著者:吉村昭 新潮文庫刊 価格:420円(税込)
初版刊行:昭和50年07月25日
入手版 :平成20年11月15日(50刷)
先日、黒部ダムに行った折。
黒部ダムへと向かうトロリーバスの起点である扇沢駅の売店で
買い求めた一冊。
読了後、固く重い固まりが、いつまでも胃腑の辺りにしこっていた。
黒部峡谷。
その峻厳な山並みは、かねて地元の漁師ですら立ち入ることあたわざる
世界だった。
有史以来人外だったこのエリアに、人の手が入りだしたのは昭和11年。
中国との戦いが迷宮にさ迷いこむとともに。
国力増大の声に背中を蹴押されるように、黒部峡谷への第三ダム開発が
決定された。
そこに繰り広げられた闘いは…。
岩盤温度165度。
この言葉に、最もよく凝縮されているだろう。
高熱を発する岩盤に熱せられて、抗内の気温は60度を軽く超える。
そこに、人が立ち入り、掘削作業を行うのだ。
無論、そのままでは存在さえ許されない環境を克服するために。
背後からの放水。強制換気装置。人夫の作業時間を20分とする等。
様々な営みの上で、切端での作業は続けられていく。
もうそれは生半な人の想像力を遥かに凌駕した、過酷な戦い。
そのことを雄弁に物語る数字を、もう一つ紹介しよう。
犠牲者総数、300人超。
しかも、最も難工事とされた第一、第二工区の犠牲者は、なんと
そのうちの233名を数えるという。
この事実を前にして。
まともな想像力を有するものならば、言葉を喪わずにはいられないだろう。
本書の解説を書いている、久保田正文氏によると。
本書の主題は、自然と人間との戦いとされる。
確かに、上述したような苛烈極まりない環境を考えたとき、そうした
構図が浮かび上がることを、否定はしない。
それは、それでいい。
だが。
僕的には、本書の最も重要なテーマは、人間の営みにある、
とそう思っている。
この苛烈という言葉さえ生温く感じる環境と戦うために。
人は、智慧と気力の二つを武器に挑んでいく。
この工事現場に携わる人は、大きく二つの立場に分けられる。
一つは、人夫。
言うまでも無く、第一線で掘削作業を続ける人々である。
そしてもう一つは、工事の監督を司る技師達。
彼らは、自らの身を直截的に危険に晒す訳ではない。
号令し、ハッパを掛け、工事全体を導いていくことこそが、その役目である。
だが。
その号令の下、作業に駆り出される人夫達は、その命を常に危険に晒し
ながら、作業を続けているのだ。
人夫達は、通常の4倍もの日当をニンジン代わりにぶら下げられて、
作業に従事する。
だが。
それだけで、本当にこれだけの犠牲者を出しながら、作業を継続する
ことが出来たのだろうか?
坑道に入る人夫達には、様々なタブーがある。
例えば。
坑道内では歌を歌ってはいけない。口笛もいけない。女を連想させる
言葉も発してはならない。妻が子供を出産した人夫は、しばらくの間
入坑を禁じられたとさえ言う。
それらは即ち、本来人が立ち入ることの出来ない場所へと挑んでいく
に当たっての、最低限の禁忌だ。
山ノ神を、如何にして刺激せずに、作業を続けさせてもらうか。
そこに潜む人夫達の本能的な怯えを思えば、上記の禁忌を軽率に笑う
ことなど出来よう筈もない。
それほどまでに、自然を畏怖する人夫が、この過酷な現場に挑み続ける
ことを説明するには、金銭などでは追いつかない。
それは、目の前に立ち塞がる岩盤に対する、怒りにも似た原始の感情の
迸(ほとばし)りに近い何かだろう。
一方。
技師達を駆り立てるものは。
国策の一端を担うものとしての責任感でも、栄誉でもなく。
ただ只管(ひたすら)に、開通の瞬間のカタルシスを追う。
それは、坑道技師の宿阿とも呼べるものである。
その技師と人夫との係わり合いを表わす象徴的なエピソードが、
前半の山場として描かれる。
あまりの高熱に、とうとう切端爆破用のダイナマイトが自然発火。
8人の人夫の犠牲者を出した時である。
文字通り、ばらばらになった8人の遺体。
それは最早、遺体というよりは残骸であった。
誰もが固唾を呑んで見守る中。
総責任者である根津は、素手で手足を。内臓を掬い取り、8人の
体に並べ替える。
その根津の行為を、著者は人夫達の人心掌握術として描く。
動機はともあれ、根津の鬼気迫る営みは、技師達と人夫達との紐帯を
培っていく。
そして。
狂気にも似た狂騒の後、とうとう坑道が貫通する刹那を迎えた時。
両者の間には、立場の違いこそあれ、共に苦楽を分かち合った仲間と
しての、達成感が満ちていた…。
と、なれば。
美しい物語として、本書は無難に幕を閉じたろう。
だが、著者は、そのようなラストを許さない。
トンネル貫通という、この工事の最大の山場を乗り越えた後も。
人夫達の中には、暗く深い憎しみが渦巻いている。
それは、自分達をこのような環境に追い込んだ直接的な当事者である
技師へと向けられる、暗赤色に濁った憎しみの眼差しだ。
その眼差しに追われるように、技師達がひっそりと山を降りるところで
物語の幕を著者は閉じる。
なんと、やりきれないラストだろう。
なんと、救いの無いラストだろう。
だが僕には。
これこそが、著者が語りたかったことのように思えてならない。
良きにつけ、悪しきにつけ。
人を動かすものは、野心でも欲望でも、栄誉でもなく。
人と人との関わり合いなのだ、と。
それが故、人は常に誰かと関わり合いを持たずにはいられない生き物
なのだろう。
例えそれが、どのような結末をもたらすとしても。
だからこそ。
黒部を追われる様に去っていった根津を始めとする技師達も。
いずれまた、どこかの坑道で、再び人夫達とともに貫通に向けた
営みを始めたに違いないと、僕は思っている。
(この稿、了)
もう、これ以上語る言葉は無い。
二百数十頁の厚みの本書である。
是非、手に取って読んでみて欲しい。
初版刊行:昭和50年07月25日
入手版 :平成20年11月15日(50刷)
先日、黒部ダムに行った折。
黒部ダムへと向かうトロリーバスの起点である扇沢駅の売店で
買い求めた一冊。
読了後、固く重い固まりが、いつまでも胃腑の辺りにしこっていた。
黒部峡谷。
その峻厳な山並みは、かねて地元の漁師ですら立ち入ることあたわざる
世界だった。
有史以来人外だったこのエリアに、人の手が入りだしたのは昭和11年。
中国との戦いが迷宮にさ迷いこむとともに。
国力増大の声に背中を蹴押されるように、黒部峡谷への第三ダム開発が
決定された。
そこに繰り広げられた闘いは…。
岩盤温度165度。
この言葉に、最もよく凝縮されているだろう。
高熱を発する岩盤に熱せられて、抗内の気温は60度を軽く超える。
そこに、人が立ち入り、掘削作業を行うのだ。
無論、そのままでは存在さえ許されない環境を克服するために。
背後からの放水。強制換気装置。人夫の作業時間を20分とする等。
様々な営みの上で、切端での作業は続けられていく。
もうそれは生半な人の想像力を遥かに凌駕した、過酷な戦い。
そのことを雄弁に物語る数字を、もう一つ紹介しよう。
犠牲者総数、300人超。
しかも、最も難工事とされた第一、第二工区の犠牲者は、なんと
そのうちの233名を数えるという。
この事実を前にして。
まともな想像力を有するものならば、言葉を喪わずにはいられないだろう。
本書の解説を書いている、久保田正文氏によると。
本書の主題は、自然と人間との戦いとされる。
確かに、上述したような苛烈極まりない環境を考えたとき、そうした
構図が浮かび上がることを、否定はしない。
それは、それでいい。
だが。
僕的には、本書の最も重要なテーマは、人間の営みにある、
とそう思っている。
この苛烈という言葉さえ生温く感じる環境と戦うために。
人は、智慧と気力の二つを武器に挑んでいく。
この工事現場に携わる人は、大きく二つの立場に分けられる。
一つは、人夫。
言うまでも無く、第一線で掘削作業を続ける人々である。
そしてもう一つは、工事の監督を司る技師達。
彼らは、自らの身を直截的に危険に晒す訳ではない。
号令し、ハッパを掛け、工事全体を導いていくことこそが、その役目である。
だが。
その号令の下、作業に駆り出される人夫達は、その命を常に危険に晒し
ながら、作業を続けているのだ。
人夫達は、通常の4倍もの日当をニンジン代わりにぶら下げられて、
作業に従事する。
だが。
それだけで、本当にこれだけの犠牲者を出しながら、作業を継続する
ことが出来たのだろうか?
坑道に入る人夫達には、様々なタブーがある。
例えば。
坑道内では歌を歌ってはいけない。口笛もいけない。女を連想させる
言葉も発してはならない。妻が子供を出産した人夫は、しばらくの間
入坑を禁じられたとさえ言う。
それらは即ち、本来人が立ち入ることの出来ない場所へと挑んでいく
に当たっての、最低限の禁忌だ。
山ノ神を、如何にして刺激せずに、作業を続けさせてもらうか。
そこに潜む人夫達の本能的な怯えを思えば、上記の禁忌を軽率に笑う
ことなど出来よう筈もない。
それほどまでに、自然を畏怖する人夫が、この過酷な現場に挑み続ける
ことを説明するには、金銭などでは追いつかない。
それは、目の前に立ち塞がる岩盤に対する、怒りにも似た原始の感情の
迸(ほとばし)りに近い何かだろう。
一方。
技師達を駆り立てるものは。
国策の一端を担うものとしての責任感でも、栄誉でもなく。
ただ只管(ひたすら)に、開通の瞬間のカタルシスを追う。
それは、坑道技師の宿阿とも呼べるものである。
その技師と人夫との係わり合いを表わす象徴的なエピソードが、
前半の山場として描かれる。
あまりの高熱に、とうとう切端爆破用のダイナマイトが自然発火。
8人の人夫の犠牲者を出した時である。
文字通り、ばらばらになった8人の遺体。
それは最早、遺体というよりは残骸であった。
誰もが固唾を呑んで見守る中。
総責任者である根津は、素手で手足を。内臓を掬い取り、8人の
体に並べ替える。
その根津の行為を、著者は人夫達の人心掌握術として描く。
動機はともあれ、根津の鬼気迫る営みは、技師達と人夫達との紐帯を
培っていく。
そして。
狂気にも似た狂騒の後、とうとう坑道が貫通する刹那を迎えた時。
両者の間には、立場の違いこそあれ、共に苦楽を分かち合った仲間と
しての、達成感が満ちていた…。
と、なれば。
美しい物語として、本書は無難に幕を閉じたろう。
だが、著者は、そのようなラストを許さない。
トンネル貫通という、この工事の最大の山場を乗り越えた後も。
人夫達の中には、暗く深い憎しみが渦巻いている。
それは、自分達をこのような環境に追い込んだ直接的な当事者である
技師へと向けられる、暗赤色に濁った憎しみの眼差しだ。
その眼差しに追われるように、技師達がひっそりと山を降りるところで
物語の幕を著者は閉じる。
なんと、やりきれないラストだろう。
なんと、救いの無いラストだろう。
だが僕には。
これこそが、著者が語りたかったことのように思えてならない。
良きにつけ、悪しきにつけ。
人を動かすものは、野心でも欲望でも、栄誉でもなく。
人と人との関わり合いなのだ、と。
それが故、人は常に誰かと関わり合いを持たずにはいられない生き物
なのだろう。
例えそれが、どのような結末をもたらすとしても。
だからこそ。
黒部を追われる様に去っていった根津を始めとする技師達も。
いずれまた、どこかの坑道で、再び人夫達とともに貫通に向けた
営みを始めたに違いないと、僕は思っている。
(この稿、了)
もう、これ以上語る言葉は無い。
二百数十頁の厚みの本書である。
是非、手に取って読んでみて欲しい。
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