は、試合開始とともに、一人客席へ
去ろうとする金村を叱責するようにして、ベンチに座らせる。
これも、今では考えられない光景だろう。
優勝が決まった試合なのである。大一番である。
そんな大事な試合で、登録外選手をベンチ入りさせていることが相手に
ばれたら、どのような負の波及影響を及ぼすのか。
だが、そんな常識的な発想を吹き飛ばすような、仰木の言葉。
シーズンを通じて共に闘った仲間が、この大一番でも共に勝利も敗北も
分かち合えなくてどうする?文句があるやつは、俺に言って来い!
型破りでは有るし、球団的な損得勘定からは当然問題が大有りなのだが、
選手の男心を鷲掴みにするには十分な言葉である。
事実、この後も、金村は仰木を師匠と仰ぎ、長い年月を過ごしていくこと
となる。
他の選手に取って見れば、協約違反となる金村の存在を迷惑と言う見方も
当然あっただろうが、親父が言うなら、文句は言わない。そうした空気が
ベンチにもあったのだろう。
そうでなければ、まずは近鉄ベンチ内で、問題になっていた筈だから。
それほどの思いで臨んだ試合も、結果としては1勝1引き分け。
僅かな勝率の差(その差は、僅か2厘だった)で、リーグ優勝の栄誉は
西武のものとなった。
#その年、西武は日本シリーズで中日を制して日本一に輝く。
このときの清原の名台詞が、「これで近鉄に顔向けできる。」
この言葉を聴いた仰木監督が清原を気に入ったのが、後年の清原の
オリックス入りのきっかけとなったことを考えると、実に感慨深い。
その夜。
大の男達が、祝賀会を行うはずだったスナックで、人目も憚らず泣き叫び、
転げまわる。のた打ち回る。
それはそうだろう。シーズンを通じて、いや、プレシーズンから体を鍛え、
精神を研ぎ澄ませてきたのは、偏に優勝の二文字のためである。
一時はその思いも消し飛ぶような8月の時点で8ゲームというゲーム差。
それを、一つひとつ打ち消すように勝利を重ね、ようやく掌中に収めかけた
と思った8年振りのリーグ優勝が、するりと手を抜けて出て行ってしまったのだ。
あの試合で、俺が抑えきっていたら…。
あの試合で、俺が打ちさえしていたら…。
あの試合で、俺がエラーをしなければ…。
そして、あそこで故障さえしていなければ…。
様々な悔恨と煩悶に焼かれるように、身悶えしながら泣き続ける男たち。
そして…。
泣きながら仰木監督の下に行き、(怪我をして、最後までチームに貢献
出来ず)すみませんでした、と何度も頭を下げて謝る金村に対して、
仰木監督は静かに、
「カネ、打ち上げやぞ」
と言って、頭を撫ぜてくれた、という。
これで心酔しない奴がいたら、お目にかかりたいものである。
この後も、チームを変え、立場を変えながらも、仰木監督と金村との交流は
続いていく。
もちろんそれは、他の選手達についても同じである。
一度懐に飛び込んだ選手に対しては、仰木は絶対的な求心力を持つ存在と
なっていくのだ。
このことは、イチロー、野茂といったメジャーに渡った選手についても
同様である。
#イチロー渡米後のあるシーズン、シーズン前のキャンプにて。
ステテコにパンチパーマ、サングラスの仰木にイチローが直立不動で
応対している光景を見て、アメリカのメディアは「イチローがジャパニーズ
マフィアに脅かされている」と勘違いした、という小話が紹介されている。
事実なら、実に愉快なエピソードである。
”仰木マジック”。
一世を風靡した、この言葉。
しかし、その真髄は、采配ではなく、人タラシの妙だったのかも知れない。
そして、2005年。
病に冒された体を労う素振りも見せず、その難産とキマイラのような編成
からチームとしての形も作れなかった新生オリックス・バファローズを
纏め上げ、立ち上げた後の冬。
12月15日。その役目の行方を見定めたように永眠。
享年70歳。
またひとつ、昭和のプロ野球の灯火が、消えた。
(付記)
関西在住のホークスファンとして、京セラドームへ僕はよく足を運ぶ。
今のオリックスの爽やかな球団歌も、それはそれでいいのだが、
僕としては近鉄バファローズ時代の、大西ゆかりと新世界が歌っていた
「RED de HUSTLE」が大好きである。
数年前に、日経新聞の「私の履歴書」に楽天の野村監督が載って以降、
昭和時代のプロ野球が面白くなり、古本屋等で目に付く度に往時の選手の
自叙伝や評論等を、ぽつりぽつりを買い集めては読んでいる。
元々パ・リーグは南海ホークスファンである僕にとって、贔屓のチームが
マスコミに露出する機会はあまり(というか滅多に)無く、こうした本を
読むと「ああ、あの事件や勝負の裏には、こんなエピソードがあったのか!?」
と合点することもよくあり、なかなかに面白い。
この本も、同じような流れで、行き付けの古本屋の書棚にあったものを
GET。
「川崎球場が大変なことになっております。」
ニュースステーションの冒頭、久米宏のこの言葉に象徴されている、あの日。
のっけから、パ・リーグファンの間では伝説と化している1988年10月19日
から始まるところが熱い。
あのリーグ優勝がかかった10.19のダブルヘッダーの最中、監督就任
1年目の仰木彬が率いる近鉄の選手達が何を考え、思っていたのか。
激闘の後、どんな思いで夜を明かしたのかが、インサイダーの視点で
赤裸々に描かれる。
ここでは詳述しないが、常勝西武に対して、最大8ゲーム差を縮めての
最終戦である。
#これが、対西武戦でなく、対ロッテ戦だったことはご愛嬌だが。
#既に試合の無い西武は、所沢球場で近鉄の試合の行方を見守っていた。
なんとか勝ちに終わった第1試合の後。
ファンも、選手も、次の試合に勝って、優勝をこの手に!の思いに燃えていた。
当時、金村は、負傷のため選手登録されておらず、したがってベンチ入りも
当然出来ていなかった。
とはいえ、観客席でじっともしていられず、第2試合が始まる前に陣中見舞いに
ベンチを訪れた金村を見かけた仰木監督は、試合開始とともに、一人客席へ
去ろうとする金村を叱責するようにして、ベンチに座らせる。
これも、今では考えられない光景だろう。
優勝が決まった試合なのである。大一番である。
そんな大事な試合で、登録外選手をベンチ入りさせていることが相手に
ばれたら、どのような負の波及影響を及ぼすのか。
だが、そんな常識的な発想を吹き飛ばすような、仰木の言葉。
シーズンを通じて共に闘った仲間が、この大一番でも共に勝利も敗北も
分かち合えなくてどうする?文句があるやつは、俺に言って来い!
型破りでは有るし、球団的な損得勘定からは当然問題が大有りなのだが、
選手の男心を鷲掴みにするには十分な言葉である。
事実、この後も、金村は仰木を師匠と仰ぎ、長い年月を過ごしていくこと
となる。
他の選手に取って見れば、協約違反となる金村の存在を迷惑と言う見方も
当然あっただろうが、親父が言うなら、文句は言わない。そうした空気が
ベンチにもあったのだろう。
そうでなければ、まずは近鉄ベンチ内で、問題になっていた筈だから。
それほどの思いで臨んだ試合も、結果としては1勝1引き分け。
僅かな勝率の差(その差は、僅か2厘だった)で、リーグ優勝の栄誉は
西武のものとなった。
#その年、西武は日本シリーズで中日を制して日本一に輝く。
このときの清原の名台詞が、「これで近鉄に顔向けできる。」
この言葉を聴いた仰木監督が清原を気に入ったのが、後年の清原の
オリックス入りのきっかけとなったことを考えると、実に感慨深い。
その夜。
大の男達が、祝賀会を行うはずだったスナックで、人目も憚らず泣き叫び、
転げまわる。のた打ち回る。
それはそうだろう。シーズンを通じて、いや、プレシーズンから体を鍛え、
精神を研ぎ澄ませてきたのは、偏に優勝の二文字のためである。
一時はその思いも消し飛ぶような8月の時点で8ゲームというゲーム差。
それを、一つひとつ打ち消すように勝利を重ね、ようやく掌中に収めかけた
と思った8年振りのリーグ優勝が、するりと手を抜けて出て行ってしまったのだ。
あの試合で、俺が抑えきっていたら…。
あの試合で、俺が打ちさえしていたら…。
あの試合で、俺がエラーをしなければ…。
そして、あそこで故障さえしていなければ…。
様々な悔恨と煩悶に焼かれるように、身悶えしながら泣き続ける男たち。
そして…。
泣きながら仰木監督の下に行き、(怪我をして、最後までチームに貢献
出来ず)すみませんでした、と何度も頭を下げて謝る金村に対して、
仰木監督は静かに、
「カネ、打ち上げやぞ」
と言って、頭を撫ぜてくれた、という。
これで心酔しない奴がいたら、お目にかかりたいものである。
この後も、チームを変え、立場を変えながらも、仰木監督と金村との交流は
続いていく。
もちろんそれは、他の選手達についても同じである。
一度懐に飛び込んだ選手に対しては、仰木は絶対的な求心力を持つ存在と
なっていくのだ。
このことは、イチロー、野茂といったメジャーに渡った選手についても
同様である。
#イチロー渡米後のあるシーズン、シーズン前のキャンプにて。
ステテコにパンチパーマ、サングラスの仰木にイチローが直立不動で
応対している光景を見て、アメリカのメディアは「イチローがジャパニーズ
マフィアに脅かされている」と勘違いした、という小話が紹介されている。
事実なら、実に愉快なエピソードである。
”仰木マジック”。
一世を風靡した、この言葉。
しかし、その真髄は、采配ではなく、人タラシの妙だったのかも知れない。
そして、2005年。
病に冒された体を労う素振りも見せず、その難産とキマイラのような編成
からチームとしての形も作れなかった新生オリックス・バファローズを
纏め上げ、立ち上げた後の冬。
12月15日。その役目の行方を見定めたように永眠。
享年70歳。
またひとつ、昭和のプロ野球の灯火が、消えた。
(付記)
関西在住のホークスファンとして、京セラドームへ僕はよく足を運ぶ。
今のオリックスの爽やかな球団歌も、それはそれでいいのだが、
僕としては近鉄バファローズ時代の、大西ゆかりと新世界が歌っていた
「RED de HUSTLE」が大好きである。