4月の納骨のとき以来の墓参り。
12日、土曜日は前日の雨から一転、秋晴れとなった。
朝の散歩から戻り、10時ちょうどに出発。レインボーブリッジを渡り順調に走行していたら
「中央高速道路情報」「事故渋滞、国立府中まで120分」の電光表示。「仕方ない!新宿で首都高速を降りよう・・・」
新宿からは青梅街道を走ることになる。
私事、高校を出て働き始めたのがマツダのディーラー。この青梅街道沿いの荻窪に営業所があった
二十歳のころ中古の車を買って、住まいのあった江戸川区から車通勤した。青梅街道はその通勤道。
街並みはずいぶん変わったけど、その営業所はあった。しかし建物はあたらしくなってディーラー名も代わっていた
確か?ここに喫茶店があったはず。ここには床屋が・・・そして出前をとった中華や日本そば屋が・・・
なつかしいそれらはすべてなくなっていた
近くの善福寺公園へは新車の試乗や修理後の試運転で毎日のように行った。今回は寄らなかったけど
たぶん、ここだけは変わってないだろうナ? また、そうあって欲しい・・・
青梅街道から小金井街道を走りJR武蔵小金井駅を過ぎると、ほどなく目的地の多磨霊園だ。
JR中央線、いまは高架になっているが当時は踏切だった。
武蔵小金井駅のそれは「開かずの踏切」と呼ばれるほど有名だった。
なにしろ朝の通勤時間帯では踏切の開いている時間が1時間で3分ほどしかなかったのだ・・・
全国でも1~2を争うほどの「開かずの踏切」だった。
イライラして渡っていたあの頃が思い出される・・・
多磨霊園に隣接して「運転免許試験場」がある。18歳のときここで普通免許をとったのだが・・・
なんと、受験回数12回目でやっと合格。だから少なく見積もっても12回は通ったことになる。
落ちた場合は再試験の申し込みをするのだが、その費用が足らず駅ちかくの質屋で時計を入れたこともあった
もちろん、その質屋も今はない・・・
皮肉にも中央高速道路の事故渋滞のお陰で、なつかしい思い出を味わうことができた
兄の俗名が入った墓誌はなんとも切ない・・・
お参りをすませ、霊園内のベンチで昼食。天気もいいので以前より行きたかった浅間山に行くことにした
浅間山は霊園に接して存在する小高い山である
霊園から通じる道を歩き、吊り橋を渡る・・・
渡りおえて左に折れると浅間神社の鳥居がある
登り切ると山頂に出る。浅間山79.6mだ!
山頂の浅間神社。木立に囲まれてうす暗い・・・
すすきは秋たけなわを感じさせてくれる
遊歩道にて・・・日の当たる場所と木立の影のコンスタストが強すぎる
紅葉はすすんでいた・・・
以前から登りたかった浅間山。
去年、お袋の法事の際に「こんど、みんなで登ろう!」って、兄が言っていた山である
こどものころ、毎年のお彼岸にはお袋に連れられて家族で墓参りをした。
偶然にもお袋の実家の墓もここ多磨霊園にある。まず西山家の墓を掃除し花を手向けお線香をあげ
その後、実家の墓に行ってお参りするのが、恒例になっていた。
多磨霊園はとにかく広い。子どもの脚では一時間ほど歩るかなければならなかった・・・
両家のお参りが済むと、待ちに待った昼食となる。墓石に腰を下ろしおいなりさんを食べる
毎回、お弁当はおいなりさんときまっていた。
それが墓参りの唯一の楽しみだった気がする・・・
そして帰るのだが・・・もどる道すがら、こんもりとした丘が見える。浅間山である
毎回のように、兄が「あの、山に登りたい!」と母に言う。
母は「遅くなるからダメ!」と言ったかどうか?記憶にはないが、いつも兄の希望は叶わなかった
けっきょく、兄は子どものころからの願いを果たせぬまま、この3月に亡くなった・・・
そんなこともあって、いつか兄のかわりに登ろう!と思っていた
12日、土曜日は前日の雨から一転、秋晴れとなった。
朝の散歩から戻り、10時ちょうどに出発。レインボーブリッジを渡り順調に走行していたら
「中央高速道路情報」「事故渋滞、国立府中まで120分」の電光表示。「仕方ない!新宿で首都高速を降りよう・・・」
新宿からは青梅街道を走ることになる。
私事、高校を出て働き始めたのがマツダのディーラー。この青梅街道沿いの荻窪に営業所があった
二十歳のころ中古の車を買って、住まいのあった江戸川区から車通勤した。青梅街道はその通勤道。
街並みはずいぶん変わったけど、その営業所はあった。しかし建物はあたらしくなってディーラー名も代わっていた
確か?ここに喫茶店があったはず。ここには床屋が・・・そして出前をとった中華や日本そば屋が・・・
なつかしいそれらはすべてなくなっていた
近くの善福寺公園へは新車の試乗や修理後の試運転で毎日のように行った。今回は寄らなかったけど
たぶん、ここだけは変わってないだろうナ? また、そうあって欲しい・・・
青梅街道から小金井街道を走りJR武蔵小金井駅を過ぎると、ほどなく目的地の多磨霊園だ。
JR中央線、いまは高架になっているが当時は踏切だった。
武蔵小金井駅のそれは「開かずの踏切」と呼ばれるほど有名だった。
なにしろ朝の通勤時間帯では踏切の開いている時間が1時間で3分ほどしかなかったのだ・・・
全国でも1~2を争うほどの「開かずの踏切」だった。
イライラして渡っていたあの頃が思い出される・・・
多磨霊園に隣接して「運転免許試験場」がある。18歳のときここで普通免許をとったのだが・・・
なんと、受験回数12回目でやっと合格。だから少なく見積もっても12回は通ったことになる。
落ちた場合は再試験の申し込みをするのだが、その費用が足らず駅ちかくの質屋で時計を入れたこともあった
もちろん、その質屋も今はない・・・
皮肉にも中央高速道路の事故渋滞のお陰で、なつかしい思い出を味わうことができた
兄の俗名が入った墓誌はなんとも切ない・・・
お参りをすませ、霊園内のベンチで昼食。天気もいいので以前より行きたかった浅間山に行くことにした
浅間山は霊園に接して存在する小高い山である
霊園から通じる道を歩き、吊り橋を渡る・・・
渡りおえて左に折れると浅間神社の鳥居がある
登り切ると山頂に出る。浅間山79.6mだ!
山頂の浅間神社。木立に囲まれてうす暗い・・・
すすきは秋たけなわを感じさせてくれる
遊歩道にて・・・日の当たる場所と木立の影のコンスタストが強すぎる
紅葉はすすんでいた・・・
以前から登りたかった浅間山。
去年、お袋の法事の際に「こんど、みんなで登ろう!」って、兄が言っていた山である
こどものころ、毎年のお彼岸にはお袋に連れられて家族で墓参りをした。
偶然にもお袋の実家の墓もここ多磨霊園にある。まず西山家の墓を掃除し花を手向けお線香をあげ
その後、実家の墓に行ってお参りするのが、恒例になっていた。
多磨霊園はとにかく広い。子どもの脚では一時間ほど歩るかなければならなかった・・・
両家のお参りが済むと、待ちに待った昼食となる。墓石に腰を下ろしおいなりさんを食べる
毎回、お弁当はおいなりさんときまっていた。
それが墓参りの唯一の楽しみだった気がする・・・
そして帰るのだが・・・もどる道すがら、こんもりとした丘が見える。浅間山である
毎回のように、兄が「あの、山に登りたい!」と母に言う。
母は「遅くなるからダメ!」と言ったかどうか?記憶にはないが、いつも兄の希望は叶わなかった
けっきょく、兄は子どものころからの願いを果たせぬまま、この3月に亡くなった・・・
そんなこともあって、いつか兄のかわりに登ろう!と思っていた
入院中の姉もいますので、遠いけれど
出来る限り会っておこうと思っています。
姉妹との思い出は、両親との思い出に繋がりますね。
命あるもの、切ないけれど、必ず別れが来てしまいます。
長生きしてくれている親孝行娘も
ラフィの元へと駆けていく日が近いです。
兄弟・姉妹が亡くなる、という経験は衝撃ですね?
親との別れは仕方ない!とある程度割り切れるけど・・・
我われもそんな年齢になってきた。ということだけど
なにかむなしいですよね
親族の死については、
2歳の時に父親を亡くしました。でもまったく記憶に
ありません。まだ2歳ですからね?
それと、兄妹では妹が生後10日で死んだそうです。
実は、私は双子だったのです。二卵性の・・・
相方の妹です。相当な未熟児だったそうです。たぶんお腹のなかで
栄養分を私がとってしまったのでしょう?
私は生まれるまえから生存競争をしていたことになります
もの心ついてからは、昨年の母の死と今年の兄の死は
初めてということなんです・・・
>命あるもの、切ないけれど、必ず別れが来てしまいます。
ホント、実感ですね、これからは、そんな経験をたくさんしていかなければなりません
そう考えると、人生って切ないですよね?
自分はこの辛さに耐えられるだろうか?恐怖です
この恐怖を、先人たちはよく耐えてきたな?て感心します。
自分は負けそうです・・・
>長生きしてくれている親孝行娘も
ラフィの元へと駆けていく日が近いです。
あみちゃん!よく頑張りましたね。もう十分尽しましたよ・・・