活字の海で、アップップ

目の前を通り過ぎる膨大な量の活字の中から、心に引っかかった言葉をチョイス。
その他、音楽編、自然編も有り。

自然はそんなにヤワじゃない

2009-08-06 00:24:24 | 活字の海(書評の書評編)
著者:花里孝幸 (新潮選書・1050円)
評者:養老孟司 毎日新聞 2009年8月2日 東京朝刊

※ この書評の原文は、こちらで読めます

本書サブタイトル:誤解だらけの生態系
書評サブタイトル:「生物の多様性」を多様にとらえるために



地球の自然を、引いては生態系を考えるときに重要なファクターが、
二つ有ると思う。

一つは目線の取り方。
もう一つは、時間スケールの考え方。

いずれの場合にしても、重要なポイントは誰の立場から考えるのか?
ということである。

普通なら、まずは人間の立場となるだろう。

どういう自然が好ましいのか?
地球に優しい自然というときも、ベースにあるのはそれが人間に優しい
かどうかということを差す。

勢い、主体はヒトということになる。



これが、地球そのものを擬人化して、その視点と考えたとき。
話は全く異なる様相を呈する。
そこでは、人間は単なる生物の多様性を構成する要素の一つに過ぎない。

となれば。
全地球的生命体ガイアの視点でみたときに、どのような自然の姿が
望ましいのか。

いや。
そもそも。
ガイアにとって望ましい姿というものの同定が可能なのか?
あるがままの姿を、そのまま受け入れていく。
そうした考えもあるのではないか?

こうした考察を行う際の主体は、当然地球そのものとなる。


そう考えたとき。
環境保護という言葉が、如何に人間主体の偏った発想かがよく理解
出来る。
そもそも、環境とは保護されるべきものなのか?
そして、それは一体誰のために行われるべきものなのか?

自然のためか?
人間のためか?
いや。人間も自然の一部と考えれば、人間も含めた自然のためか?


書評子によれば、この著者は思い切った割り切り方をしたようだ。
すなわち。
生態系という概念が、そもそも人間から生まれた以上、それは
人間のためにあるべきだ、と。

判ったような口調で、人間さえいなければ等と口賢しいことを
唱えても、所詮偽善に過ぎるというもの。

それよりも、自分達が生きていくために必要な環境こそが
もっとも重要なテーマであり、それを維持するための生態系とは
畢竟人間のためにあるべきだということである。

うーん。
ここまで言い切るとは。
正直、こちらの想像の上をいかれてしまった。

標題からして、自然とは清濁ともに併呑するものである。
それは、自らを汚していく人間の存在も例外ではない。
人間を汚染源として排除するのではなく、そうした存在も含めた
多様性こそが生態系を考える際の基本となるものだ。

といった論旨をなんとなく予想していたのだが。

それを、更に突き抜けてしまうとは。

勿論、だからといって、人間本位に生態系を自在に弄(いじ)くり
まわしてよいということを著者が言いたいのではなく。

そうしたものさえも併呑する自然の懐の広さを、多様性と定義する。
その点こそが、著者の思いなのだろう。

そして、それを端的に表現したのが、書評子によるサブタイトル
なのだ、と思う次第である。


(この稿、了)


(付記)
ちなみに。
かつて、この命題を抱え、全人類を敵に回しても自然を守り抜こうと
した一人の男がいたことを、ここに記しておこう。
その男の名は… 東方不敗。そう。マスターアジアその人である。




自然はそんなにヤワじゃない―誤解だらけの生態系 (新潮選書)
花里 孝幸
新潮社

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生態系で検索すると、こんな本が出てきた。
全く、本の多様性も凄いなあ。読んでみたい。
ネッシーに学ぶ生態系
花里 孝幸
岩波書店

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